第1話 森の中の出会い
前がぼやけて見えにくい。
しかし落ちてくる雫も
何人かの兵士とすれ違ったけれど、黒狼姿のイルを気に留める者は誰もいなかった。
本当は、敵の兵士に噛み付いてやりたかったけれど、反撃されればイルではすぐに負けてしまう。それでは父との約束を果たせない。
今出来ることは、一刻も早く里を抜けることだ。
イルは混乱した頭で一心不乱に里を駆け抜けた。
今まで里の周りは自由に動き回っていたが、森の外には出たことは無い。
どこに向かって走ればいいのか皆目見当もつかない。
(逃げなくちゃ……でもどこへ?)
目立たぬ様に首にかけられた細身の銀の鎖。
黒狼としてなら、この森の中でも暮らしてゆけるだろう。
でも。
疾走していたイルの走りはどんどん失速し、とうとうその歩みを止めて森の中で立ち尽くした。
……でも。
私は黒狼じゃない。
黒狼に変化できるだけのただの人間。
野生での生き方なんて知らない。
家があって、布団で眠って。
何にもまだ知らない、たった十四の女の子。
ポツポツと雨粒が落ちてきて毛並を
強くなる雨音はイルの心そのものであった。
森の闇がどんどん深くなり、飲み込まれてしまいそうな
(このまま飲み込まれて消えてしまえればいいのに)
さっきまで生きなければと思ったのに、真逆の思考が頭の中を支配する。
イルはか細くクルルと喉を鳴らした。
「ヒッ……」
微かに、暗闇の中から声が聞こえた。
雨足は段々と強くなり、時折
ゆっくりとした足取りで闇の中を探ると、大きな木のうろに隠れるように五〜六才の男の子が震えている。
男の子はこんな森の中に不釣り合いな、派手ではないが品のいい服装をしており、この辺りの村の子どもでないのは
明らかに貴族然とした子どもであるのに、こんな雨の降りしきる森の奥で唯一人震えている事は不自然極まりない。
男の子は突然現れた黒狼に恐怖で顔を引き
その姿に胸が詰まる。
雨の中に二人きり。
取り残された子ども。
誰なのか、全く解らないけれど。
まるで自分を見ているようで、イルはゆっくりと近づいた。
「……こないで……!! 食べないで……!」
子どもの顔が恐怖で歪む。
(……怖がらないで……大丈夫だよ)
震えながら縮こまった子どもの頬を、怖がらないように慎重に近づき舐めた。
ペロペロと頬を舐める温かい感触に、男の子はびっくりしてイルの顔を凝視した。
「……食べないの?」
(食べないよ)
返事の代わりに頬をもうひと舐めする。顔を男の子に擦り寄せると男の子は体の強張りをやっと解いて、おずおずとイルの身体を撫でてきた。
「「………」」
二人とも無言だったけれど、雷鳴の
ぎゅっとお互いを抱きしめる。
まるで自分を抱きしめるみたいに。
また、雷鳴が轟いたけれど、イルはさっきよりも怖くはなかった。
***** *****
嵐が去り、木の葉の隙間から朝の光が零れる頃、
ガサリと草を踏む気配がしてイルは低く唸った。
「……オーカミさん?」
イルの身体で暖を取り、すっかり温まっていた男の子は目を擦りながら体を起こす。
(誰か来る!)
段々と近づいてくる足音に、いつでも飛びかかれるように更に態勢を整えグルルと唸る。
低木をかき分けて、剣を持った赤毛の男が現れた。男は黒狼姿のイルを視界に入れるとすぐさま剣を構える。
イルは深く唸ると男に飛びかかろうと、より態勢を低くした。
「! オーカミさん! ダメッ!」
飛びかかる瞬間、男の子がイルの首にしがみつきイルを止める。
イルはびっくりして男の子を振り返った。
「王子! 無事か?!」
赤毛の男はイルの背後に男の子を認めると、剣を下げて殺気を消した。
(王子?!)
