第二一話 天文十一年一月中旬『犬猿の仲』
「うう~、もう疲れたぁ」
筆をすずりに置き、わたしはバタンと畳の上に大の字になる。
すでに今日、五〇ぐらいの書簡に目を通し、花押(サイン)したが、机にはまだまだ大量の書簡が積み上がっている。
信秀兄さまから新領地を賜ったことで、まあ、当然の事ながら、膨大な量の事務処理が発生したのだ!
「ははっ、申し訳ありませぬな。決裁の印だけは姫様にしかできぬことゆえ」
追加の書簡を持って現れたじぃが、苦笑とともに言う。
うげ、まだ追加!? と内心思いはしたが、
「わかっているわ。こちらこそごめんなさい。じぃのほうがはるかに大変なのに泣き言言って」
素直に謝る。
彼の方がわたしなんかより、明らかに仕事量が多いのだ。
今日一日でもわたし以上の書簡に目を通し、返事を書き、何十人もの人と会い、話を聞くなんてことまでしている。
すでに隠居の身だというのに、その仕事量にはただただ頭が下がるばかりである。
「ふふっ、昔取った
本当になんでもないかのように、じぃはかくしゃくと笑う。
「いえ、ほんと大したことありますって。じぃがいてくれなかったらどうなっていたことか」
これは心からの言葉だった。
成経と牛一を家臣に雇ったが、人口一五〇〇人の領地を治めるとなるとまだまだ人手が足りない。
そこで他に人材の心当たりも伝手もなかったので、信秀兄さまに触れを出してもらい、家を継げずくすぶっている次男三男を集めることにした。
信長の真似をするのはちょっと癪ではあるのだが、そうでもしないと家来が集まらないんだから仕方がない。
他家からしても、扱いに困るドラ息子たちを厄介払いできるチャンスである。
結果、三〇人ぐらいの子弟が集まり、その中から見込みありそうなのを六人ほど雇わせてもらった。
その下に付いて雑用をする小者も四〇人ほど村から選抜。
けっこうな大所帯だが、貫高的にはこれぐらいでも少ないぐらいである。
とりあえずそこまではよかったのだが……
ただでさえ右も左もわからぬ新領地で大変だって言うのに、家臣たちもお互いに面識もなければ、ろくに領地管理のノウハウもない連携も取れない新米だらけ。
これで問題が生じないはずもない。
毎日毎日新たな問題が次々と発生し、その対策をいちいち考え、マニュアルを作成する。
その繰り返しである。
領主歴三〇年を超え経験豊かなじぃがいなければ、本当どうなっていたかわからない。
「お疲れ様です、成宗様。少し休憩なされては? プリンとお茶をご用意いたしますゆえ」
「おおっ、助かる。それだけが最近の楽しみじゃわい」
ゆきの言葉に、じぃがにま~っとだらしなく相好を崩す。
信秀兄さま同様、じぃもプリンがいたくお気に入りらしい。
「どうぞ」
「では、頂きます」
差し出されたプリンに行儀よく手を合わせ、じぃはれんげを閃かし振り下ろす。
今の我が領地はじぃがいなければ全く回らない状態である。
こんなものでよければいくらでも食べてもらって英気を養ってもらいたい。
「なんだと、こらぁっ! もっぺん言ってみろ!」
しかし、彼のうららかなスイーツタイムは、野太い怒声によってかき乱された。
じぃが、なんともめんどくさそうに顔をしかめる。
その気持ちが痛いほど伝わってくる。
「上等だ! 表出ろ、こらぁっ! 決闘だ!」
この声は、どう聞いても成経である。
基本的にヤンキー属性の彼は、気性が荒い。
まだ雇って半月程度なのに、その怒声を聞くのはもう何度目だろうか。
とりあえず一〇回からは数えていない。
「やれやれ、あの馬鹿息子が」
「ああ、いいわ。わたしがいきます」
れんげを置いて立ち上がろうとするじぃを、わたしは制して立ち上がる。
「しかし……」
「いいのよ。わたしもずっと机仕事で気晴らしがしたいところだったし。じぃはプリンを堪能してて」
すでにじぃは朝から今まで働きづくめなのだ。
おやつタイムぐらい堪能させてあげないと、そのうち倒れてしまいかねない。
わたしがゆきとはるを伴って声のしたほうに向かうと、
「なんで貴方と戦う必要があるんです? そんなことより、さっさとやり直してください」
「あぁん!? ビビってのか? 俺とやり合うのがこええんだろ!?」
「貴方を怖がってるのなら、こんな文句はつけません。御託はいいから、とっとと仕事をしてください」
「御託並べてんのはてめえのほうだろうが!」
早速、口論が轟いてくる。
相手は予想通り、先日採用した後の信長公記の著者、太田牛一である。
彼はいわゆる超の付くほどに生真面目で几帳面な委員長タイプで、ヤンキー気質の成経はまさしく犬猿の仲と言うしかなく、この手の喧嘩が絶えないのだ。
