第二八話 天文十一年三月上旬『追憶と覚悟』

「なっ!? 短慮な奴と前々から思っておったが、早まったことを……っ!」


 信秀兄さまが唖然とつぶやく。

 さすがの尾張の虎も、事態の急変に心が追い付かないようだった。


「問題ありません」


 一方のわたしは眉一つ動かすことなく、淡々と言う。


 実は史実でも、織田信友は武衛様――斯波義統を暗殺しているのだ。信友の信長暗殺計画を信長にバラしたから、という理由で。

 年初の時も、わたしが信秀兄さまの妹って理由だけで、割と後先考えずに意地悪してきたのも記憶に新しい。


 そういう短慮な奴が、廃嫡を迫られて暴発する。

 可能性としては十分に有り得ることであり、想定の範囲内に過ぎない。

 だがそれは、あくまで斯波義統殺害に関してで、


「何が問題ないというんじゃ!? 武衛様が討ち取られたのじゃぞ!?」


 ここまで信秀兄さまが激高するとは、全く想像もしていなかった。

 ガンッ! と脇息に拳を叩き付ける信秀兄さまの目には、うっすらと涙がにじんでいた。


 そういえば、仲良かったんだっけ。

 誤解をしていた。

 かつて信秀兄さまは那古野城を、城主の今川氏豊と仲良くなって油断させてから、裏切りと謀略でまんまと奪い取ったことがある。

 てっきり武衛様の事も政略として利用しているだけなのだろう、と思っていた。

 でもそれはあくまでわたしの勝手な思い込みで……


「昔からわしなんかによく目をかけてくださり、影に日向に支援してくださった。今のわしがあるのはあの方のおかげよ。それを……っ!」

「も、申し訳ございません!」


 わたしは慌ててその場に平伏する。

 今さらながらに、わたしは自らの致命的なミスに気づく。


 今回の戦略、わたしはどこか人を駒扱いしていた。

 無意識に、ゲームのキャラクターのように見ているところがあった。

 特に会ったこともない人物は。

 だから、簡単に切り捨てる判断を下せた。能力値の低いキャラだから、と。


 けど違うのだ。

 彼らは決して駒でもキャラでもない。血の通った人間なのだ。

 死ねば悲しむ人だってきっといる。

 今の信秀兄さまのように。


 そんな当たり前すぎることを、わたしは失念していたのだ。


「~~っ! 聞かなかったことにしてやる。今はしばし一人にせよ!」


 信秀兄さまはしっしっと犬を追い払うように手を払った後、ふいっとわたしから視線を外し、目頭押さえてうつむく。

 完全にこちらを拒絶している気配がある。

 そのひどく落ち込んだ姿に、昔の自分への後悔と、武衛様への罪悪感と、信秀兄さまへの申し訳なさが心の中で渦巻く。


 ぎりっ。

 だが、わたしは奥歯を噛み締め膝を握りしめ、それらを心の底に押さえつける。


(嘆くのも、自分を責めるのも、もっと後! 今ここで引くわけにはいかない)


 必死に自分に言い聞かせる。

 上に立つ者は、決して感情に呑まれてはいけないのだ。

 上の者が感情で物事を判断すれば、その被害は下の者全員が引っ被ることになる。

 その事をわたしは、嫌というほど学んだのだ。

 わたしの初陣とも言えるあの戦いの中で。



 元亀三年(一五七三年)一一月 岩村城――


「まだ!? まだ後詰ごづめはこないのですか!?」


 つやは金切り声で重臣の藤井常高ふじいつねたかを問い詰める。


 後詰めとは援軍の事である。

 彼に聞いたところで望む答えが返ってこないのはわかっている。

 それでも問わずにはいられなかったのだ。


 籠城してはや半月ほどが経つ。

 幾度かに分けて起こった小競り合い、いつ終わるともしれぬ包囲、待てど暮らせど一向に来ない援軍……つやの精神はもう限界に達していた。


 最初の頃は勇猛果敢に戦っていた彼女であるが、戦いに身を投じるのは今回が初めてである。

 当然、籠城戦の経験もない。

 今回が初めてであり、にもかかわらず女城主として指揮を執っているのだ。


 だというのに、背負うものが多すぎた。

 領民、城兵、亡き夫の親族、信長から預かった彼の息子にして最愛の義息御坊丸。

 自分がなんとかしなければ、彼らの命がすべて失われるのだ。

 両肩に乗っかる数百数千という命の重荷を、つやはもう潰れる寸前だった。


「もう皆限界よ! どうすればいいっていうの!?」


 何もかもがわからなさ過ぎて、不安すぎて、もう頭がどうにかなりそうだった。


「これまで通り、防衛に徹すればよろしいかと。大丈夫、我が岩村城は峻厳しゅんげんなる地形を利用した要害堅固な城でございます。いかなる敵が来たところで鎧袖一触がいしゅういっしょくです」


