第5話 不穏
さて、王家の居住区である宮殿にも出入りするようになったイルだが、その後も基本的にはガヴィの執務室に生活の拠点を置いていた。
王子にせがまれて王子の部屋で眠る事もあったが、国王一家の本当にプライベートな空間にずっと居座るのは申し訳なかったのだ。
なんせイルは中身は人間なので、どんな会話もイルには筒抜けである。
イルが悪人であったならこれほど美味しい状況はないだろうが、
基本的にはガヴィと行動を共にしていたが、宮殿に自由に出入りできるようになってからは宮殿で過ごすことも増え、ガヴィも何やら忙しく出かけることも多かった。
今日は昼過ぎから王子のところに向かい、国王一家と夕食を共にして、はしゃぎ過ぎた王子がソファで眠ってしまったのでイルは夕闇がすっかり空を
部屋の前まで行くと衛兵が扉を開けてくれる。
王子を背に乗せて庭を走り回ったので、流石に今日はイルも疲れていた。
ガヴィはまだ帰っていないようだ。
(帰ってきたら音でわかるよね。
……ちょっとだけ休もう)
鼻先で寝室の扉を開け、部屋に滑り込む。
ガヴィが帰ってきたら一応挨拶はしようかな、と思いながらイルは自分の寝床に入り目を閉じた。
東の空がうっすらと白みはじめた暁の頃。
イルは鼻先にかかる人の温かさにふいに意識が浮上した。
(あれ? ……私、結局王子のところで寝たんだっけ……)
寝ぼけた頭でゆっくりと瞼を持ち上げる。
暗がりの中、目の前に飛び込んできたのは、誰かの鼻先、唇。
そして燃えるような赤の色。
まるでガヴィの髪の毛の色みたいだな、と思って
イルを抱き込むようにして寝台で眠っていたのは、赤毛の剣士ガヴィ本人だったからである。
イルが固まっていると、ガヴィは寝ぼけた様子で「……まだ起きるには早ぇだろ……もすこし寝とけ」と少しかすれた声でイルの体を、子どもをあやす様にポンポンとやった。
いつもの小馬鹿にした様子も、茶化した様子もなく、薄闇の中で見たガヴィの
しばらくすると、ガヴィの規則正しい寝息が聞こえてきた。
完全に
心臓が、
***** *****
「だからよ! お前は何べん俺に
赤くなった鼻先を押さえて怒鳴る男は言わずもがなガヴィである。
夜明けの薄闇の中、ガヴィの寝台の中で石のように固まっていたイルだが、太陽の光が窓に差し掛かって来た頃、ガヴィが寝返りを打ちながらイルを抱え直した時にイルは気が付いた。
混乱していて気が付いていなかったが、ガヴィは裸だったのである。
パニックになったイルは人であれば叫んで、とりあえず目の前にあったガヴィの鼻先を――噛んだ。
ガヴィの叫び声に何事かと部屋の前の衛兵が慌てて部屋に駆け込んで来たが、鼻を抑えて怒鳴り散らす半裸の赤毛の侯爵と、見るからに頭を落としてしょげている王子お抱えの狼を見て何も言わずに扉の前の己の定位置に戻っていった。
今日も平和だな、とかなんとか思いながら。
「言っとくけどな! 俺の布団で先に寝てたのはお前だからな?!」
ガヴィ曰く、事の経緯はこうだ。
ガヴィが仕事を終え部屋に戻るとイルがガヴィの寝台ですやすやと眠っていた。
邪魔だったのでゆすって起こしたがイルはぐっすり寝入っており一向に起きない。
諦めて同じ布団に潜り込んだが、ガヴィは普段から寝るときは服を着ないため(もちろん下は履いている)ついイルのぬくもりが気持ちよく、無意識のうちに抱えて眠ってしまった……というのが事の真相らしい。
確かに始めは寝台下にあつらえられた自分の寝床にいたはずなのだが、疲れていた上に最近は王子の寝台で一緒に眠ることもあるため、気付かぬうちに温もりを求めて潜り込んでしまったらしい。
落ち度は完全にイルにある。
だが許してほしい。
中身は十四の人間の少女には刺激が強すぎた。
(結婚もしてないのに裸の男の人と布団に入ってしまった……もうお嫁にいけないかもしれない)
ガヴィがなにやら怒鳴っていたが、それすらもうイルの耳には入ってこず、その日はただただ
***** *****
「……それでアカツキ殿はこんなにしょげてるのかい?」
可笑しさを隠しきれない様子で銀の髪の公爵ゼファーは公務の手を止めて年下の友人侯爵の方を見た。
ガヴィの隣には、アカツキことイルがどんよりと伏せをしている。
「この俺が! こんなに世話してやってるのに三度目だぞ?! さ・ん・ど・め!!」
ガヴィの鼻の頭には
イルは
そんなイルの様子を見て、ゼファーは苦笑いする。
「まあまあ、アカツキ殿も反省しているようだし、そのくらいにしてあげたらどうだい?」
ガヴィは鋭い目つきでゼファーを睨んだ。
「……お前も一回そのお綺麗な顔を噛まれてみたら俺の気持ちがわかんじゃねえの?」
「いや、まあそれはできれば遠慮したいが……」
ゼファーは思わず顔を抑える。
……ああ、消えてなくなりたい。
余計に小さくなったイルを見て、ゼファーが助け舟をだした。
「……なんというか、でも君も少し配慮がかけていたんじゃないのかい?
