第23話 おもい
帰り道。
ゆきめは俺の手を握りながら九条さんの話をしてくる。
「ねぇ、九条さんに何言われたの?」
「えと、明日一緒に朝練しないかって……」
「OKしたの?」
「まぁ、断る理由はなかったから」
「ふーん」
やっぱりまずかったのだろうか?
そもそも俺がこいつの為に気を遣って誰かの誘いを断る理由はないのだが、それでもゆきめを無視できるほど俺は肝が据わってはいない。
「お、お前もくる?朝早いけど」
「んー、どうしよっかな。でも、せっかくだから二人で練習して来たら?」
「い、いいのか?」
「何よ、私が束縛強い女みたいな言い方はやめてよね。それとも九条さんと何かあるの?」
「い、いや何もないけど……」
「じゃあいいよ」
意外にもあっさりとゆきめは朝練の件を承諾してくれた。
もちろんそれを手放しで安心するほど俺もバカではない。
怪しい。
絶対に何か考えがあるに違いない。
あれだけ敵対視して、嫌がらせをしまくっていた九条さんと俺が二人きりで朝から練習するのを何もなしに容認するとは思えるわけがない。
もしかしたら俺を泳がせておいて、九条さんと親密そうな場面を隠し撮りしてから後で脅すとか、そんなことを考えていそうだ。
だからこいつも一緒に来てくれた方がむしろ安心だったのだが……
「それより、お鍋の具材を買いに行きたいからスーパーに行こ?」
ゆきめはその後も九条さんの話を深く聞いてくることはなく、ただ二人で買い物をして家に帰ってという日常を過ごした。
「じゃあ明日、また朝はご飯作りにくるからね」
今日のゆきめは不気味なくらいあっさりしていた。
全くと言っていいくらいヒステリックにならず、風呂でも背中を流してくれたが何も誘惑はしてこず、部屋で二人きりになってもキスをせがんでも来なかった。
これを物足りないなんて感じてしまった時は、いよいよ俺もお終いなのだろう。
そんな冗談めいたことを考える余裕があったのは、ゆきめに対しての耐性ができたせいなのだろうか。
俺は久しぶりにゆきめから解放された安心感で眠りについた。
◇
翌朝。
ゆきめはいつものように早朝から俺の部屋にいる。
そして手際よく朝ご飯を作ってくれながら、この後の九条さんとの朝練について話を振ってきた。
「朝練ってそういえば何するの? れ、練習の内容が気になるだけで特に意味はないけどね」
「まだ聞いてはないけど、ジョグしたり軽くストレッチしたりとかじゃないかな? 俺も朝練なんて中学校以来だから」
「ふーん。でも九条さんも高山君と二人きりで練習なんて今頃ワクワクしてるんじゃない?」
「そんなタイプの子には見えないけどなぁ」
ゆきめは淡々と、別に意地にもならずイライラもせず嫉妬心をむき出しにすることもなく話をしてくる。
一体何を考えている?
まさか、本当に九条さんが無害認定されたのか?
……いや、それはやはり考えにくい。
何か新手の嫌がらせを用意していると警戒しておく方が賢明だろう。
「とにかく、別に練習するだけだから九条さんを困らせるなよ?あの子も大会近いし、学校の期待を背負ってる身なんだから」
「はーい」
俺はゆきめに一応念を押してから先に家を出た。
そもそもストーカーを一人自分の部屋に残して部屋を出るなんてことがどれほど愚行なのかという点については、学校に着く頃になって初めて気が付いたのでもう後の祭りだった。
今から引き返したところで何かされていたとしたら間に合わないし、九条さんとの待ち合わせにも間に合わなくなるので、部屋の様子は気になりながらも振り切るように部室に向かった。
すると既に準備して体操を始めている九条さんが、薄暗さの残る朝のグラウンドに一人で立っていた。
「おはよう高山君。今日はよろしく」
「おはよう九条さん、早いね」
「ええ、ちょっと寝れなくて」
「暑いもんなぁ最近。俺もすぐ目が覚めるよ」
「そういうことじゃないのに……」
「え?」
「な、なんでもないから早く着替えてきて」
九条さんは少し焦ったように先にランニングに行ってしまった。
俺はすぐに着替えてから、グラウンドの周りを走る九条さんに合流した。
「九条さんは毎日朝練してるの?」
「ええ、日課みたいなものよ」
「すごいなぁ。そりゃあれだけのタイムが出るわけだ」
「高山君だってすごいわよ……」
「え?」
「な、なんでもない! ほら、呼吸が乱れるから私語禁止よ」
九条さんにお喋り禁止と言われてからは、淡々とアップをこなしてから基礎練習を行うことになった。
「ハードルジャンプを10本して、腹筋背筋をしてからダウンにしましょう」
「俺、苦手なんだよなぁこれ。接地のタイミングが難しいし」
「大事な基礎トレーニングよ。特に高山君はもっとバネをつけないとだからおすすめするわ」
彼女もまた、俺の走りをよく見てくれているようだ。
淡々と話してはいるが、陸上の事となると意外とよく喋るし、大笑いはしないが時々優しい表情も浮かべる。
思っていたより絡みやすい人なのかな?