イルが驚いている間に、男の子は抱きついていたイルの首から手を離し男に駆け寄る。
「ガヴィ!!」
王子と呼ばれた男の子はぱっと表情を明るくすると、なんの恐れもなく剣士の胸に飛び込んだ。
「わりぃ……王子、遅くなっちまったな。
よく頑張ってくれた」
「大丈夫、きっと来てくれるって信じてたから!」
それに……
と男の子はイルを振り返る。
「オーカミさんが居てくれたから大丈夫だったよ!」
そこで初めて剣士と目があった。
ガヴィと呼ばれた剣士は年の頃は二十代前半だろうか、剣士としては少々細身な気もしたが、すらりと背が高く、派手では無いが
それよりも目がいったのは、彼の頭髪が見事な赤毛で、森の深い緑の中でそこだけが燃えているように目立った。
先程まで一触即発の空気であったのに、王子に向ける笑顔は人好きのする顔で、王子に軽口を叩く様は家臣とは思えぬ気軽さだ。
イルはポカンと口を開けたような気になった。
「……でね! オーカミさんがずっと側にいくれたんだよ!」
経緯を一生懸命剣士に話す声にハッとして、再び剣士に視線を向けるとカチリと剣士と視線が重なる。
「ふーん……、
ただの狼が王子を喰わずに助けるはずがねぇ。
黒狼の中には精霊のたぐいもいると言うから、この黒狼もそうかもしれねえな」
剣を
「……ありがとな。正直な所、助かったわ!」
先程までの殺気が嘘のように目を細めてニッと剣士が笑う。
(……おひさまみたいに笑うんだな……)
イルは赤毛の剣士――ガヴィをそう印象付けた。
***** *****
王子の名はシュトラエルと言った。
このアルカーナ王国の第一王位継承者だ。
そんな彼がなぜこんなところに居たのかと言うと、この森の南にある王家の避暑地に王妃と訪れた所、何者かに拐われたらしい。
ガヴィ・レイと名のる赤毛の男は実は侯爵で、護衛ついでに王子の相手を任されて遅れて避暑地入りしたところで王子の誘拐を知った。
本来ならば捜索隊を結成して行方を追うところだが、国王直々の指名で国境の防衛や討伐任務に赴く事も多いこの武人侯爵は避暑地到着直後、単身で王子の誘拐犯を追跡した。
犯人にはあっという間に追いつき、捕縛できると思われたがひとつ誤算があった。
犯人は二人組であったのだ。
とは言え、二人だろうが三人だろうがガヴィにはさして問題ではなく、あっという間に一人を切り倒し、実力の差は一目瞭然で王子を人質に取っているとはいえ、犯人に勝機はなかった。
負けを認めて諦めるような輩か、もしくは闇雲に切りかかってくる様な相手であればそこで問題は解決であったであろう。
――が、
残りの一人が剣士ではなく、魔法使いであった事、自分の命より使命を優先したことで状況が変わった。
魔法使いは自分に勝機がない事を悟ると、その場に魔法陣を敷き王子だけを放り込んだ。
ガヴィがハッとして魔法陣に手を伸ばした時にはすでに遅く、後に残ったのは魔法陣の軌跡だけであった。
「くそったれが!」
移動魔法を使った魔法使いの方を振り返ったが、案の定魔法使いは絶命した後だった。
魔法使いにとってもこんなにすぐ追いつかれるとは思ってもいなかったに違いない。
追いつかれてから今に至るまで十分もたっていないこの状況からするに、誘拐に関わった剣士も魔法使いも大した腕ではない。
しかし移動の魔法陣がしける位の腕はあるらしい。
慌ててしいた魔法陣ではそう遠い移動は無理とみてガヴィは王子の捜索を続行した。
ただ移動しただけであればさして危険はない。しかし、王子はまだ
なんの知識もなく広大な森に放り出されれば命の危険にさらされる。
危険な獣との遭遇、崖の上や川の上に放り出されたとしたら一発アウトだ。
ガヴィはすぐさま駆け出した。
***** *****
「いや、ま、ほんとにお前が居てくれて助かったわ」
カラカラと笑って赤毛の剣士ガヴィはイルの頭をわしゃわしゃと
イルは黒狼の姿をしていると言うのに、噛まれるとは
イルは鼻先でガヴィの手を払い除けるとシュトラエル王子に身体を寄せた。
王子は嬉しそうにイルの毛並みの感触を楽しんでいる。
王子の手は子ども特有の体温のせいか、王子に特別な力があるのか、触れられた所からポカポカとイルの心を温める気がした。
「さて王子、王妃殿も陛下も心配してる。
急ぎ屋敷に戻ろう」
「うん!」
ガヴィに促されてスックと立ち上がった王子だが、イルを見ると視線をイルとガヴィの間で
「……オーカミさんはどうするの?」
「……どうするったってなあ……。
そいつはこの森の黒狼だろうし、自分の
なあ? と赤毛の剣士はイルを見た。
イルは戸惑った。
それはそうだ。
王子とこの剣士とはたまたま出会っただけで、なんの関係もない。
そもそもお付きの剣士の登場により、イルが王子の側にいる理由も何一つないのだ。
――でも、
イルはもうこのぬくもりを手放したくはなかった。
もう、一人は嫌だった。
「……さよならなの? オーカミさん。
……ぼくと一緒にこない?」
大きな
王子の頬をそっと舐める。
それだけで王子には気持ちが伝わったのか、パッと破顔してイルの首に巻き付いた。
「……黒狼の精霊を契約なしで従わせるなんぞ、王子は大物になるわ」
ガヴィがピュゥと口笛を吹く。
「違うよガヴィ、ぼくとオーカミさんは友だちだもん」
主従じゃないもん、と唇を尖らせる。
「友だちねぇ……。
それでも充分
ガヴィは大げさに肩をすくめてみせた。
「えーと、ずっとオーカミさんっていうのも変だなあ……」
「……名前でもつけてやんのかよ?」
赤毛の剣士は面白そうに問う。
「う〜ん……」
腕組みをしながら小さな王子はひとしきり悩むと、急に閃いた! と表情を輝かせた。
「
だってオーカミさんの瞳の色、
暁の太陽の色みたいでキレイなんだもの!」
満面の笑みでどう? と問う王子の笑顔が眩しくて、イルは鼻先を何度も王子の頬に擦り寄せた。
「決まりだね! アカツキ!」
シュトラエル王子との出会いはイル=アカツキにとって特別なものとなった。
「アカツキ。ずっと、ずっと一緒にいようね」
(王子はきっと特別な子なんだ)
だってこんなにも胸が踊る。
あんなに悲しいことがあった後なのに。
この王子は知らぬ筈なのに。
イルの名が、一族に伝わる古い言葉で『夜明けの太陽』を指す言葉であることを。
同じ太陽を示す名をくれた事に、イルはそれこそ太陽を見つめるように、眩しく目を細めたのであった。
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