第30話 深いところ

 俺の部屋には新しい家族が増えた。というか勝手に増やされた。


 名前はクマちゃん、見たまんまクマのぬいぐるみである。

 目のあたりが少しほつれているのが気にはなるが、可愛らしいそのぬいぐるみをゆきめは風呂場に置きたいと言って持ってきたのだ。


 今日取ったばかりで飾りたくなる理由はわかるのだが、なぜ脱衣所なのかという質問に対しては「私がお風呂に入った時に、見守っててほしいから」というよくわからない理由を聞かされた。


 こいつの考えていることにいちいちちゃんとした理由を求める方がバカを見るので、俺はそのぬいぐるみを脱衣所の棚に飾ることにした。


 そして明日は久々の記録会とあって、早めの夕食をゆきめが作ってくれた。


「今日はパスタにしたよ。蒼君の大好きなカルボナーラだから」


 ゆきめにはいちいち何か注文をつけることはない。

 言わなくても俺の好みのものが一級品のクオリティで出てくるからだ。

 もうその理由も気になることはなくなってきた。

 きっと感覚がマヒしているのだろうという自覚はあるが、それでも趣味趣向が合わずにイライラするよりはましなのかもと割り切れるようになった。


 さっさと夕食を食べ終わると、風呂を沸かしてくれたので俺はすぐに入ることにした。

 服を脱ぐ時にクマちゃんと目が合う気がするが、まぁメアリーよりはいくらか可愛らしいので気にするほどではない。


 今日はゆきめも背中を流しには来なかった。

 それどころか風呂から出るとゆきめはいなかった。


 静かな部屋に一人きりという状況になぜか寂しさを覚えてしまったのは、別にゆきめがいないからではない。ただ最近は誰かといる時間が長すぎただけだ。


 そんな言い訳を自分にしながらも、結局戻ってくる気配のないあいつのことばかり考えている自分が嫌になりさっさと寝ることにした。


 そして翌朝、ゆきめは朝の3時過ぎに俺を起こしに来た。


「おはよう高山君、ぐっすり寝れた?」

「お、おはよう……まださすがに早くないか?」

「起きてから体が目覚めるまで数時間はかかるんだから。早起きしておかないと朝のレースに体が間に合わないよ?別に寝顔見てやろうとかそんな気持ち一切ないんだからね!」

「そ、そうか……」


 こういうところはきっちりしている。というか本当に陸上に対しては俺より詳しいしちゃんとしている。

 一応陸上選手として、素人のゆきめにリードされてばかりでもプライドに傷がつくので顔を洗って気合を入れ直した。


 そしてゆきめに見送られながら俺は先に試合会場へ向かうことにした。

 今回は近くの競技場で行われるので、自転車で向かうことにした。


 朝の気持ちよい風で眠気を吹き飛ばしながら会場に向かっていると、同じく自転車で会場まで向かう九条さんの姿が見えた。


 昨日ゆきめが送ったメールのことをその時とっさに思い出したので、気まずくなりスピードを緩めたが、逆に向こうから俺の隣を並走するように減速してきた。


「おはよう」

「お、おはよう九条さん……」

「なによ、私の事そんなに嫌いなの?」

「い、いやそうじゃなくて……」

「神坂さんね。いいわ、先いくから」


 九条さんは不機嫌そうに自転車を漕ぎだすと先に行ってしまった。

 しかし九条さんも災難だな、ゆきめにあろうことかストーカー扱いなんかされて……


 でも平然としたいつもの様子だったので試合には影響なさそうでよかったと胸をなでおろしていると、誰かの落とし物なのかシューズケースが道端に転がっていた。


 自転車を止めて拾うと、九条さんの名前が書いてある。

 試合前にスパイクを落とすなんて……相当動揺しているんだな。

 なんか申し訳ない気持ちになりながらそのシューズケースを拾い上げて籠にいれてから会場まで向かった。


 そして会場について九条さんの姿を探していると、競技場には似つかわしくない人物が一人で立っているのを見つけてしまった。


 遠坂アリアだ。

 この場所に似つかわしくないフリフリのドレスを着ているので他の選手たちからも視線を集めていた。

 彼女みたいなお嬢様がなぜここにいるのか不思議だったが、それでもゆきめから何も話を聞いてなければそんなに意識することもなかったと思う。

 しかしゆきめは、遠坂さんが俺を狙っていると言っていたし、遠坂さんに話しかけられたかを、執拗に確認されたりもした。


 となるとやはり遠坂さんがここにいるのは……俺が目的?

