第31話 無事に帰れるかな

「九条さん!?」

「……おめでとう」


 少し気まずそうに九条さんが階段の下から俺におめでとうと言ってくれた。

 しかしそれを伝えるとすぐに彼女はどこかに行ってしまった。


 まさか見られてない、よな?

 キス、それもディープな奴を俺はゆきめとしてしまった。

 あんなところを見られていたら……いや、見ていたら九条さんがこんなに冷静なわけはないか。


 ヒヤッとしたが、気を取り直して俺は家族とゆきめが待つスタンドまで上がった。


「蒼、よかったじゃない自己ベストよね」

「あ、ああ条件がよかったよ」


 母さんは熱心に俺の試合をいつもチェックしていたので、今の走りがどういうものだったのかすぐに理解している様子だった。

 一方父とミクはちんぷんかんぷんな様子で、「何秒だったらオリンピック出れるの?」みたいな質問を母さんとゆきめに聞いていたくらいだ。


「蒼君、この後はもう解散だから帰る?」

「うん、でもちょっとだけ他の競技も見ようかなって」

「九条さん?」

「い、いや幅跳びとか……」

「女子?」

「……男子だ」


 ゆきめが鋭い目で俺を疑ってくるが、別にやましいことは何一つないのだからどうだしていればいい。

 そう思って強気に出たつもりだったが、それすらも裏目に出る。


「幅跳びしてるところの近くにアリアちゃん座ってるもんね」

「え、そ、そうなのか……知らなかった」

「じゃあ知れてよかった?」

「……帰ろう」


 ここで下手に誤魔化したり突っぱねたら後が怖い。

 今はゆきめの望む展開をプレゼントした方が機嫌を損ねずに済むはず。

 そう判断して俺は家族とゆきめと一緒に会場を出ることにした。


 ちなみに遠坂さんからもらった飲み物はこの競技場の自販機には売っていなかった。

 つまりどこかであらかじめ俺の為にと買ってくれていたのだろう。

 そんなことを加味すると、九条さんに続いて面倒な女の子に目をつけられた可能性が高く、俺はせっかく自己ベストが出た喜ばしい日なのに気が重くなった。


 その後はご機嫌な様子でミクや母さんと話をするゆきめだったが、そんな彼女を見ながら父さんが俺に話しかけてきた。


「ゆきめちゃんとはどうなんだ」


 こんな俗っぽい質問をまさか父さんからされる日が来るなどとは思っていなかったので、正直少し戸惑った。

 しかし真剣な表情で聞いてくるので、俺もなんと答えたらよいか迷った。


「ええと、まぁぼちぼち」

「そんな生半可な気持ちで付き合っていたら捨てられるぞ?あんな子は他にいないんだから絶対に手放すんじゃないぞ、わかったな」

「……はい」


 おもわず首を縦に振ってしまったが、手放してくれないのはむしろゆきめの方だよと言いたい。確かにあんな子は他にはいない、ていうかいたら困る。


 世の中にゆきめが何人もいたら俺は四肢を引きちぎられてしまうだろう。


 やがてみんなを駅に送ると、ミクがゆきめとまた何か話をしていた。

 俺に聞こえないように、でも俺の方を見ながら話すのできっとまた余計なことを喋っているのだろうということくらいは想像がついた。


 「じゃあねお姉ちゃん!」

 

 ミクたちが名残惜しそうに手を振りながら改札の向こう側に消えていった。

 その姿が見えなくなると、すぐにゆきめが俺に手を絡ませてくる。


「お疲れ様、今日はお祝いしないとだね」

「ま、まぁベストは嬉しいけど大げさだって」

「ダメよ、こういうのはちゃんとしないと。それに、今日は濃いのをしちゃった記念でもあるから、ね?」


 遠坂さんはゆきめのことを悪女だと言ったがほんとその通りだ。

 あまりに不敵な笑みでこっちを見ながら下をペロリとして渇いた唇を潤すこいつの姿は、この後の展開を容易に想像させた。


 しかし予想に反してゆきめはアパートに戻ると自分の部屋に戻ろうとした。

 それを見て安心して俺も部屋に戻ろうとすると、ゆきめが俺の腕を掴んだ。


「今日は、私の部屋に来てくれる?」

「え、また目隠しするの……」

「今日はいらないわよ。ちゃんと片づけてあるし」

「……わかった」


 俺はゆきめに連れられて人生二度目の彼女の部屋を訪れた。

 しかし前回は目隠しをしたままだったので、実質これが初めてのゆきめの部屋だ。

 

