第25話 告げる

 おやすみのキスはベッドの上でだった。


 キスとはいってもほんの少しだけ唇に触れるだけを心掛けて、ヒット&アウェイの精神ですぐに距離をとる。


 しかしゆきめはそれでも今は満足なご様子で、あっさり眠りについた。

 そして俺は布団に入り一人でモヤモヤしていた。


 いくら強制的とはいえ、キスをこう何回もしてしまっておいて、今更ゆきめをストーカー扱いなんて通用しないだろう。とはいえ俺がしたくてしたわけじゃないし、でも自分からしたのも事実だし……


 出口のない迷路に迷い込んだように頭の中でぐるぐると考えが巡る。

 ゆきめがもう少しまともで、もっと普通に出会っていたら。

 そうだとしたら俺はもしかしてゆきめの事を好きに思えていたのかもしれないのにとまで思うようになった。


 しかしゆきめは変わらない。その異常なまでのストーカー体質に加え、俺に害をなす他人を悪とみなし排除しようとする高い攻撃性を要する。


 この二つがあまりに強力、強烈すぎて、ゆきめの完璧なまでの容姿と女子力、それに俺を好きでいてくれるという加点がどれだけあっても好きになろうとはまだ思えない。


 逆に言えばそれさえなければいいのかと思う人もいるかもしれないが、それがなければ本当に俺なんかにはもったいないを通り超えて恐れ多いほどの彼女である。


 だからこそほんとうにもったいない。

 もったいないと思うのなら付き合えばいいじゃないかというご指摘を各所からいただくかもしれないが、実際にゆきめの脅威にさらされた俺にしかわからないこの微妙な心境は言葉では表せられない。


「高山君、まだ起きてるの?」


 ゆきめが目を覚まして俺に声をかけてきた。

 寝たふりをしようか考えたが、またいつぞやのように永眠させられかけたら敵わないので一応返事をした。


「ああ、起きてるけど……寝れないのか?」

「うん、だからこっちに来て」

「え?」


 布団から顔を出してゆきめの方を見ると、パジャマ姿のゆきめが少し体を起こしてこっちを見ていた。


 薄暗い部屋というのもあってか、少し色っぽいその姿に俺はドキッとした。


「ダメ?」

「い、いやダメだろ……一緒に寝ない約束で泊めてるんだから。約束は守れ」

「ふん、じゃあいいもん。私だって別に一緒に寝たかったわけじゃないし」


 そう言ってゆきめは布団にもぐりこんでしまった。

 

 それを見て俺もまた布団に入り携帯を触りながらぼーっとしていた。

 するとまた後ろでゴゾゴゾする気配がして、ゆきめが俺を呼んだ。


「ねえ。私、怒ってるんだけど」


 これは嘘だとはっきりわかった。ゆきめが怒った時はもっとおどろおどろしい雰囲気で少し震えたような、それでいてなぜか楽しげに恐ろしいことを言うからだ。


 しかし今回は布団から顔を出して携帯を触っていたので寝たふりは通用しまいと、振り返ってゆきめの方を見た。


「怒るなよ。ていうかそろそろ寝ろよ」

「仲直りしてよ」

「いや、別に俺は怒ってないし……」

「私の機嫌とってって言ってるの」


 なんで俺がお前の機嫌なんか取らないといけない……

 勝手に俺の部屋に来て勝手に俺のベッドを占領して勝手に拗ねて勝手に怒って。

 お前の方こそちょっとは俺の都合ってもんを考えろよと言いたい。

 でも、言えない。

 とりあえず、謝っておこう。


「はいはい、ごめんって」

「ダメ、約束が違う」

「約束?」

「仲直りの時はキスするって言った」

「……」

「約束は守るんでしょ?」


 俺は自分の発言の揚げ足をとられた。

 もちろんこんなやつとのあんな形での約束なんて反故にしてしまいたいが、それをすれば俺がこいつに対しての発言力の一切を失うことになるだろう。


 ゆきめは一応自分が一度縦に首を振ったことについては守っている。

 確かに都合の悪いことは約束以前にかき消されていることも多いが、それでも決め事は守っている以上、ゆきめのこの発言には一定の効果がある。

 それに俺は腐ってもスポーツマンだ。

 卑怯な奴に対してでも、自分が卑怯な真似はしたくない。

 だからこそ、どうしたらいいのかわからなくなるんだが……。


「……キス、しないとダメ?」

「ダメ。ねえ、こっち来て」

「い、いやお前が来いよ」

「やだ、こっち来て」


 ゆきめがしらじらしく布団の中にもぐりこんだ。

 わざわざそんな彼女を布団から引っ張り出して「仲直りしてください」と言ってキスをしなければならないのは本当に意味がわからない。

 

