第二六話 天文十一年二月上旬『女孔明の片鱗』

 下剋上――

 下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して権力を奪取する、まさに戦国時代を代表する言葉である。


 秀吉が信長の子から、そして家康が秀吉の子から天下をかっさらったように、戦国時代には横行していたかのように一般には思われがちだが、実のところそんなに数多くはなかったりする。

 むしろ数えられる程度。


 だいたいの場合においては、主君を廃して主君の一族の別の誰かを新たな主君として擁立する、『主君押込』がほとんどであった。

 身分の上下が大きく入れ替わるとされてきた戦国時代においても、実は『主君の家』と『家臣の家』という家柄の上下関係は割と固定化され、覆されることはほとんどなかったのだ。


 対してわたしの『守護代になり替われ」は、家として主君になり替われである。

 乱世のこの時代にあっても、それは絶対に許されないことだった。


「それは……神託か?」


 ごくりと唾を飲み込んだ後、極めて緊張した面持ちで信秀兄さまは言う。

 その顔にはびっしりと脂汗の珠が浮かんでいる。

 主家を乗っ取るという大罪に、さしもの信秀兄さまも平静ではいられないらしかった。


「半分は神託、半分は私見といったところでしょうか」


 信秀兄さまが主家を討伐し、守護代の地位を乗っ取ったという記録はない。

 それは息子の信長がやったことである。


 そして、それにより織田家が真の意味で統一されたことの意義は極めて大きかった。

 後々のことまで考えれば、たとえ非常識であろうともここでやっておいて損はない、とわたしは思う。

 だがそれをすることで、本当に織田家にとってプラスになるのかは、歴史のイフである以上、わたしにはわからない。

 だから、所詮は私見である。

 そこそこ上手くいく自信はあるけどね。


「半分は私見か……続けよ。なぜそう思うに至った?」

「はい。今この尾張で最も力が強く勢いがあるのは信秀兄さまです。それはまぎれもない事実」

「うむ」

「とは言え、そのご身分は、尾張守護、斯波しば義統よしむね様の家臣、守護代織田達勝みちかつ様のそのまた家臣にすぎないというのも、また事実です」

「……そうじゃな」


 信秀兄さまが渋い顔でうなずく。

 まあ、彼にとっては面白くない現実だろうしね。


「あくまで現在の織田弾正忠家の繁栄は、信秀兄さま個人のお力によるもの、と言えます。信秀兄さまのお力が衰える、あるいは万が一ご逝去などされようものなら、途端にこの尾張は群雄ひしめく混乱状態に陥るでしょう」

「それは神託として捉えてよいのか?」

「はい、これはわたしが素戔嗚尊様よりお教え頂いた未来です」


 実際、信秀兄さまの死去後、絶対的存在を失った尾張では複数の織田氏同士で泥沼の争いが繰り広げられることとなる。

 そんな状態からたった数年で守護代二家を滅ぼし、弟の家も従弟の家も潰し、尾張を真の意味で再統一するという信秀兄さまにもできなかったことを成し遂げるあたり、やはり信長は化け物であるが。

 とは言え少なくともわたしとしては、そんな状態はひたすら怖いので、是が非でも避けたいところだった。


「それを防ぐためにわしに守護代になり替われ、と貴様は申すのじゃな?」

「はい、余裕の出来た今だからこそ、足場をお堅めになるのも肝要かと存じます」


 守護代の役職は、まさに尾張の支配者の証明書と言える。

 大義名分、建前が重要なのは、二一世紀も戦国時代も変わらない。

 仮に信秀兄さまが亡くなったとしても、その子が守護代の職を引き継げば尾張の混乱は史実ほどひどくなることはまずないはずだった。

 

「…………ふうううう」


 しばしの間の後、信秀兄さまはなんとも言えない重い嘆息をこぼす。

 そのまま苦々しげな顔で頬杖をつき、


「貴様の言わんとすることも、まあ、わからんでもない。確かにわしが何らかの失態を犯し求心力を失えば、間違いなく尾張は乱れよう。だが守護代に取って代わるなど、それはそれでわしを討つ口実を周りに与えるようなものじゃ。将来の禍根を断つために、今滅びることになりかねん。それでは本末転倒じゃ」


 信秀兄さまの言い分は至極もっともではあった。

 実際、斎藤利政(道三)は主君である土岐頼芸を追放し国を乗っ取るや、信秀兄さま自身が越前(福井県)の朝倉氏と共謀して、土岐氏復興を名目に美濃(岐阜県)へ攻め込もうとしていたのだ。


