第十六話 天文十一年一月上旬『織田大和守家の若殿』
ドンッ!
年賀の挨拶に、信秀兄さまの居城古渡城を訪れた時の事である。
廊下を歩いていると、突如わたしは後ろから思いっきり突き飛ばされていた。
八歳の身体は軽々と吹き飛び、床につんのめる。
「い、いった~っ!」
いったいどこのどいつだ!? とわたしはしたたかに打った鼻を押さえながら振り返る。
てっきりまた吉法師(信長)かと思ったが、違った。
年の頃は三〇半ばぐらいといったところだろうか。
蛇のような冷たい目が印象的な、薄気味悪い男である。
おぼろげに、顔に見覚えがあった。
確か……我らが織田
「ん~? 何か蹴ったと思ったが、つやであったか。すまんすまん、小さくて見えなんだわ」
信友様がへらへらと嘲笑を露わに言う。
あ~、これ絶対わざとだ。
信秀兄さまの織田弾正忠家は飛ぶ鳥を落とす勢いであり、今や主家であるはずの織田大和守家はその風下に立たされている。
当然、織田大和守家としては面白かろうはずもない。
だが、信秀兄さまに直接、嫌がらせするのは怖い。
そこでその妹であるわたしに憂さ晴らしした、といったところか。
なんともみみっちい男である。
「大丈夫です。幸いどこも怪我していないようですから」
一応は主家の人間である。
内心の怒りを抑え、愛想笑いを浮かべて応対する。
「でも足元にはお気を付けあそばしくださいね。小石だと思ったものが、地中に埋まる大岩の一角、怪我をするのは信友様、なんてこともあるやもしれませぬ」
もちろん、やられっぱなしで済ますわたしではない。
きっちり皮肉を織り交ぜておく。
「なにっ!?」
思わぬ反撃に、それまでへらへらと笑っていた信友様の顔が凍る。
わたしの言わんとしたことが、伝わったのだろう。
小石、すなわち家臣と下に見ていた信秀兄さまが、実は大岩だった、と。
下手にちょっかいかけたら、その身がどうなるかわからんぞ、と。
「ガキがっ!」
信友様が憎々しげに吐き捨てる。
わたしはキョトンとした顔を装い、
「御身を心配しての言葉だったのですが、何か気に障るような事を言ってしまったのなら申し訳ございません」
素知らぬ顔で言って、深々と頭を下げる。
そして信友様に見えないように、べ~っと舌を出す。
よし、これで多少は留飲も……
「しらじらしい! ガキが! 大人を舐めるな!」
信友様がヒステリックに叫び、ドンッと肩を突き飛ばされ、尻もちをつく。
あいた~! えっ!? ちょっ、この程度でキレるの!?
額面上は心配した言葉でしかないのに。
さっきの突き飛ばしはまだ偶然の事故と言い張れるが、これはもう言い逃れできぬ故意だ。
一応、わたし、今、尾張で最も勢いのある信秀兄さまの妹よ?
それを被害妄想(まあ、実際には皮肉はこめてたんだけど)で暴力を振るったとか、さすがにちょっと後先考えなさすぎでしょ!?
「俺があやつを恐れて何もできぬと思ったか!? その生意気な性根、叩き直してくれる」
バキボキと拳を鳴らしながら、怒りで顔を歪めた信友様が近づいてくる。
どうやら地雷を踏んでしまったのか、完全にぶちギレている。
これはちょっと、やばいかも……。
信友様が足を持ち上げ、思いっきり振り下ろす。
痛みに備え思わずわたしは目をつぶる。
ガッ!
激しい激突音、しかし、肝心の痛みや衝撃はない。
あれ? と思ってそおっと目を開くと……
まず筋肉質な厚い胸板が視界に飛び込んできた。
視線を上にあげると、見覚えのあるむすっとした不愛想顔があった。
「か、勝家殿!?」
そう、そこにいたのは先日、熱田観光の護衛をしてくれた柴田勝家殿だった。
その背中には、信友様の足が乗っかる。
どうやらとっさにわたしに覆いかぶさるように、守ってくれたらしい。
「お怪我はありませぬか?」
「え、ええ」
蹴られたのは勝家殿なのに、まずわたしの怪我の心配をする。
イ、イケメン!
