第十一話 天文一〇年一〇月下旬『商売を知らない?』

「ふむ、ふむ、なるほどなるほど」


 男がパチパチとソロバンの珠を弾きながら、しきりに頷いている。


 年の頃は二〇代後半といったところだろうか、最初に会った印象は、なんともにこやかで優し気な印象のイケメンだったのだが、今やその笑みはすっかり消え去り、至極真面目な顔をしている。

 簡単な足し算引き算のやり方を教えただけなのだが、すっかり夢中である。


 それも仕方のないことか。彼にとってはまさにこれは、何にも勝るお宝なのだろうから。

 彼の名は加藤順盛かとうよりもり

 先日、信秀兄さまに紹介をお願いした熱田一の豪商である。


「いやぁ、これは素晴らしいですなぁ! 使い慣れれば随分と仕事が捗りそうですわ」


 ようやく満足したのか、加藤殿が顔を上げるとなんともにこやかな顔で笑いかけてくる。

 うん、好感触っぽい。

 これはかなり期待できそうだ。


「それでは、加藤殿ならこのソロバンにいくらの値を付けられます?」

「ふむ……そうですなぁ。一〇貫文で買い取らせていただきましょう」


 おおっ!

 一二〇万円!

 マジか!?


「売ります!」


 即断即決である。

 そろばん一個が一二〇万円とか売るに決まっている!


「すでに在庫で一〇個ほど作ってあるんですけど、そちらも……」

「ふむ、そちらは、そうですね、一つ二〇〇文で引き取りましょう」

「え!?」


 いきなり五〇分の一のディスカウント!?

 まとめ売りってことで多少の値引きには応じるつもりだったけど、さすがにそれはひどすぎない?

 ほとんどそれ、大工の工賃まで含めると、原材料費にちょっと色付けた程度になっちゃうんですけど。


 そんなわたしの抗議の視線に、加藤殿はフッと笑みをこぼし、


「齢七つのみぎりでこのようなものをお創りになられるのです、姫様は大層賢くていらっしゃる。ですが、商売というものをわかっておられませんな」

「……どういうことでしょう?」

「確かにこのソロバン、とても素晴らしいものです。売り出せば、熱田で飛ぶように売れるでしょう。が、すぐに模造品を売り出す店が出てくるでしょうな」


 確かに加藤さんの言う通りではあった。


 このソロバン、そう複雑な作りではない。

 わたしだって適当に思い出しながら図案を引いて、又右衛門さんに作ってもらったのだ。

 他の人間だって実物を見れば真似するのは容易だろう。


「手前どもといたしましても、姫様から買うより、懇意にしている職人に作らせたほうがはるかに安上がりです。最初の一〇貫文は、いわばこのソロバンという良き物をお教えいただいた情報料ですな」

「なるほど……」


 わたしは渋い顔で唸る。

 なかなかに世知辛い。

 販売は加藤殿に任せてわたしはアイディア料として長期にマージンを中抜きして儲けようとか企んでいたんだけど、そうは問屋が卸さなかったらしい。


 実際、わたしを挟まずに売ったほうが、そりゃ儲かるもんなぁ。

 この時代に特許とかあるわけもないし、模倣し放題なんだから。

 でもまあ、ここまでは計算の範囲内である。


「おっしゃりたいことはわかりました。ですが、正直、安すぎますね。情報料というのなら、せめて一〇〇貫文はいただきたいところです」


 わたしは思い切って十倍プッシュを吹っ掛ける。

 この時代、売り買いは基本、交渉である。

 現代の日本みたいに、値札通りの価格なんてことはまずない。

 相手が一〇貫文というのなら、もっともっと引き出せるはず!


 だが、敵は海千山千の古だぬき。

 顔色一つ変えることなく笑い飛ばす。


「はははっ、それはさすがにボリすぎというものですな。手前どもといたしましては、買わずに帰って自分たちでこっそり作って売ってもよかったのです。それでも一〇貫文支払うとわざわざ申したのは、ひとえに手前どもの姫様への誠意でございます。これ以上はさすがにご容赦ください」


 意訳すれば、本来はただのところを姫という身分を慮って一〇貫文支払ってやるのだ、これ以上駄々をこねるな、といったところか。


 だが、見た目は七つでも、こちとらもう五〇年以上は生きているのだ。

 その程度の駆け引きで押し切られるわたしではない。


「そうですか。では、津島の一五党のところにでも持っていくとしますかね」

「むっ」


 しれっと涼しい顔で言うわたしに、加藤殿の笑顔が凍りつく。


 一五党とは、この尾張のもう一つの商業都市津島を仕切る「四家・七名字・四姓」の土豪たちである。

 そこにソロバンの情報を流せば、当然彼らだって作って売ろうとするだろう。

 そうすれば必然的に加藤殿の先行者利益は減ることになる。


「すでに信秀兄さまにはお知らせし、配下の者に教えるよう言われてはおります。が、それはあくまで織田家中のこと。城下の者に知られるまでまだ三か月程度の猶予はあるでしょう。わたしが口止めをすれば、ですが」


 その言葉を聞くや、加藤殿はそれまでの営業スマイルから一転、苦虫を噛み潰したような顔になる。


 よしよし、けっこう効いたらしい。

 わたしを小娘とあなどるからだ。


 さぁて、ではそろそろこちらも切り札を切るとしますか。


「一〇〇貫文支払ってくださるのであれば、一月間、加藤殿の丁稚でっちたちにソロバンの使い方をきっちり仕込んで差し上げましょう」

「むっ」


 加藤殿の眉がぴくりと動く。

 お、反応あり。

 ならばさらに押すのみ!


「無の状態からあーでもないこーでもないと試行錯誤するより、熟練した者に教えを請うほうがはるかに早く身に付くと思いますよ? 売るとき、使い方を詳しく知る者がいたほうがよろしいのでは?」


 いわゆるパッケージ販売というやつである。

 物はともかく知識と技術は現時点ではわたしが独占してるからね。

 これを高く売りつけない手はなかった。


 わたしの攻勢はなおも続く。


「さらに言えば、ソロバン以外にもいろいろ面白いものをスサノオノミコト様からお教え頂いているんですよね。シイタケの栽培法とか、卵の面白い調理法とか、面白いお酒の作り方とか、効率的に脱穀や精米する方法とか、もうい・ろ・い・ろ♪」

「っ!?」


 加藤さんの目が驚きに見開く。

 ばさっと扇子を開き口元を隠しつつ、わたしはニコッと微笑む。


「わたしの印象をよくしておいたほうが、後々お得だと思いますよ?」


 これが、とどめとなった。

 しばしの静寂の後、加藤殿の長い長い溜息が部屋に響く。


「前言撤回致しましょう。姫様は商売というものをよくよくご存知だ」


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