 自分がすることは、他人だってするものである。

 ちょうど尾張の周囲には、今川家、六角家、北畠家と守護職の名家も揃っている。

 そんな状態で主君にとって代わろうなど、相手に大義名分を与え、よってたかって袋たたきにしてくれと言っているようなものだった。


「確かに、信秀兄さま主導でやるのは悪手です。が、正当なお方がそう仰るのであれば何も問題なくありません?」


 にこっとわたしが意味深に笑うと、それだけで信秀兄さまはわたしの意図を察したようだった。


「っ!? 武衛ぶえい様か!?」

「はい、左様にございます」


 武衛様とは、現尾張守護、斯波義統しばよしむねのことである。

 斯波氏は室町幕府将軍である足利氏の有力一門であり、管領職を持ち回りで任されるほどの名家である。

 それだけに分家も多く、斯波氏嫡流のことを特に武衛家と呼んでいるのだ。


 ぶっちゃけもはや大した力もなくお飾りの神輿みこし傀儡かいらいに等しいが、それでも名目上は今も尾張を治め支配する守護大名は彼だった。

 立場上は、守護代である織田達勝みちかつも、信秀兄さまも、彼の家臣なのである。

 その権威を利用しない手はなかった。


「信秀兄さまは武衛様とも懇意こんいになされ、信頼を勝ち得ておられるとか」

「そんなことまで素戔嗚に教えてもらったのか?」

「はい」

「ふん、神も下世話なものだ。が、成程な。武衛様の主命であれば、わしとて断る道理はないし、達勝たちも大っぴらには逆らえん。だがどう口説く? さすがにそう簡単に首を縦に振ってくれるとは思えんぞ?」


 前述の通り、戦国時代といえど官職は世襲が基本である。

 織田大和守家は初代織田教信のりのぶより守護代として尾張を実質的に統治してきた家柄である。

 百年以上続く伝統を自分の代でとりやめる、というのはなかなかに頷きづらいのは容易に想像できる。

 だが、わたしには秘策があった。


「信秀兄さまが、達勝様の養子になられればよいのです」

「なに?」


 信秀兄さまが少し嫌そうに眉間にしわを寄せる。


 もう一〇年近く前になるのだが、信秀兄さまは達勝様の娘を娶り、義理の親子関係を結んでいた時期があるのだ。

 信秀兄さまの家督相続時のいざこざで、関係は悪化、離縁してしまったが。

 色々苦い思い出もあるのだろう。

 今さらまた親子関係を結ぶなど、まっぴらごめんと顔に書いてある。


 だがそこは、なんとか我慢してもらいたい。

 それで得られるものが、あまりにも莫大なのだから。


「達勝様はすでに還暦近い老齢の身。唯一の男子であられた梵天丸ぼんてんまる様は二年前に夭折され、後継として信友様を養子とされましたが、その出自は尾張三奉行、織田因幡守いなばのかみ家」

「っ! 我が織田弾正忠家と同格、だな」

「はい。さらに申せば、現織田大和守家当主、達勝様の祖父敏定としさだ公は、信秀兄さまの曾祖父でもあらせれます。血縁という意味ではむしろ信友様より信秀兄さまのほうが近い。そして実力的にはもはや比べるべくもなく。信友様は暗愚と評判。尾張の虎と近隣でも畏怖される信秀兄さまが大和守家を継いだほうが尾張も安定する。……な~んて噂を清州城内に流してみる、とか?」


 パチリとわたしはウインクしてみせる。

 なんか途中から信秀兄さまの顔が驚愕に打ち震えだしたんでちょっと茶目っけを出してみたんだけど、う~ん、あまり効果はないみたいだった。


「そうやって儂が大和守家を継ぐのを皆が望んでいるという空気を作れば、武衛様も乗り気になる、か」


 震える声で、信秀兄さまは言う。


「ええ、ご明察の通りでございます」


 さすがに察しがいい。


 結局、小田原評定なんて言葉もあるように、戦国時代も二一世紀も、空気を乱さないことを第一とするのが日本人という民族である。

 ならば、その空気を恣意的に動かし『流れ』を作ってしまえば、人はその流れに容易には逆らえなくなるのだ。

 二一世紀でもマスコミなんかがよくやっている手法である。

 ちょっと悪辣と言えば悪辣な手ではあるが、尾張国内が内乱状態になるのを避けるほうがはるかに優先だった。


「これも素戔嗚の入れ知恵か?」

「いえ、これはただのわたしの私見、女の浅知恵にございます」


 頷けば意見が通りそうだけど、それをするのはさすがに詐欺というものだろう。

 信秀兄さまはフッと苦笑し、


謙遜けんそんするな。やはり貴様をよそに嫁になどやれんな。まさに女孔明、神託などなくとも大した軍師っぷりよ」


 諸葛亮孔明、中国三国志時代の蜀の宰相であり、天才軍師の代名詞的な人物である。

 秀吉を支えた名軍師竹中半兵衛も、そう例えられたんだとか。


 正直そこまで持ち上げられると、嬉しいんだけどちょっと肩身が狭い。

 所詮、わたしのは後の歴史を知っているがゆえのもの、だしね。


「その策、採用させてもらおう。武衛様の側近に金を握らせるのもありか。くくくっ、領土を広げることにばかり傾注しておったが、確かに内を固めるのも重要じゃな。面白くなってきたわい」


 にぃぃぃっとその口の端が吊り上がっていき、鋭い犬歯が覗く。

 まさしく『尾張の虎』の二つ名にふさわしい獰猛な笑みだった。


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