 おそらくそうなのだろう。

 この流れだと関わるだけろくな目に合わないのはわかっていたので逃げるようにその場を去ろうとした。

 だがその時、俺は少し鼻にかかったような高い声で呼び止められた。


「ちょっと、あんた神坂さんの彼氏でしょ?クラスメイトを無視するなんて言いご身分よね」


 遠坂さんが俺を呼び止めてこっちに歩いてくる。

 しかし気づかれた以上はこっちも挨拶しないわけにはいかなかった。


「あ、おはよう……遠坂さん」

「へぇ、私のことをちゃんと知っていたのね。一応それは褒めてあげる。でもね、あんたあの性悪女と付き合ってて恥ずかしくないの?」


 性悪女、とはやはりゆきめのことだろう。

 うん、なんて的確な一言だ。

 し、しかしそれに同調してしまったらどこでゆきめが聞いているかわからないし、適当に怒ったふりをしておこう。


「おい、人をあんまり悪くいうなよ」

「なによ、あの女なんてどうせストーカー気質のメンヘラでしょ。私、目をみたら大体の性格わかるんだから」


 お、おう、その通りだぜ遠坂さん。

 俺はもう君とハイタッチがしたい。

 そしてゆきめの悪いところについて語り合いたい。大人だったらお酒を飲んで朝までだって行けそうだ。


「それに神坂さん、自分は何しても許されるって顔してるよね?そういう高飛車なところがほんと気に入らないの。悪女よあれは。だから彼氏のあんたにもイライラするのよ」


 ファンタスティックだよアリア。

 もう君の言うことに対して一言も文句のつけようがない。

 この子はゆきめの本質を誰よりも理解しているではないか。

 そう、その通りとしか言えない。もうこのまま試合なんてすっぽかして一緒にファミレスで語ろうよ。俺にイライラしてもいいからさ。


「ちょっと聞いてる?」

「はっ!ご、ごめん聞いてたよ」


 いかん、つい嬉しすぎて脳内ではしゃぎすぎた……

 思わず心の中とは言え遠坂さんを呼び捨てにしてしまうほどに舞い上がってしまっていた。


「と、とにかくあんたの彼女むかつくのよ。だから私、あの女をひどい目に遭わせてやるからそのつもりで」

「……本人に言ったのそれ?」

「ま、まだよ!これから言うの!どうせ今日来るでしょ?」

 

 遠坂さんは力強くそう言った。

 ゆきめをひどい目に遭わせることは止めない、むしろ大歓迎だ。

 ゆきめは一度痛い目に合わないとわからないタイプだし、今までは一度もそんな目に遭ったことがないまま育ったのだろう。


 しかしあのバイオレンスストーカーが簡単にやられるだろうか?

 俺はこの子も返り討ちに遭うのではと心配になったが、それでも自信満々な遠坂さんは俺に対して指をさしてきた。


「と、とにかく今日の試合頑張りなさいよ!私は応援なんか絶対してあげないけど完走できるくらいのことは願っててあげるわ!」


 大きな声でそう言ったあと、遠坂さんは一人で客席の方に向かっていった。


 一体なんだったのかはさっぱりだったが、しかし遠坂さんはゆきめのことをよく理解しているようだ。

 彼女とゆきめ談義が開催できれば、きっと話に花が咲き誇り大盛り上がりになるに違いない。

 そんな日が来ることは一生ないのだろうが……


 少し足止めを食らったが、気を取り直してグラウンドに行くと、九条さんがアップをしていたので拾ったシューズケースを届けた。


「九条さんこれ、落ちてたよ」

「あ……ありがとう、気がつかなかった」


 九条さんは照れ臭そうにそれを受け取ると、すぐに荷物を置きにどこかへ行ってしまった。


 やっぱり九条さんも気まずそうだよなぁ。

 なんとか普通にならないかなと思ったりもするが、すぐにそれは無理だなとわからされる。


「おーい、蒼くーん」


 客席から黄色い声が俺を呼びかける。 

 