 藤井が淡々と告げる。

 代々遠山家に仕え、岩村城を知り抜いている彼である。


 その言葉はまったくもって正しかった。

 実際、攻め手の秋山虎繁とらしげは、この難攻不落の山城を前に攻めあぐね、今まさに手をこまねいていたのだから。


 だが、そんなことは何もかもが不慣れなつやにはわからない。


「そう言い続けてもう半月じゃない! こんなことをいつまで続けろって言うのよ!?」

「今しばらくのご辛抱かと。信長公も浅井朝倉との戦いの最中なれば、どうしても多少の時は必要でしょう。なに、水源ならば井戸で確保できておりますし、兵糧ならまだ三ヶ月はもちます」

「そういう問題じゃないわよ!」


 つやは思わず手に持っていた扇子を感情のままに床に叩き付ける。


 この半月、幾度も敵が攻めてきた。

 そのたびに何人も死んだのだ。


 大半は武田勢であったが、自分たち遠山勢も決して無傷というわけではない。

 しかも相手は、武田の猛牛とまで言われる名将秋山虎繁だ。

 明日にでも、この本丸まで敵が乗り込んできてもおかしくない。


 そうなればいったいどれだけの人が死ぬのか。

 昨日まで親しくしていた者たちが、明日には全て屍になっているかもしれないのだ。

 実際の武田勢は初門を抜いたぐらいで一の門あたりで難儀していてそんなことは有り得ないのだが、恐慌状態に陥っていた彼女には、十分にあり得そうに思えてならなかった。


 そこに敵方の将秋山虎繁より一通の書状が届く。


『おつやの方、女ながらに戦場に立ち兵を鼓舞する貴女の姿を一目見て、心底惚れ申した。我が妻となってもらいたい。さすれば領民、城兵、養子であられる御坊丸殿の命、全て保証致しましょう』


 その誘いは、漆黒の闇の中でもがくつやにとっては、まさしく一条の光にしか見えなかった。

 自分さえ敵に下れば、全員が助かる。

 この両肩に乗っかった数百数千という命の重荷を、無事に降ろすことができる。


 この時のつやにとっては思わず飛びつかずにはいられない、まさに禁断の果実であった。

 そして、つやは開城を決意し武田に下る。

 一一月一四日のことだった。


 その一ヶ月半後、織田徳川勢が五〇〇〇の兵をもって岩村城を取り返しに来たとつやは後になって聞いた。

 兵糧的にも、十分に耐えしのげる日数だった。

 あの時、つやが甘言に惑わされず耐え抜いていれば、岩村城を守り抜くことが出来たということだ。


 秋山虎繁自体は、約束をすべてきちんと守り、そしてつやのことを心から愛してくれた。

 その事には心から感謝しているし、嬉しくも思っているし、夫のことを愛してもいた。


 だが一方で、心のどこかにこの時のことが、つやの心に抜けない棘として残ったのもまた事実である。

 義息の御坊丸に武田の人質生活を強いずに済んだのではないか。

 自分に期待してくれた織田家の人たちに、自分はあの失態でどれだけの辛苦を味わわせたのだろうか。

 そんな中で、裏切者の自分だけが愛する人とのうのうと幸せに暮らしてもいいのだろうか。

 なによりも――


 二年後、自分についてきた岩村遠山家の一族郎党全てが、信長に殺されることにもならなかったのではないか。

 前世でも今世でも、何度も何度もフラッシュバックし心が痛む、苦い記憶だった。


 ……

 …………


(ったく、いやなこと思い出しちゃったわ)