「お、お邪魔します……」

「別に蒼君の部屋と変わんないんだから緊張しなくてもいいよ」


 ゆきめの言う通り、間取りももちろん全く同じ部屋で、まるで自分の部屋に帰ったような妙な安心感があった。


 そして部屋に入るとそこにはベッドが一つ、あとは机とテレビ、そしてぬいぐるみが何体かベッドに転がっているだけの普通の部屋だった。


「こ、ここがゆきめの部屋か」

「うん、このベッドってすごく体に負担がかからなくていいんだよ。寝てみて」

「え、悪いよそれは……」

「いいからいいから」


 俺はゆきめに半ば無理やりベッドに寝かされた。

 ……確かにすごく体が楽だ。これなら腰の負担とかも全然ないし、疲れが溜まる心配もないかも。


「これ、どこで売ってたんだ?」

「私が中学の時に首痛めちゃった時に特注でママが注文してくれたの。でも今は必要ないから蒼君に使ってほしいなって」

「い、いやそんなものもらえないよ……」

「? あげないよ、ここで使ってって意味だよ?」

「え?」


 当たり前のようにゆきめにそう言われて、俺は慌てて体を起こした。

 その瞬間、ゆきめの部屋の玄関のチャイムが鳴った。


「あ、来た来た」

「何か注文でもしてたのか?」

「うん、蒼君はそのままそこにいてね」


 ゆきめは玄関の方へ向かっていった。

 俺は寝たままなのも気まずいので体を起こしてベッドに座り込んだ。



「はーい、いらっしゃいアリアちゃん」

「何の用なの?今日だってわざわざ敵に塩を送るようなマネまで」

「いいからいいから、入って入って」



 部屋で待っているとゆきめが誰かを連れてきた。

 そしてその人物を見て俺は飛び上がった。


「遠坂さん!?」

「え、なんであなたがここにいるのよ!?」


 いやこっちのセリフだよそれは……なんで遠坂さんがここに?


「神坂さん、あなた謀ったわね?」

「何の事?蒼くんは私の彼氏だからここにいても普通じゃない?」

「見せつけるために私を呼んだってわけ?」

「さぁ?でもさっきまで蒼君は私のベッドで寝てたけど」

「ふ、不潔!」


 遠坂さんはすぐに引き返して部屋を出ようとした。

 その時ゆきめは見送りにでも行くように玄関に向かい遠坂さんに声をかけていた。


「せいぜい頑張ってね。ツンデレもどきさん」

「な、何を頑張るのよ!私は別に」

「蒼君が応援に来てほしいって話、あれ嘘だから。よく今日は来れたわね、ふふ」

「し、知らないわよ!」


 バタンと大きな音を立てて玄関の向こうに遠坂さんは消えていった。


 そして満足げな顔でこっちに戻ってきたゆきめは、俺の隣に座ると再び手を絡めてきた。


「ねぇ蒼君、もっかい、しない?」

「え、なに、を……」

「キス、大人のやつ」

「……断ったら?」

「アリアちゃん、無事に帰れるかな?」

「!?」

 

 ゆきめは今ここにいるんだから、遠坂さんに何か手出しができるとは思えない。

 しかしこいつが言うと妙に説得力があるというか、聞き流すことはできない。


 何かあってからでは遅いのだ。そうだ、だから俺は人命救助のためにこいつに従うしかないのだ。


 そんなくだらない言い訳をいくつも並べて、身を委ねた。

 彼女は嬉しそうに俺の唇をペロッと舐めた後、そのまま舌を潜らせてきた。


 俺はその快感に何も考えることはできなかった。

 ただひたすらゆきめと溶け合うようにキスをした。


 そしてどれくらい時間がたっただろうか。やがて息を荒くしながら俺から離れたゆきめが言う。


「今日は帰さないから」


 そう言い残して彼女は風呂場へ向かった。


 俺はまだ湿ったままの唇を触りながらベッドに座り込み茫然としていた。

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