アカツキ殿は君
他意はないとはいえ、かなり核心をつかれてイルはドキリとした。
「……狼に女とか男とかの性差があってたまるか!」
「……それはそうかもしれないが、女性には優しくするものだろう?」
ゼファーは一般論として言ったのだが、ガヴィはジッと空を見つめたまま黙り込んでしまった。
『ガヴィはちょっと心配しすぎなんじゃないの? ちょっとはイーリャの意見も聞いてあげなよ』
「……こいつに優しくしてどうすんだ。
優しくするのが全部正解だとは限らねえよ」
いつもとは違う反応に、ゼファーは不思議そうな顔をした。
「……ガヴィ?」
ガヴィはハッとすると「なんでもねえ。この話は終わりな!」と強制的に話を終了させた。
ゼファーもイルも不思議に思ったけれど、それ以上に追及することはなかった。
ゼファーとお茶を共にしたあと、ゼファーは国王と共に公務があるとのことで王の執務室に向かい、ガヴィとイルは王子の所に顔でも出すかと三人揃ってゼファーの執務室を出た。
ゼファー・アヴェローグ公爵は先代国王の弟の子であり、現国王エヴァンクールの
その為、王位継承順位で言えば王子と実父に次ぐ三位の位の高さなのだが、実父は側室の子であり、先代国王とは腹違いであった事、
ゼファーの母親がこの国では珍しい銀髪であった事で、ゼファーは幼き頃から常に好奇の目にさらされてきた。
アルカーナ王国は比較的他人種交流が盛んな為、色々な髪色、肌色の人間がいるが六割ほどは黒髪だ。
銀髪は世界から見ても数が少なく稀有である。
しかもゼファーは人が羨むような美貌も兼ね備えていた。
あまりに毛色が違うので、本当にアルカーナ王家の血筋か?などと陰口を叩かれそうなところだが、面差しは先代とも現国王ともそっくりだった為に疑いようもなく、突っ込みどころのない美貌の御子に
父は王位には全く興味がなく、王家の親戚として悠々自適なその日暮らし。
良くも悪くも、毒にも薬にもならない人物であった。
しかしゼファーはその美貌と王位継承位の高さ、尚且つ幼き頃より学も武芸にも優秀であった為、王位争いに巻き込まれるのは時間の問題であったのだ。
自分の置かれている立場の危うさを早々に感じ取ったゼファーは父が早世した後、アルカーナの名や継承権を捨て
ゼファーを看板に
普段は国王の補佐として公務に励み、武芸にも精通している為、護衛役も担っているのだ。
なんの苦労もしたことのなさそうな美貌の公爵が、なかなかの苦労人だったと知って、イルはゼファーに益々親しみを持ったし尊敬出来るなあと思った。
「おや、フォルクス伯爵」
国王の執務室に向かっている途中、前方から
フォルクス伯爵と呼ばれた男性はゼファーに気づくと柔和な笑顔で挨拶をしてきた。
「これはアヴェローグ公爵様、レイ侯爵。
例の件の調査経過報告にて陛下の所に参っておりました。アヴェローグ公はこれから御公務ですか?」
気さくに話す伯爵はゼファーよりもかなり年嵩に見えた。
フォルクス伯爵と言えば何か聞き覚えがあるなあとイルが考えていると……
「ええ、ノールフォールの件では伯爵にもご尽力頂き感謝しております」
生まれた故郷の森の名が出てきてハッとした。
「とんでもございません。
元は我が領地内で起こった出来事。迅速に解決できず、臣下としては心苦しいばかりです。 今後も全力を尽くします」
そう言ってフォルクス伯爵は深々と頭を下げた。
「顔をお上げ下さい伯爵。我々は陛下の臣下として共に力を合わせればよいのです」
そうだ。思い出した。
フォルクス伯爵とはイルの住んでいたノールフォールの森を治めている領主の名だ。
