一歩進んで二歩下がる

 数日後、ラ・レーヌ学園にて。

 昼食を終えたミラベルは一人廊下を歩いていた。技術室前を通りかかった時、ナゼールが技術室で何かをしているのを見つけた。

(ナゼール様だわ。何をなさっているのかしら?)

 ミラベルは少し気になり、そっと技術室を覗いてみた。

 ナゼールはミラベルが見たこともない難しそうな道具を使って機械を弄っていた。そして時折少し考えながら分厚い本に目を通している。

(ナゼール様が取り扱っているのは……何の機械なのかしら?)

 気になったミラベルは窓から技術室内に乗り出した。するとナゼールと目が合う。

「あ……」

「ミラベル嬢!? うわっ!」

 ナゼールはヘーゼルの目を大きく見開き、椅子から転げ落ち尻餅をついた。ナゼールが使用していた道具も床に落ちる。

「ナゼール様!」

 ミラベルは慌てて技術室に入り、ナゼールの元へ駆けつけようとする。

「きゃっ」

 しかし、ミラベルは床に落ちた道具につまずき、ナゼールに覆い被さるような体勢になってしまった。

 無造作長めの黒褐色の髪の隙間から、眼鏡越しに見えるナゼールのヘーゼルの目と、ミラベルのムーンストーンの目が急接近する。

(あ……ナゼール様……目の色が綺麗……)

 時間が止まったかのような感覚に陥った。しかし、ミラベルはハッと今置かれている状況に気付く。

「も、申し訳ございません!」

 頬を真っ赤に染めて慌ててナゼールから飛び退くミラベル。

「い、いえ、お気になさらないでください……」

 ナゼールも顔を火のごとく熱らせながら、落ちた道具を拾う。

(ミラベル嬢……あんな目をしていたのか……。綺麗な目だったな)

 ナゼールはそう感じながら再び作業を再開する。

「あの、ナゼール様、一体何をなさっているのでございますか?」

 ミラベルは思い切って聞いてみた。すると、ナゼールは作業を止めて先程まで弄っていた大型の機械をミラベルが見やすいように移動させる。

「これは一体……?」

 馴染みのない機械にミラベルは控えめに首を傾げる。

「えっと、紡績機です。……絹や綿を紡績する……糸にする機械です」

 ナゼールはボソッと濁った声で答える。

「紡績機……初めて見ましたわ」

 ミラベルは紡績機を隅から隅までじっくり見る。

「ミラベル嬢は……絹や綿の生産量はナルフェック王国が近隣諸国の中でトップであることをご存知ですか?」

「ええ、その、存じ上げております」

「えっと……その絹や綿を紡績する機械がこれでして、これは量産用の紡績機です。その……現在はこれを水力や牛や馬といった家畜の力で動かしているのですが……その……それだとまだ効率が悪いので、僕はその……紡績機を電池で動くようにしようと改良しています」

 少し挙動不審になりながらナゼールは自分がしていることを説明した。

「電池……と仰いますと、この紡績機は電気で動く……ということでしょうか? 以前ナゼール様は電気が発見されたことで電池が開発されたと仰っていましたので……」

 するとナゼールはヘーゼルの目を大きく見開く。

「あの、ナゼール様? どうかなさいました?」

 何か変なことを言ってしまったのではないかと不安になるミラベル。

「……いえ、その……ミラベル嬢が、以前僕が申し上げたことを覚えていてくださって……驚きました」

 ナゼールは目線を下にするが、ほんのり口角を上げてポリポリと頭を掻いていた。

「覚えておりますわ」

 ミラベルはふふっと微笑んだ。

「……ミラベル嬢が仰った通り、もし改良が成功したらこの紡績機は電気の力で動くことになります。電池は電気を起こすものなので。今やっているのは、配線作業……電気の通り道を作っています。……もし紡績機が電池で動くようになれば、絹産業や製糸産業が更に伸びるでしょう。まあ、まだ僕の趣味の領域ですが」

 ナゼールはそう言い、左手で器用に配線を繋いでいく。

「……まあ、そういった機械や技術に興味を持っている奴なんて気持ち悪いと馬鹿にされてしまいますが」

 ナゼールは卑屈になる。

「そんなことはございません」

 ミラベルはナゼールの方へ少し身を乗り出した。

「ミ、ミラベル嬢……」

 いきなりのことでナゼールは若干体を後ろに引く。

わたくしは、機械や技術のことはまだよく分かりませんが……ナゼール様のご趣味は、人の生活をよくするものだと存じました。ナゼール様は、その……きちんと民の生活のことを考えていて素晴らしいと思います。だから、その……周りに何か言われたとしても、続けるべきだと思いました。……ナゼール様は、素敵なご趣味をお持ちでございますね」