しかしふと気を許しそうになった時にゆきめの顔が頭をよぎる。
そうだ、今この瞬間もゆきめがどこかで見ているかもしれない。
それにゆきめは、九条さんが俺の事を好きだと言っていた。
もしかしたらそうなのかと思うような行動もあったりはしたが、それでも今日の態度を見ている限りはやはりそうとも思えない。
トレーニングの間も特に表情を変えず俺にアドバイスを送ってくれる九条さんはそれでも活き活きしているように見えたが、陸上が好きだから故だろうと俺はそう解釈して、練習に集中することに。
そんなこんなでメニューをすべて終えた時。
九条さんが汗を拭きながら俺にゆきめのことについて聞いてきた。
「高山君、神坂さんとは付き合って長いの?」
「え、いやそれはだな……」
そもそもなぜ俺とゆきめが付き合っている前提での質問なのかとまずそこにツッコみたかったが、この会話だってゆきめがどこかで聞いているかもしれない。
それに一応手を繋いで帰ったりするところを部内の人間にも目撃されているし、あまりあいつとの仲を否定すると俺の方がチャラ男のように思われるかもしれない。
だから一応、曖昧な形で「そこそこ」とだけ答えた。
「そうなんだ。神坂さん綺麗だもんね」
「まぁそれは認めるけど……でも九条さんだって綺麗だし人気あるじゃんか」
「わ、私!? い、いえそんなことないわよ……」
あれれ、九条さんが……照れた?
あれだけ注目の美人アスリートとして雑誌にも取り上げられてるのに、今更綺麗と言われて照れることなんてあるのか?
しかしこの反応は明らかに恥ずかしがっている。
顔もどこか赤いし、いつもの凛とした感じよりどこかもじもじしているように見える。
「い、いやみんな言ってることだしそんな照れなくても」
「て、照れてなんかないわよ! ちょっとくしゃみが出そうになっただけよ」
九条さんはそう言って立ち上がると、「着替えないと遅刻するわよ」と言って先に更衣室へ向かっていこうとした。
俺も慌ててついていくと、更衣室の前で別れる時に九条さんが俺に質問してきた。
「……さっきのは、お世辞じゃない?」
「え、さっきのって?」
「い、いいわよもう。じゃあ今日はありがとう。また放課後部活で」
九条さんは少し強めに扉をしめて更衣室に入っていった。
俺はそれを見送ってから男子更衣室で着替えて、外に出ると今度はゆきめがタイミングを計ったかのように待ち構えていた。
「朝練お疲れ様」
「あ、ああ。ゆきめは今来たところ……じゃあないんだよな?」
「んー、どうかな? どっちだと思う?」
相も変わらず悪そうな顔でゆきめは俺に質問を投げ返してきた。
正直こいつが今来たかどうかについては半信半疑だった。
なぜなら、こいつは俺の部屋を十分に堪能しつくしてからここに来た可能性もあるし、早々に俺を追いかけてきて学校のどこかに潜んでいた可能性もある。
……まぁどっちにしても最悪だけど。
「それより部屋の鍵ちゃんと閉めたのか?」
「うん、それにお掃除もしておいたよ。パソコンの」
「パソコン? そんなに埃被ってたっけ?」
「んーん、中のいらないファイルとか削除しておいたから快適に動くようになったの。帰ったら確かめてみて」
「それは助かるよ……じゃなくてパスワードはどうやって解除したんだ!?」
「ふふ、秘密♪」
ゆきめは自分の人差し指を俺の鼻の下に当ててきて可愛らしくそう答えた。
もちろんパソコンの中に見られてまずいものはなかったので、俺も敢えてこれ以上は聞かなかった、というかもう聞くのが嫌になった。
帰ったらパスワード変えておこうか……いやそれすら無駄な気がするからやめよう。
「そういえば、九条さんとの練習はどうだった?」
今更ながらに、絶対にされるだろうと構えていた質問が飛んできた。
「い、いや基礎トレをやっただけだよ。でも九条さんも俺の走りの傾向とか理解してくれてたみたいだよ」