「なんだ貴様は!? 邪魔をするな!」
ガッ! ガッ! と信友様は勝家殿の背中を蹴りまくる。
が、しょせんはお坊ちゃん育ちである。
鍛え上げられた勝家殿はびくともしない。
「うおっ!? っつ~!」
むしろ蹴った衝撃で、信友様のほうが体勢を崩し、無様に尻もちをつく。
ふふっ、いいざまだ。
攻撃がもうないことを確認し、勝家殿が立ち上がり、信友様の方を振り返る。
「ひっ!」
なんとも情けない悲鳴が、信友様の口から漏れる。
まあ、そりゃそうだろう。
勝家殿は身長一八〇センチ前後のこの時代では巨漢も巨漢である。
しかも骨格もがっしりしている。
そんな人間に見下ろされたら、そりゃ怖いに決まっている。
「ぶ、ぶ、無礼者ぉっ! お、俺は織田信友だぞ! 次期織田大和守家当主! 尾張守護代になる男だぞ!」
甲高く震えた声で叫び散らかす。
びびっているのがまるわかりである。
はっきり言って、格好悪い。
身分は信友様のほうが上かもしれないが、男としての格は勝家殿の圧勝である。
「お、俺にこんな恥をかかせおって! 打ち首だ! 貴様など打ち首にしてくれる!」
う、打ち首ぃっ!?
しかも恥って、自分から蹴っておいて、バランス崩して尻もちついただけじゃない!
冤罪もいいところである。
とはいえ、かなり危険な状況ではあった。
見るからに馬鹿殿とはいえ、信友様は本人も言うように、次期守護代が内定している方である。
彼が権威を振りかざせば、道理もへったくれもない。
このままではわたしのせいで勝家殿が打ち首になってしまう!
「何事ですかな?」
そこに落ち着いたバリトンの声が割り込んでくる。
この声は……
「信秀~っ!」
信友様がその名を呼ぶと同時に、呪い殺しそうな眼で信秀兄さまを睨みつける。
が、信秀兄さまはそんな彼の憎悪など素知らぬ顔でしれっと言う。
「うちの妹と家臣が何か粗相をしてしまったようですが、儂のほうで叱っておきますので、今日のところはそれで水に流しませんか? 元旦から我らが揉めるのは
どうやら仲裁してくれるようである。
た、助かったぁ! ほんといいところに来てくれました!
「ちっ! ~~っ!」
信友様が立ち上がるなり、舌打ちとともに忌々しげに顔をゆがめる。
よっぽど信秀兄さまの事が嫌いらしい。
まあ、こうしてみると、この二人、同年代だもんな。
出自もだいたい同じ。
にもかかわらず、実績では大きく水を開けられている。
色々劣等感をこじらせていそうなのが、その眼を見るだけですぐにわかった。
「ったく、なら下の教育ぐらいしっかりしておけ!」
「面目次第もございません」
「あまり調子に乗ってんじゃねえぞ? 俺は義父上ほど甘くはない。俺の代になったら、貴様の好き勝手にはさせんからな!」
信友様はビシッと信秀兄さまを指差し、吐き捨てるように宣戦布告する。
私は思わず得心する。
まさかここまでとは思わず、わたしも読み間違えてしまった。
この人は、いわゆる馬鹿なんだな。
すでに地力では弾正忠家のほうが大和守家を圧倒的に上回っている事を受け入れられていないのだ。
形式だけの守護代という地位にすがり、自分のほうが偉い、凄いと思い込もうとしている。
そう言えば思い出したが、信友様は後年、信長の暗殺計画を立てたり、今川と内通しようとしたりと色々悪さしているが、すぐに発覚していた。
これではそうなるよなぁ、と思う。
身の程というものを知らないのだから。
「ご忠告、胸にとどめておきます。それと、わざわざ年初の挨拶においでいただき、ありがとうございます」