 ミラベルはいつもなら生糸のような細い声だが、今回はほんの少しだけ声を張った。いつもはこんな風に気持ちを伝えることをしないので、ミラベルの心臓はバクバクしていた。

 ナゼールはミラベルの言葉に思わず動きが止まり、固まってしまった。ヘーゼルの目は、眼鏡越しにミラベルを見ている。まるで時間が止まったかのようだ。

「……あの……ナゼール様?」

 ミラベルは不安そうに首を傾げる。

「あ……! その、失礼しました。あまりにも驚いてしまったので……」

 ナゼールは視線を下に逸らす。そして、また口を開く。

「……家族以外からそんな風に仰っていただけたのは初めてです。その……ミラベル嬢……ありがとうございます」

 ナゼールはきちんとミラベルを見て、少しぎこちなくはあるが微笑んだ。

 それから二人は昼休みが終わるまで技術室にいた。ナゼールが紡績機の改良をする隣で、ミラベルはそれを見ていた。それは二人にとって宝石のようにキラキラとした時間だった。






♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔






 しかしその翌日、また変化が訪れる。

 ラ・レーヌ学園へ向かうモンカルム家の馬車の中にて。

「ナゼール様、今日は少しご機嫌ですね」

 ナゼールの従者ザカリーは微笑む。

「……昨日、良いことがあったから」

 ナゼールも、ほんのり口角を上げた。


わたくしは、機械や技術のことはまだよく分かりませんが……ナゼール様のご趣味は、人の生活をよくするものだと存じました。ナゼール様は、その……きちんと民の生活のことを考えていて素晴らしいと思います。だから、その……周りに何か言われたとしても、続けるべきだと思いました。……ナゼール様は、素敵なご趣味をお持ちでございますね』


 ナゼールはミラベルから言われたことを思い出し、じわじわと嬉しさが湧き上がっていた。

(今日も……ミラベル嬢と話すことは出来るだろうか?)

 今まで学園に行くのが憂鬱だったが、ナゼールにも楽しみが出来たのだ。

 ザカリーに見送られ、学園の敷地内に入ると、ナゼールはある少女の姿が目に入った。

 栗毛色の髪にムーンストーンの目で、少し儚げな横顔。ミラベルである。

 ナゼールは勇気を出してミラベルに話しかけようとした。しかし、それは出来なかった。他の令息がミラベルに話しかけたからだ。

 栗毛色の髪にムーンストーンのようなグレーの目の、爽やかな見た目の令息。所作も洗練されている。彼と話すミラベルは、いつもよりリラックスしている様子が分かる。

 ナゼールのいる位置にも二人の会話が聞こえてくる。

「そういえば、この前ミラベルはモンカルム侯爵家の令息と最近話すと言っていたけど、彼はどんな感じの人かな?」

「ナゼール様は……今まで見たことのないタイプのお方です」

 後ろ姿ではあったが、声のトーンでミラベルが笑ったことが分かるナゼール。思わず足を止めてしまう。

(もしかして……ミラベル嬢も僕のことを馬鹿にしているのか……?)

 後ろ姿でミラベルの表情が見えないからこそ不安になり、後ろ向きな想像をしてしまうナゼール。

「機械が好きな方なんて、わたくし初めてお会いしましたわ」

 表情が見えないからこそ、その言葉にナゼールは今まで他者から言われたことを次々と思い出してしまう。


『気持ち悪い機械オタク』

『ナゼールは社交性ないし、話してもつまんない奴だぞ』

『機械なんて弄らず社交性を磨いたほうが良いのでは?』


(そうだ、どうせ僕は社交性がなくてつまらない、気持ち悪い機械オタクだ。……ミラベル嬢も、昨日は僕のことを褒めてくれたけど……本心なのかは分からない。それに、彼女は僕なんかより今話している彼といる方が楽しそうだ)

 ナゼールは暗い表情で俯いてその場を立ち去ってしまった。ミラベルがどんな表情で話しているかや、隣にいる令息との関係も確かめずに。






♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔






(……今日もナゼール様は技術室にいるかしら?)

 ミラベルは昼休みに技術室へ向かった。そこには昨日と同じように紡績機の改良をするナゼールの姿があった。

「えっと……ご機嫌よう、ナゼール様。……改良は順調でございますか?」

 ミラベルは控えめな様子でナゼールを見ている。

「……ええ、まあ」

 ミラベルと目を合わさずそう答えるナゼール。表情は少し暗い。

「ナゼール様……浮かない表情のようですが……どうかなさったのですか?」

 ナゼールの変化に気付いたミラベルは少し心配そうな表情になる。

「……別に何も。……ミラベル嬢、お昼休みなのに僕と話していてもつまらないでしょう」

 低く、少し冷たい声のナゼール。

「え……? 決してそのようなことは」

「申し訳ありませんが……集中力が必要な作業なので、一人にしていただけますか?」

 戸惑うミラベルをよそに、素っ気なく言い放つナゼール。ミラベルは少し悲しそうな表情になる。

「……左様でございましたか。……お忙しい中押しかけてしまい申し訳ございません」

 ミラベルは肩を落として技術室を出るのであった。

(……きっと難しい作業をしていたのよ。何も知らずに押しかけたわたくしが悪いわ)

 ミラベルはため息をついた。

 そして翌日もその翌日も、ナゼールはミラベルに対して紡績機の改良時以外も冷たい態度であった。おまけにミラベルはナゼールから避けられるようになっていた。

(……わたくし、ナゼール様が気に触るようなことをしてしまったのかしら? ……心当たりはないけれど、もしかして無意識のうちにナゼール様に失礼なことを……?)

 ミラベルの胸の中は寂しさと不安が溢れ出していた。

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