 しかし約束は約束だ。

 そう、約束だから仕方ないのだ。俺は別にゆきめとキスがしたいわけじゃない。決してそんなやましい気持ちは持っていないと神にだって誓える。


 俺は渋々立ち上がってゆきめの待つベッドの前に行った。

 しかし当然ながら怒ったふりを続けるゆきめは布団から出てこず、仕方なくその布団をゆっくり捲ると、ゆきめの手が俺に伸びてきた。

 そして俺を布団の中に引きずり込もうとする。


「お、おい離せ! 約束は? 約束はどうなったんだよ?」

「一緒に寝ないとは言ったけど一緒に布団に入らないとは言ってないもん」


 すごい力で俺は引き摺り込まれてベッドに押し倒されると、ゆきめにしがみつかれた。

 なんとか力を振り絞ってゆきめに背を向けたが、ぴったりと俺にくっつく彼女の胸が俺の背中にがっつり当たっている。


「な、なぁ離れてくれって……」

「キスはいいからこうしてていい?」

「……ダメだって言っただろ」

「私の事、嫌い?」

「え?」


 ゆきめは寂しそうな声でそう言った。


 俺はその瞬間なんて答えたらよいかわからなかった。

 嫌いだと言えばゆきめは「じゃあ死ぬ」と言って発狂するかもしれないし、「好き」と言えばもう認めてしまうことになるけど。

 でも、戸惑ったのはそういう理由ではなかった。


 俺がこいつのことをどう思っているのか、わからなくなった。

 実際最初は嫌いを通り越して怖かったし拒否反応しかなかった。しかし徐々に警戒心は解けて、今ではゆきめが普通の時に限るが、俺も普通に話が出来ている。


 そう考えると嫌いだと切り捨てるほどではないし、実際キスまでしておいてその言い方ではあまりに俺が悪者だ。

 結局何と答えたらよいかわからずにいつものように曖昧に答えることにした。


「き、嫌いじゃないけど……」

「じゃあ好き?」

「い、いやそれは……」

「九条さんと私どっちが好き?」


 せっかく答えたと思ったら今度はもう一つ面倒な質問が飛んできた。

 なぜ九条さんなのだというのは今は置いておこう。

 しかしこの手の質問はありがちではあるが本当に厄介だ。


 よくある「私と仕事どっちが大事?」みたいな感じも俺は好きじゃないが、誰かとの優劣をつけろといったこの質問はもっと苦手だ。


 こんな時に世の男性たちは何と答えているのだろう。

 最も、今の俺には選択の余地などないが。


「そ、それは九条さんよりゆきめの方が親しいんだし……」

「ほんと?」

「えと、まぁ……」

「ふふ、じゃあキスして」

「いや言ってることがめちゃくちゃ」

「キスしてくれたら寝るから」

「……」


 もう観念しようと、俺は振り返ってゆきめの方を見た。

 するとゆきめは顔を赤くしながら俺の方を遠慮っぽく見上げている。


「やっとこっち向いてくれた。嬉しい」

「……一回だけだぞ」

「うん」


 もう何のためにキスをしているのかなんてわからなくなっていたが、俺はゆきめとベッドの上でキスをした。

 やはりすぐに離れたが、この変なシチュエーションもあってかいつもよりドキドキしてしまったので理性があるうちに俺は急いでベッドを降りた。


 ゆきめは納得したのか食い下がっては来ず、すんなりと布団を直して床に就いた。


 俺はおやすみも言わずに布団に潜り込んだ。

 少ししてからゆきめの寝息が聞こえてきたので、やっと寝てくれたのだとホッとしたのも束の間、今度は俺が眠れなくなった。


 ……ゆきめって、こうしてると普通の女の子だよな。

 それにキス、これから毎日するんだよな。

 ていうかしていいんだよな。

 何ならこの先も……


 俺は今後のことを考えると途端に恥ずかしくなってきて眠気が吹っ飛んでしまった。


 今この部屋にゆきめが眠っていると意識するだけで、もう気が気でない。


 俺に従順で、俺を好きで仕方ない女の子がここで無防備に眠っている。

 その事実だけで俺から眠りを奪うには充分だった。


 結局眠気が来たのは朝の三時を少し過ぎた頃だった。

 