「はいはい、二人ともそこまでー!」
パンパンと手を叩きながら、わたしは声を張り上げ二人の間に割って入る。
それまでいきり立っていた成経も、さすがに主君の私の登場にグッと下唇を噛んで押し黙る。
「で、今回の原因はなに?」
「姫様が御命じになられた検地の件です。佐々殿の担当分を確認したところ、あまりに
あ~、そういうことね。
戦国時代は土地の大きさとか収穫高がけっこうアバウトなところがあるので、最初が肝心ときっちり測ってしまうことにしたのだ。
正確な収入把握は、領地経営において基本のきと言えよう。
だからでたらめを報告されたら、そもそも検地をする意味がないという牛一の意見はもっともではあるのだが――
「なんでてめえなんかに指図されなきゃなんねえんだよ!?」
吠える成経の言い分にも、一定の理はあるんだよなぁ。
牛一はあくまで成経の同僚であり、上下の差はない。
家柄が物を言うこの戦国時代においては、むしろ佐々家の出である成経のほうが立場は上とさえ言える。
しかも、成経の本来の仕事はあくまでわたしのボディガードで、こういう事務系の仕事は本職ではない。
いきなり新領地が出来て仕事が増え、人手も足りず、毎日火の車な家臣たちの状態を見るに見かねて、好意で手伝いを申し出てくれたのだ。
それでこんな風に上から頭ごなしにやり直せなどと命令されて、頭にこないほうがおかしい。
だが、そんな成経の怒気にも、
「指図するつもりはありません。ただの忠告です。こんな出来では、どうせ佐々の御隠居に差し戻しを喰らうのは目に見えていますから」
「クソ親父がなんだってんだ!? ほっとけ!」
「ほっとけと言われましても、仕事が遅延すれば拙者のほうにもしわ寄せが来ますし、なにより姫様や佐々の御隠居様も困る。なら今から修正したほうが時間の無駄もなく効率的でしょう?」
牛一はわずかも怯むことなく、涼しい顔で淡々と正論を返していく。
ほんっと胆力あるなぁ、この子。
成経の気迫の凄みは、さすがに勝家殿には劣るが、気の弱い者ならまずトラウマレベルの代物だ。
実際、牛一たちと同時期に雇った他の家臣たちも、五人ほどこの場にはいるのだが、みな成経の怒気にビクビクしている。
それを神経がないかのように、物ともしていない。
「あ~っ! うっぜえな! ならもうてめえが適当に直しとけよ!」
おいおい、さすがにそれはちょっとどうかと思うぞ、成経。
熱くなりすぎて、主君であるわたしが目の前にいるってことも頭から吹き飛んでいるらしい。
「それはかまいませんが、その場合はきっちりその旨を報告書にしたためさせて頂きます」
牛一のほうも澄ました顔で火に油を注いでいく。
わざと煽ってんのかとも最初の頃は思っていたが、これ、完全に素で言ってんだよなぁ。
声とかにもまったく悪意や皮肉の色がないし。
(だから全然出世できなかったんだろうなぁ)
しみじみと得心がいったあたしである。
太田牛一は信長にかなり初期から仕え、その後、秀吉にもその有能さを買われ事務仕事を任されていたことが記録に多数残っているにもかかわらず、大名にすらなっていない。
実際、部下にして仕事ぶりを見ても優秀で、いったいなんで? と疑問に思っていたが、まず間違いなく、この空気を読まずにズバズバと思ったことを言ってしまう人柄のせいだろう。
牛一の言ってることのほうが、正論は正論なんだけど、世の中、正論だけでは人は動かないと言うか、むしろ時に人をムカつかせるだけというか――
「ああもう、限界だ!」
成経が吐き捨て、キッとわたしのほうを睨む。
あっ……な~んか嫌な予感。
「こんな奴とは一緒にいられねえ! 姫さん、悪いけど俺は辞めさせてもらうわ。短い間だけど世話になったな!」
やっぱりこういう展開になったか。
佐々成経は、後の小豆坂七本槍にも数えられる優秀な武人である。
まだ戦の絶えないこの戦国の世、こんな事で手放すわけにはいかない、是が非でも引き留めておきたい人材と言える。
一方の太田牛一にしても、確かに空気読めないところはあるんだけど、真面目で勤勉、仕事も丁寧、ソロバンなどの算術にも興味津々でメキメキと上達しており、と今のうちの事情を考えたら、めちゃくちゃ必要な人材なんだよなぁ。
っていうか、新たに雇った子たち、まだ全然使えないので、すでに牛一がいないと領内統治が回らないまである。
あっちを立てればこっちが立たず。
こういう問題を処理するのも、上の人間の仕事とは言え……
はぁぁぁぁ、面倒なことになったなぁ。
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