 ゆきめだ。

 そして隣には、久々に見る俺の親父が座っている。

 さらにその隣には母さんがいる。ちなみにミクもゆきめの横に控えている。


 ……まるで家族だな。いや家族か……ゆきめ以外は。


「おーい、蒼くんってばー。みんな来てるよー」


 ゆきめの大きな声が閑散とする客席に響いて、アップをする他の学校の選手達もゆきめに釘付けになっていた。


 はっきり言って恥ずかしいの一言だ。

 多くの人間がゆきめを見た後で俺を見てくる。


 あまりの辱めに俺は耐えきれず一度スタンドまで行くことにした。


「ゆきめ、大声で呼ぶな!今日はただの記録会だぞ」

「こら蒼、ゆきめちゃんになんて口聞くのよ」

「うっ……」


 スタンドに上がるなりゆきめに注意すると、逆に俺が母さんに叱られた。


「蒼、ゆきめちゃんのおかげでこうして応援にも来れたけど、ちょっとは連絡してきなさい。わかったか?」

「……わかったよ父さん」

「ゆきめちゃん、蒼がごめんよ」

「いえ、いいんですよお父さん」


 久々の父さんにまで、再会を喜ぶ間もなく説教をされた。

 別に普段から厳しい父さんに怒られるのは慣れている。しかしゆきめに対してヘラヘラ笑う父さんなんかは見たくもなかった。


 俺の家族は俺よりもゆきめに対する信頼が異常に高いご様子だ。

 なぜだろう、もうゆきめの方が高山家の娘で俺が婿養子のような居心地の悪さである。


「蒼君、今日はベスト出るといいね」

「いや、復帰戦だしそれなりでいいよ」

「でも今日はいい追い風吹いてるからいいタイム出ると思うよ。顔起こすのを少し我慢してね。あと膝上げすぎたらダメだよ」

「あ、ああ……」


 なんともまぁ専門家のようなアドバイスを送ってくれるが、俺は追い風の時はたしかに力んで上体が起きて後半失速することが多い。


 よく見ているゆきめだからこそのアドバイスだなと、もうストーカーされていたことなど自分で棚に上げてしまい感心してしまっていた。


 そして皆をスタンドに残して百メートルの選手があつまる招集場所に行き、腰に貼る番号シールをもらった。


 俺のレーンは5コース。

 悪くない場所だし、一緒に走る選手の中では自己ベストはトップだ。


 周りには特に知り合いもいなかったので、黙って競技が始まるのを待った。


 やがて前の競技が終わって俺たちはスタート位置の近くまで案内された。


 俺は第一組、つまり一番最初の組で走るためすぐに上に着ていたジャージを脱いでユニフォーム姿になった。


 久しぶりの公式レースとあって、スタート位置に着くと緊張した。


 ゆきめの声援が聞こえていたが、やがてそれも耳に入らなくなる。

 集中して自分の世界に入り位置に着く。

 よーいの声で反射的に尻が上がる。


 そしてピストルの音で一気に飛び出すと、すぐにトップに躍り出た。

 

