序章
なぜ、どうして?
一体なにが。
ひとつも考えがまとまらない。
でも一つだけ解っていることは、ここから逃げなければならないという事。今死ぬわけにはいかないという事。
何故里と逆方向に自分は走っているのか、今すぐ引き返して父や兄のところに戻りたい。
でもそれをする事を、父も兄も望んではいまい。
何も望まれていないと思っていた自分に、最後に父が望んだ事。
それを必死に守る為にイルは闇夜の森を駆け抜けていた。
アルカーナ王国の北の国境付近に位置する広大なノールフォールの森の最奥に、ひっそりとその里はあった。
遥か昔、アルカーナ建国の物語に出てくる聖剣を作り出した女魔法使いの一族、『
建国の時より長い長い時が過ぎ、時代と共に血は少しずつ薄れ、今では長を務める直系にしかその力は受け継がれていない。
だがしかし、確かにまだその力は一族には残っていた。
イルは
族長の娘とはいえ、ここは辺境の森の小さな里である。
その暮らしは普通の村娘となんらかわりはなかった。
ただ、イルには六つ上の兄がいるが、兄と彼女への民たちの対応には少し差がある。
イルと兄は異母兄妹であり、イルは族長である父と、精霊の一種である
紅の民と精霊とは縁深く、森に棲む黒狼とは
そして、一族の姫でありながら、紅の民の特徴である
父はそんなイルをどう思っていたのか。
元々
最近では後継者として多様な仕事を任されている兄とは違い、叱責される事もなければ褒められることもない。
なんの力も持たぬ半獣の娘は一族の中で確かにそこに存在はしてはいるものの、特に必要ではない存在であったのだ。
皆、建前では姫様と呼ぶものの、誰も気にも止めない空気の様な存在。
あって無いようなもの。
それでも、イルは特段不幸ではなかった。
特に必要とはされなかったけれど、かと言っていじわるをされるわけでもない。
黒狼自体は紅の民にとって友人であり、使役するものであったし珍しくはなかった為、黒狼の姿で好きに駆け回ったり、お転婆に一日中草原を転げ回っていても咎められる事はなかった。
少女というより少年の様な半獣の妹に、兄は時々呆れ顔をしながらも優しかったし、
里の民や父が自分を必要としていないと言う事を気にしなければ、なにも困る事はなかったのである。
だが、運命の輪はというものは時として非情な方向に
この日、いつもの様に野原を駆け回り里に戻ると、そこはもういつもの里ではなかった。
見慣れていたはずの家屋からは火の手があがり黒煙を吹き、見知った顔が虚ろな目をして地べたに転がっている。
小さな里はイルが里を離れていたほんの数刻の間に、見知らぬ兵士達に制圧され無惨な姿になっていた。
兵士の隙をつき間をくぐり抜け、里の外れにある屋敷に向かう。
そこで見たものは、もうすでに事切れた兄と自らの血で濡れながらも応戦している父の姿。
父は敵兵と剣を合わせながらも娘の姿を視界に入れると目を微かに見開いた。
敵兵の剣の切っ先が、父の右腕をかすめる。
父が持っていた剣を落とすのを見て、イルの体の血がカッと燃えた。
イルは無意識の内に黒狼の姿に変わると敵兵の喉笛に噛み付いていた。
人に噛み付いた事など、人生一度もない。
無我夢中で噛みつき、兵士はイルを振りほどこうとしたが、落とした剣を拾い父が兵士の心臓を一突きにする方が速かった。
「
兵士を倒したものの、父も膝をつき肩で息をする。イルは獣の姿のまま父に駆け寄った。
「父様! 逃げて! 私が戦うから!
父様は逃げて!」
一族の姫として生まれながら、なんの存在意義も持たなかった自分。
しかし黒狼に変化できる能力はこの時の為にあったのか。
これは、なにも出来ない自分に与えられた唯一の仕事ではないのか。
族長である父を逃さなければ。
必死に訴えて舐めた父の頬は血の味がした。
興味もないであろう役立たずの娘が役に立てるのは今しかなかった。
……しかし……
「……イルよ」
久しぶりに聞いた父の声は深く、そしてイルが知らない慈愛に満ちた声をしていた。
「イルよ。……わが娘よ。
……お前はいきなさい」
そう言うとイルの耳元でなにかを呟く。
その
『父様?!』
イルは叫んだが急に人の言葉が紡げなくなる。
混乱するイルに父は静かに語った。
「いいか、この鎖を外さぬ限り、お前はただの黒狼だ。
人の姿をしていては里は抜けられぬであろう。
しかし狼を気にする者はおらぬ。
その姿で里を抜けなさい。黒狼として、生きるのだ」
イルは悟った。唐突に。
自分には興味がないと思っていた父。
愛はないと思っていた父がちゃんと自分を大切に思っていたことを。
『……嫌だ……!!
私も残る! ここに!
父様を残していけない!!』
人の言葉を紡いでいないのに、父には言葉がわかるようであった。
「……私はもう助からぬ。
よいかイルよ、紅の民の血はもうお前しかおらぬ。
ここで死んではならん。……生きるのだ」
最後の願いだ、生きてくれ。
そう言って抱きしめてくれた父の手は暖かかった。
小さく、最後にすまぬと聞こえた気がした。
事切れた父の側を離れられなくて、
鼻をつけて揺すってみたけれど、もう言葉を返してはくれなかった。
そうしている内に火の手は迫り、こちらに近づいてくる複数の足音。
行かなければ。
父の願いを叶えるために。
↓このお話しの番外小噺(父視点)
https://kakuyomu.jp/works/16817330668440716307/episodes/16817330669152975187
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