紅の民の一族は村の中では少国家のような形態を保っていたが、アルカーナ王国全体から見れば小さな村であり正式な国ではない。
アルカーナ辺境の森の中にありフォルクス伯爵領の一部である。
伯爵領になる前の古き時代からそこにあった紅の民の一族はその歴史から、ある程度の自治が認められてはいるが、ちゃんと領民として税も納めていた。
昔領主様が村を視察に来たときにフォルクスの名を聞いたような気がした。しかしその時に来た領主様はもっと老年のおじいちゃんだった気がするが……。
「貴殿も代替わりしたばかりでご苦労もあるでしょうが……、共に頑張りましょう」
「……
フォルクス伯爵は一礼すると後でアヴェローグ公爵にもご報告に上がりますと去っていった。
フォルクス伯爵と分かれ、国王の執務室まで来た三人は軽く挨拶をして分かれようと思っていたが、国王よりガヴィにも話があると部屋の前の兵士に言付けられた為、一緒に部屋に入る事となった。
「アヴェローグ公爵様、レイ侯爵様いらっしゃいました」
書類に目を通していたエヴァンクール国王は書面から目線を上げ、口の端を持ち上げた。
「やあ、来たか。
挨拶はいい、そちらにかけなさい」
執務室の脇に誂えられた品の良いソファを指す。
暫くすると女官がティーセットを持ってきた。いつものように紅茶を淹れる。
「ガヴィにも来てもらってすまない。
例の件だが、フォルクス伯爵にも先程報告を受けたので今後の方針について話そうと思ってね」
国王もソファに座り、さして新しい情報はないのだが――と前おいて国王は女官を下がらせた。
ふと、イルは違和感を感じた。
イルの、というより野生の――獣の感だ。
(……なんだろう。何かが危険な気がする。 何が――。この臭い、どこかで、)
鼻が、ビリビリする。
国王が紅茶のカップを持ち上げ、口に付けようとした瞬間、イルは激しく吠えた。
未だ国王の手のにあるティーカップをみてイルは国王の腕に体当たりする。
紅茶のカップは床に転がり、ガシャンと割れた。
「陛下!!」
「何事ですか?! ……この狼!」
廊下にいた衛兵が雪崩込んてきて未だ国王の上に乗っているイルに剣を抜く。
イルは溢れた紅茶に向かって懸命に吠えた。
「待て!」
今にも斬りかからんとする衛兵を片手で制し、国王は体を起こす。
イルは慌てて国王の上から飛び退くときちんと座り直して国王を見上げた。
「……大事ない。
それよりもゼファー、銀製の物はもっているかね?」
ゼファーもガヴィもハッとする。
ゼファーは慌てて身につけていた銀のブローチを溢れた紅茶にこすり付けた。
美しい銀の飾りはどんどん黒ずんでゆく。
「……毒!!」
国王は立ちあがるとイルの頭を撫でた。
「皆、剣をしまいなさい。私は大事ない。
……アカツキが助けてくれた」
周りを見ると、そこに居る全員が剣を抜いていたことに気づく。
「毒物が混入していたのですね?
……しかし、特に変わった香りもない。
アカツキには何故わかったんでしょう」
ゼファーが訊ねる。
国王はフムと考えるような仕草をするとイルを見つめながら言った。
「……狼や獣は、人より鋭い嗅覚や感覚があると聞く。我々には解らないような臭いを感じたのかも知れぬ」
そういって紅茶の茶葉やカップを調べるように手配した。
「しかしこれで、いよいよきな臭くなってきやがったな」
ガヴィが呟く。
紅の民の里の惨殺事件、王子の誘拐、国王の暗殺未遂――
紅の民の一族については関連はまだ解らないが、国王一家の命を狙っていることは間違いない。
三人と一匹は険しい顔で顔を見合わせた。
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