 翌朝はゆきめが俺を起こしてくれた。


「おはよう高山君、朝練遅刻しちゃうよ?」


 眩しいほどの笑顔でまだ薄暗い朝に光を射してくる。

 こういったきざな表現も決して大袈裟ではないほどにゆきめは綺麗だ。


 そして眠気を覚ましながら「おはよう」と言うとゆきめが首を横に振る。


「おはようの時に何するんだったか忘れた?」


 ぷんぷんと敢えて口に出して怒りを表現してくるゆきめの顔は既ににやけていた。

 言われなくても覚えている。

 むしろゆきめがうっかり忘れてくれていないかと期待した結果の「おはよう」だったが、そんなことはもちろん無駄だった。


「……これ本当に毎日するの? せめて一日だけとか」

「嫌なの?」

「……」


 結局ゆきめの押しに負けておはようと言いながらキスをした。

 人間何回かこういうことをすれば慣れるのかと思ったがそうでもない。

 こいつとキスするたびに俺の下半身は熱くなり心臓は飛び出しそうになっている。


 もちろんそれを悟られないように平然を装ってはいるが、ゆきめにはどこまで見透かされているのだろう。


「ふふ、高山君のキスって優しいね」

「……絶対に人前ではしないからな」

「うん、でも九条さんにはちゃんといってね」

「あ……」


 忘れていた、というよりは忘れたかっただけなのだろう。

 すぐにこれから待つ地獄に突き落とされた。


「そ、それって本当にやらないとダメなのか?」

「ダメ。別に友達に彼女とキスしたって話すだけだよね?」

「い、いやでも女子にそんな話するのはちょっと恥ずかしいし……」

「恥ずかしい?」


 不思議そうに首を傾げるゆきめを見ていると、何を話しても無駄なような気がしてきた。

 ただ、それでもわずかな可能性に賭けて「言わないとどうなる?」と質問すると「教室でキスする」と、とんでもないことを言ってきたので俺は観念した。


 どうやって九条さんにその話をしようかと焦りながら考えているとあっという間に時間は経ち、ゆきめにせかされるように俺は部屋を出ることになった。


「いってらっしゃい、頑張ってね」

「あ、ああ行ってきます……」

「ん」

「ん?」

「いってきますの時は何するんだった?」

「え?」


 待て、いってきますのキスは約束に含まれてなかったような気がするぞ?

 議事録があるわけではないからはっきり言えないが、確かおはようおやすみ仲直りの三つという約束で話をしたはずだが……


「いってきます……」

「あ、無視した! ぷんぷん」

「……」

「ねぇ、怒ってるんだけど?」


 どうあってもキスするまでは俺を逃がすつもりはない、ということか。

 ゆきめが自己申告で「私は怒っている」というたびにキスをしないといけないのなら、もう約束なんてあってないようなものだ。


 やはり仲直りなんて曖昧な基準の約束をするべきではなかったのだと後悔しながらも、ゆきめの可愛い唇にそっとキスをしてから一目散に玄関を飛び出した。


 ……いってきますのキスなんてまるで新婚カップルのようではないか。

 それにキスをせがむ時のあいつの顔、なんて可愛いんだ。

 あーもうなんなんだあいつは……いっそのことあいつがとんでもない不細工だったら俺もこんなに迷うことはなかったのだろか。


 まだ感触の残る唇をスリスリしながら一人で登校する姿は他生徒に見られたりしたらさぞ気持ちの悪いものだっただろう。

 自分でもわかるが、少し顔が緩んでいるような気もした。

 ニヤニヤしながら朝練に顔を出しては九条さんにまで変に思われる可能性もある。

 正門の前で一度両手で自分の頬を叩いてから、気合で煩悩を封じ込めた。


 着替えを済ませてグラウンドに向かうと、そこには昨日同様九条さんがいた。


「おはよう九条さん」

「あら、来たんだ。それなら早速アップしてきて。今日はラダーをするわよ」


 ラダーとは、地面にラダーを置いてそれを使ってステップワークや切り替えしなんかを行う俊敏性を鍛えるトレーニングなのだが、これもまた俺が苦手としているトレーニングの一つだ。


 九条さんは敢えて俺の苦手分野をメニューに組んでくれているのか?