 いける。そう思った時、半分無意識下の中でゆきめの言葉がなんとなく頭をよぎった。

 体を起こすのを我慢……そんなことを少し意識しながらやがて顔を上げるとスムーズに加速に乗る。


 そのまま一気にトルソーを突き出してゴールに駆け込んだ。


 その時とっさに電光のタイマーを見ると10.70というタイムが表示されていた。


 そして風は+1.9メートル。速報タイムの修正後も掲示されたタイムは変わらず、俺はなんと自己ベストを復帰レースで更新したのだ。


 その時思わずガッツポーズが出た。 


 自己ベストというのは一着をとることよりもはるかに嬉しいものだ。

 風がよかったとはいえ、復帰してすぐにこんなタイムが出るなんて信じられない。


 俺はすぐに屋内の方へよけてスパイクを脱ぎ捨てた。

 そして乱れた呼吸を整えていると、誰かがスポーツドリンクを差し出してきた。


 ゆきめかと思い振り向くと、そこには遠坂さんの姿があった。


「と、遠坂さん?」

「これ、飲みなさいよ」

「あ、ありがとう……」

「べ、別にわざわざ用意してきてたわけじゃないからね!たまたまそこの自販機に売ってたのよこれ」

「はぁ……」


 目も合わせてくれない遠坂さんではあるが、なぜか顔が真っ赤だ。

 続いて何か言おうとしてくるのだが、口ごもっている様子だ。


「あ、あの……あのさ……」

「な、何かな遠坂さん」

「お、おめ、おめでとうって言いたかっただけよ!べ、別に自己ベスト出たから祝ってあげて普通だけどね!」

「あ、ありがとう……」

「ふん、感謝されることなんてないわよ。じゃあね」


 遠坂さんは振り返ってそのままどこかに消えていった。


 いやだからなんだったのだと思いながらも、もらったペットボトルの蓋を開けてドリンクを一気に口に流し込んだその時、柱の陰から視線を感じた。


 ゆきめがジッとこっちを見ている。

 その姿はストーカーそのもの、その典型のような姿で顔を覗かせている。

 俺が気づいて手を止めると、すぐにゆきめがこっちにやってきた。


「おめでとう蒼君、ベスト出たね」

「あ、ありがとう……ゆきめのおかげだよ」

「アリアちゃんの声援のおかげの間違いじゃないの?」

「い、いやお前の声しか聞こえなかったよ……」

「そう、じゃあみんなのところに行こ」


 淡々と機械的に話すゆきめはさっさとスタンドにあがろうとしたので、俺も恐る恐る後をついていった。

 そして階段のところでゆきめが振り返った。その瞬間ポケットからカッターが俺の喉元にスタンバイされた。


「な……」

「ねぇ、今日はいっぱい他の女の子とお話して楽しかった?」

「い、いや……」

「ちなみにそのペットボトル、アリアちゃんの飲みかけだよ」

「え……」

「うっかりしてた?それともちゃっかり知ってた?でも間接キスしたんだ。浮気したんだ。他の女の体液飲んだんだ。あの悪女のを飲んだんだ。もうそれって殺してもいいよね?」

「や、やめ……」


 ちょうど今は百メートルの他の選手のレースが行われており、周辺には誰もいない。

 俺はこんなところで殺されるのか?せっかくベストが出たのに……い、いやベストとかどうでもいいけど死ぬのは嫌だ……


「ねぇ、謝って?」

「ご、ごめん、なさい」

「違う、仲直りの時は?」

「……」


 ゆきめは一度カッターを降ろして俺をじっと見てきた。

 俺は一度周囲を見渡して、誰もいないことを確認してからゆきめにキスをした。

 その瞬間、ゆきめが俺をガッと掴んで思いきり舌を絡めてきた。


「!?!?」

「ん……んん……はぁ、悪いもの全部吸い出してあげたよ。ふふ、戻りましょ」

「……」


 俺は人生で初めてのディープキスをしてしまった。

 あまりの衝撃に心臓が走り終わった後の数倍ドキドキしてきておさまらない。

 なんなら公の場だというのに下半身がどうにかなりそうだ……


「どうしたの、お父さんたち待ってるよ?」

「……ちょっとだけ待ってくれ」


 俺はゆきめに先に戻ってもらい、ドクドクと脈打つ全身をおさめようと必死になった。

 そして何度も何度も深呼吸をしてようやく少し熱が下がってきた時、ふと階段の下を見ると九条さんと目が合った。

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