涙を見にゆけば

 宮本みやもと銀歩ぎんほは今夜も、合法的飲み物を提供するバー〈賢愚の沼〉に車で乗りつけ、飛び込んできた。


 彼女は下戸げこというわけでもないのだが、アルコールの入ったグラスを唇に近づけたくない、という思いをなぜか人々に知らせるために、酒を提供する店にわざわざ車でやってくるのだった。そのロジックが今一つわからないというならば、お金を使いたくないという人間が家に財布を置いてくるのと同じだと思えばいいだろう。


 絶対的にお酒が飲めない状況を作りだす──彼女はなぜかアルコールを心底嫌っていた。


 バーのマスター、沖田おきた丁磨沙あたるまさは背中にススキを背負う苦み走った中年男。スツールに腰を落とした銀歩に、グラスを差しだす。

「ギムレットです、どうぞ。ドライジンの代わりにコーヒーを、ライムジュースの代わりに牛乳を入れてみました」

「それってコーヒー牛乳よね」銀歩はグラスの、なめし革色した中身を睨みながら言った。

「お嫌いでしたか?」

 気持ちよく汗をかいているゾンビグラスの清々しさと否定的な気持ちは相容れないもの。銀歩は慎重に運んで唇に当て、一口飲んだ。「私がクイートに恋をしていなかったら、毎晩ここに来て飲んでいただろうものが、これよ」

「それはよかったです」にっこり微笑む丁磨沙。



 銀歩は街道管理会社の窓口に勤める三十代女性、独身。アルコールと酔っ払いが嫌い。内ケ城ないがしろ市に住んでいて、佐野クイートに恋をしている──それが丁磨沙が知るすべてであり、この小説を読んでいる読者が知っておけばいいすべてであった。それ以外には、ほとんどなにもなかった。


 グラスの飲み物が干される間に、丁磨沙はいろいろな愚痴を聞かされた。恋慕を寄せている相手がそれに気づき、両想いになれば世界のすべての困難が解消されると信じている人間の支離滅裂な話──と言えば、もうあなたも聞いたような気分になるはずだ。


「マスターの背中のススキが眩しい。どうにかならないわけ?」と難癖をつけたり、「今夜もあの通りの赤信号に捕まったのよ。青だったことが一度もないわ。ほんと、バカにしてるったら」と血の通わぬ機械装置に八つ当たりしたり、はたまた「私だったら彼を悲しませはしない。たとえガソリンが今以上値上がりしても、二人で愉快に暮らしていけるはずよ」と根拠のない自信を披露したりと大忙しだ。


 丁磨沙はそれに対していつも、「クイート君に想いを告げてみては?」とアドバイスするのだった。

「だめよ、そんなの」銀歩も毎回同じ返事をくり返す。「彼との関係性を壊したくないの。そんなことしたら、私、マサカリを担いだ猫みたいになるわ、きっと」

「怖いですね」丁磨沙は眉をひそめた。「マサカリ担いだ金太郎か、盛りのついた猫、しか聞いたことがありません」

「同じことよ」

「同じなんだ……。斬新な表現されると、よくわからないですね」


 クイートは内ケ城市専属アクターをやっていて──つまりローカルな舞台で活動する俳優、地方タレントで──観光業務やその他諸々でテレビにラジオに活躍する人気者。女性ファンも多かった。

 ただ、銀歩はテレビ画面の魔法のために彼に目がくらんだわけではない。


 最初に出会った近所の坂道。グレンチェック柄のコートにブルーのマフラーを巻いた彼が散歩をしていた。手を後ろに組み、やや前のめりの格好でとぼとぼと歩いてくる。 

 その仕草が、まるで老人だった。顔は童顔で、無邪気な性質。テレビでも滑稽な役柄だから、年寄りっぽいところは微塵もないと、市民なら誰でも知っている。

 なのに、彼がその日纏っていた空気は覇気がなく、哀愁を帯び、銀歩の母性をくすぐった。また、銀歩は白目がどんより濁っている男性に弱かった。不健康さに引き寄せられるのである。それと、話し声に柔らかさ、ねとっとした音色が交ざっていると、それにも心を掴まれるのである。クイートはそのすべてを備えていた。



「彼は、私が話があるの、と言えばすぐに駆けつけてくれるわ。暇なんでしょうね……」

「いや、クイート君、売れっ子ですよ。結構お忙しいかと」

「でも、私が今のままの友達じゃなく、恋人になることを望んでいると知ったら、鬱陶しく感じるかもしれない。私はまさに、家の前に生い茂っているトゲトゲを持った草の実みたいに彼にくっついていたいもの。あれが服についてきたら、イライラするわよね?」

 丁磨沙はこくりと頷いたが、それは銀歩の懸念に同調するものではなかった。大人の説得力という名の重みを利かせたトーンで言う。

「草の実は自然の理法に則ってそういった行動をしているまでなのです。あなたが彼にくっついていたいのも、自然な欲求で、なにもおかしなことではありません」

 銀歩は項垂うなだれると、そのままカウンターテーブルにこぼすように話した。

「……私の実家が砂壁だったのね。あるとき廊下を掃除してたら、床に近いところが少し凹んでて、そのすぐ隣がぽっこり小さく飛びでてたの。なんだろう、これ、変だなと思って、その飛びでているところを楊枝ようじの頭で押してみたのよ。そしたらボロッと崩れてさ。それ、ゴキブリの卵だった」

「ぐっ……」丁磨沙はあまりのことにびっくりして、絶句した。

「ゴキブリがさ、自分が壁に産みつけた卵をカムフラージュするために、砂壁を削って、その砂を卵の上に被せてたの。だから、遠目では壁がぼこっとなっているみたいに見えたの。ほんとよ? なのに、私の家族はその話を聞いても、『ゴキブリがそんなことするはずがない』『トカゲかなんかだろ』って言うのよ。誰も信じてくれなかったの、どう見てもゴキブリの卵だったのに! ……でもね、マスター、クイートだけは信じてくれた。夜の十二時に呼びだされて、そんな話されても、ちゃんと信じてくれた。『ゴキブリってすごいんだね、知恵者だね』って言ってくれたわ」

「………………」


 丁磨沙は洗い物が済むと、タオルで手を拭いて、「もう一杯、いかがです? ギムレット」と勧めた。

「いただくわ」と銀歩は言った。「まだまだ話したいこと山の如しよ」

「それを聞くと、胸がザワザワすること林の如く、です」

「なにそれ」と銀歩は怪訝けげんそうに言った。

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