 いや、そんな話はしたこともないし、偶然、俺の走りを見て感じた課題をクリアしようとすると自然とここにたどり着いたのだろう。

 なるほど、コーチとしての資質もあるのかな。


 先にアップを済ませている九条さんに追いつくように俺も慌ててジョギングを済ませ、ストレッチをしている時に九条さんの方から話しかけてきた。


「ねぇ、今日も神坂さんとどこか行くの?」

「え?」

「ほ、放課後の話よ。毎日一緒に帰ってるから」

「ま、まぁ家近いし……でも予定という予定は今日はない、かな?」


 偶然の産物ではあるがゆきめのことに話題が及んだ今がチャンス、かもしれない。

 このまま話の流れで「でも今朝もキスさせられてさー」くらいの感じであっさりとゆきめから課せられたノルマを達成してしまおう。


「でも今朝」

「予定ないなら、放課後スポーツショップ行かない?」

「へ?」


 少し食い気味で九条さんが俺を買い物に誘ってきた。

 別にそれだけならなんてこともない話なのだが、問題は九条さんのその時の様子だ。


 顔を真っ赤にして、体をくねくねさせながら恥ずかしさ全開で俺を誘ってくるもんだから、こんな俺にだって九条さんの心情は手に取るようにわかった。


 ……マジでこの子、俺のこと好きなの?

 今まではゆきめに何を言われても半信半疑だったが、こんな姿を見せられたらもう認めざるをえないだろう。


「え、えと……」

「ダメなの? ちょっとシューズ選びで相談したいだけなんだけど……」


 ダメだ、こんなか弱い女子のような九条さんは初めてすぎて全く俺の思考が追い付かない。


 それに買い物云々以前の問題で、こんな九条さんに対して「ゆきめとは今朝もキスしたけどね」なんて脈絡のない残酷な話をできるわけがないだろ……


「どうなの?」

「え、まぁ予定次第では……」

「そう、そうよね。でも彼女がよかったらお願いね」

「は、はい……」


 まだ顔が赤いままだったが、何とか毅然としようと踏ん張る九条さんはそう言ってから用具倉庫に向かっていった。


 そして今更ながら、九条さんにキスの件を話すことがいかにハードルの高いミッションなのかということを思い知った。


 さすがに無理じゃないかとすら思えてきたが、そんな俺の妥協すらも許してくれないのがあいつである。


 カバンの中で携帯が鳴っていた。

 すぐに取り出してみるとゆきめからメールが入っていた。


『ちゃんと言ってね』


 そう書かれたメールは、たった一言ではあったが俺の背筋を強制的に直立させた。

 覚悟を決めろということか……


 そうだ、別に九条さんにどう思われても俺には……いや関係ないことはないだろうけど、異性として嫌われてもそれは仕方ないのかもしれない。

 それにキスをしたのは事実だし、やってしまったことを隠すのも男らしくないのかもしれない。

 うん、そう思うようにしよう。


 俺はようやく自分の心に折り合いがついたので、こっちに向かってくる九条さんの方へ、決意新たに足を向けた。


「九条さん、あのさ」

「高山君、これから毎日朝練しない?」

「え?」

「朝くらい、私に時間作ってほしいな……」


 お、おいおいおい……それってもう告白だよねと言いたくなるようなことを九条さんに言われてしまったぞ?


 そして俺はまたキスの件を話すタイミングを逃した。というよりは潰された。


 この流れで「毎朝ゆきめとキスしてきてから朝練くるね、あはは」とか言えるわけないだろ……

 そんなことをこの状況で言えるのなんてゆきめくらい狂ってないと無理だ……


 俺は九条さんに返事もできず、固まっていた。


 カバンの中で再び忙しそうに携帯が鳴っている……。

 

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