 わたしは自嘲とともに顔をしかめる。


 脳裏に自分の不甲斐なさのせいで死んでしまった遠山の家臣たちの顔がよぎっては消え、よぎっては消えていく。

 おそらく、あの時のわたしと今の信秀兄さまの姿がどうにも重なって見えたせいだろう。


 だからこそ、伝えねばならなかった。

 たとえそれが、冷酷非情の悪魔の所業だとしても。


「お気持ちはお察し致します。が、あえて言わせていただきます。泣いている場合ではございません。これ以上ない好機です」

「なにぃっ!?」


 ギロリと鬼の形相で睨みつけられる。

 その眼には怒りや敵意、憎悪が燃え盛っている。


「下がれと言ったであろう! それとも無理やり放り出されたいか!?」


 ぐいっと乱暴に胸倉を捕まれる。

 怖い。

 まだ幼児の身体からすると、信秀兄さまの体はまるで熊のようにさえ感じる。


 だがそれ以上に、悲しかった。実の兄にこんな眼を向けられるのが。

 これ以上言えば、わたしは二度と信秀兄さまに笑いかけてもらえなくなるかもしれない。


 それでも言わねばならなかった。

 上に立つ者が感情に呑まれ判断を誤れば、多くの命が失われる。

 あんな思いをするのはもう二度とごめんだし、織田家の人間として信秀兄さまにもさせるつもりはなかった。


「黙りませぬ! 繰り返しになりますが、またとない好機なのです!」

「なっ!? まだ……」

「逆賊織田信友を討ちましょう。今なら大義名分が立ちます。兵は拙速を尊ぶと申します。悲しむのは後、今は一刻も早く動くべきです!」


 ジッと信秀兄さまの目を睨み返し、わたしははっきりと言い切る。

 本能寺の変の時、訃報を知ったばかりの秀吉に光秀を討てと諫言した黒田官兵衛は、こんな気持ちだったのかもしれない。


 実際、危急を要するのは確かだった。

 織田信友の凶行は、極めて突発的だったのは確かだ。

 入念な準備をしてのものではない。

 時間を与えれば、それだけ面倒になるだけである。


 ならば対処する暇も与えず、一気呵成いっきかせいに叩き潰すのが最も敵味方ともに損害が少なくて済む。

 戦国乱世の時代、争いは避けられない。

 話し合いでとか、皆仲良くとか、出来ればそれに越したことはないけど、そんな絵空事は通用しなない。


 ならせめて少しでも味方の流す血を減らす。

 それがわたしの何にも勝る信念だった。


 しばしの沈黙の後、信秀兄さまはぎりっと奥歯を噛み締めうめくように言う。


「……わかった。確かに貴様の言う通りである」


 その言葉に、わたしはほっと安堵の吐息をこぼす。

 激しい悲しみや怒りの中でも、諫言かんげんに耳を傾ける理性がちゃんと残っている。

 信秀兄さまは、昔のわたしとはやっぱり違う。


「そこの者! 急ぎ古渡に戻り枇杷島びわじま川以南の領主たちに触れを出せ! 明日の夜明け前までに、兵を集められるだけ集めて那古野に集結せよ、とな!」


 斯波義統討ち死の報を持ってきた騎馬武者に指示を飛ばす。


「……えっ!?」


 先程までのわたしと信秀兄さまの言い合いにすっかり呑まれていたらしく、騎馬武者は間の抜けた声を上げるも、すぐにはっと我に返り、


「は、ははっ! 承りました!」


 すぐさま馬に飛び乗り駆けてゆく。

 それを見送ってから、信秀兄さまがくるりとまたわたしのほうを振り返る。


「忠言、感謝する。おかげで千載一遇せんざいいちぐうの好機をみすみす見過ごさずに済んだわ」

「いえ、わたしのほうこそご無礼つかまつりました。処罰はなんなりと。さすがに殺されるのは勘弁願いたいですが」

「ふん、貴様のような有用な奴を殺すなど、そんな勿体ないことをするか。貴様もそれは計算済みの諫言であろう」


 信秀兄さまはつまらなさげに鼻を鳴らす。

 

 あはは、バレてるなぁ。

 まあ、仰るとおりである。


 なんだかんだ歴史的に見ても、信秀兄さまって身内に甘い人だからね。

 それで晩年はグダグダになったところあるし。

 でも、わたしはそんな身内に甘くて優しい信秀兄さまがなんだかんだ好きなんだけどね。


「とは言え、言われっぱなしは面白くないのも事実。あれだけでかい口をわしに叩いて見せたんじゃ。口だけじゃないところも見せてもらわんとなぁ?」

「……へ?」


 前言撤回である。

 にたぁと笑う信秀兄さまは、甘くも優しくもなさそうだった。

 嫌な予感が止まらない。

 あれ? この展開ってまさか……


「貴様が仕向けた戦じゃ。当然、貴様も出陣するんじゃよなぁ?」


 あ~、やっぱりぃっ!

 これは拒否権なさそうだなぁ。

 まあ、確かに人をけしかけておいて、自分は高みの見物では筋が通らない。


 仕方ない、か。

 ならどうせだ。派手にいくとしますか。


「ええ、是非もないことでございます。そこで一つ、わたしに策があるのですが」

「ほう? 女孔明の献策か。是非うかがいたいものだな」


 信秀兄さまは興味深げに、耳を寄せてくる。

 わたしはごにょごにょとその耳元で考えを語り、


「……やはり貴様は他家にはやれんな!」


 信秀兄さまはなんとも言えない苦笑いを浮かべる。

 その口元がわずかにひくついている。

 そこまでおかしなこと言ったつもりもないんだけどなぁ?


「何度も思うたことではあるが、今ほど貴様が敵でなくて良かったと思うたことはない。いっそ信友が哀れになってきたわ」


 とりあえず、この物言いからすると、わたしの策に反対ではなさそうである。

 んじゃまあ許可も出たことだし、今世での初陣と参りましょうか!

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