信秀兄さまはペコリと頭を下げるが、これは痛烈な皮肉である。
主筋であるはずの信友様が、信秀兄さまの居城である古渡城のほうに挨拶に来る。
それが二家の今の力関係を如実に示していた。
「義父上に行けと言われたからだ! 来たくて来たわけではない! 本来はお前のほうが来るべきなのだ!」
「そうですね。本来はそうすべきですが、このところ多忙な身でして。だから信友様自らおいでいただき、真にありがたく思います」
癇癪気味の信友の言葉にも、信秀兄さまはやはり臣下の礼を崩さず丁寧に受け答えする。
だがどこかしらじらしい。
慇懃無礼とはまさにこの事を言うのだろう。
そして、馬鹿は馬鹿なりにそれを感じ取ることができたのだろう。
信友様はぎりぎりと忌々しげに奥歯を噛み締め、
「ふんっ! 口ばかりは達者だな! 今に見ておれっ! 貴様なんぞに俺は負けん!」
捨て台詞とともに踵を返し、のしのしとその場を去っていく。
まるで子供と大人の喧嘩だった。
信友様としては、信秀兄さまのことをライバルと思ってるのかもしれないが、可哀想だが役者が違いすぎる。
そのことに、彼だけが気づいていない。
大物気取りが余計に痛々しく、哀れなピエロそのものだった。
「まったくあの御仁にも困ったものだな」
信友様がいなくなったのを確認してから、信秀兄さまがやれやれと嘆息する。
歯牙にもかけぬ相手ではあるが、形式上では敬わねばならない主家であり、信秀兄さまにとってもやはり面倒くさい存在ではあるのだろう。
「まあ、あの通り、後先を考えられぬ癇癪持ちだ。接する時には言葉に細心の注意を払え」
「ええ、身に沁みました。あの方には近づかないようにします」
わたしも「やられたらやり返す!」って反骨精神強いからなぁ。
下手に関わろうものなら、反撃せずにはいられそうにない。
これはもう、触らぬ神に祟りなし、だった。
「ならばよい」
うむっと信秀兄さまは頷き、ついで勝家殿に目を向ける。
「勝家。貴様もよく妹をかばってくれた。礼を言う」
「はっ」
信秀兄さまの礼にも、勝家殿はむすっとした顔で端的に返す。
信秀兄さま相手にもそうなのか。
相変わらずだなぁ。
でもそういうところがちょっとかわいいとも思ってしまう。
信秀兄さまも、勝家殿の気質がわかっているのか態度をとがめるつもりもないようで、うむと一つ頷き、あらためてわたしのほうに視線を向ける。
「ああ、ここで会えたのなら丁度いい。つや、貴様に用があったのだ」
「わたしに、ですか? なんでしょう?」
「年始に子供にやるものと言えば、お年玉だろう」
「えっ!? あ、ありがとうございます」
うわ、やった!
まさかそんなものをもらえるなんて思ってもいなかった。
開発予定のものもまだいくつかあるし、温泉も掘りたいんだけど、屋敷の造営で、ちょっと懐が寂しくなってきてたのよね。
また一〇〇貫文ぐらいもらえると嬉しいんだけどなぁ。
……まあ、さすがにそこまでは欲張りすぎか。
でもせめて尾張一の金持ちだし一〇貫文ぐらいは……
「貴様に日比津一二〇〇貫を与える」
「はいっ?」
一〇〇倍以上!?
予想をはるかにはるかに上回るものを提示され、わたしは間の抜けた声とともに目をぱちくりさせる。
しかも銭一二〇〇貫、ではない。領地一二〇〇貫、である。
一二〇〇貫の領地って、相当なんだけど……。
もちろん何の打診も受けていない。
はっきり言って、寝耳に水もいいところであった。
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