「理解、ねぇ。じゃあ今度は高山君のフォーム談義でも彼女としようかな」
ゆぎはどこか嬉しそうだった。
しかし俺は、何故急に九条さんの事に対して甘くなったのかが気になって仕方がなかった。
やはり九条さんが無害だと思ってくれたからなのだろうか。
しかし直接的にはそんな話もできず。
遠回しに九条さんの話題を振る。
「なぁ、もう九条さんとは仲良くしてやってくれよ。あの子も別に俺に気があるとかじゃないみたいだしさ」
「何も誘われなかった?」
「当たり前だろ、朝練しに来てるんだから」
「私の事について聞かれた?」
「え、まぁちょっと聞かれたけど……」
俺が答えると、またゆきめは嬉しそうに白い歯を見せながら笑みを浮かべた。
「でも、そこそこの付き合いだなんてひどいなぁ。もう知り合ってからずいぶん経つのに。なんでそんな言い方したの?」
「いやそれはだな……いや待て、お前やっぱり聞いてたのか?」
「質問に質問で返すのはよくないって言ってるでしょ? なんでそんな言い方したのかを聞いてるの。九条さんに私とラブラブだって思われたくないの?」
「そ、それはだな……」
しまった、ゆきめが大人しいもんだからつい油断した。
九条さんと会うのは問題ないにしても、こいつの話をする時は細心の注意を払うべきだった。
しかし後悔先に立たずとはまさにこのことで、ゾーンに入ってしまったゆきめはどんどん目を曇らせていく。
そして間髪入れずに俺に迫ってくる。
「あーあ、九条さんのこと何とも思ってないって言うから練習行かせてあげたのに。実はそうじゃなかったんだね? 嘘ついたんだね? 気があるんだね? これって浮気だね、浮気だよね? それに九条さんも九条さんだよ? 人の彼氏に色目使ったんだね。これって裁判なら私勝てるよね? ねぇ、どう思う高山君?」
「あ、あの……」
あまりの怖さに俺は言葉を失った。
まるで呪文を唱えるかのように次々と言葉を並べていくゆきめは、俺が唾を飲んだ瞬間に今度は急に表情を崩した。
「なーんてね、びっくりした? ふふ、高山君が浮気なんか絶対しないもんね。でも、九条さんが本気になったら可哀そうだから、変な気を持たせたらダメだよ?」
ゆきめはそう言って俺のほっぺたを人差し指で軽くグリグリしてから隣にピタッと張り付いた。
まるで二重人格かと思うほどに表情も態度も声のトーンも急に変わるので、俺はその変化に対応できず口をパクパクさせていると、ゆきめが至近距離からまた質問してきた。
「私が怒ったと思った?」
「ま、まぁ思ったけど……」
「だから、なんで私が高山君のことで怒らないといけないのよって言ってるでしょ? そんな自意識過剰さんにはこうだ♪」
「ち、近いって……」
「だーめっ! 今日はこのまま教室行くの」
ゆきめが俺の傍を離れない。
思いきり胸が当たるように腕を組んできて、頭は俺の肩にもたれかかっている。
そんな俺以外の誰もが羨むような状況のまま校舎へ向かう。
学校中がざわついたのは言うまでもない。
時々どこかから「イチャイチャすんな」と心無いヤジが飛んだ。
しかしそんなことを言ってくるやつに言いたい。
しなかったら殺されるとわかってて、それでもなお強固な姿勢で命を懸けて毅然とした態度で異常者に立ち向かう勇気がお前にはあるのか?
そんな強者、いや勇者がいるのだとしたら是非その勇気を俺に分けてほしい。
少なくとも俺にはそんな度胸はない。
だって、今だって隣でゆきめはうわ言のように「好き好き好き好き好き好き」とずっと呟いているんだ。
人間はいつか環境に慣れる生き物だ。
俺もいつか、こんなやつの重い想いに耐えられるようになってしまうのだろうか。
落ち着きをなくした校舎の中で、俺は一人そんなことを考えていた。
するとゆきめが俺に聞いた。
「私って、重い?」
まるで今の俺の心境を見透かしているかのような質問だった。
もちろん俺は「うん、重い」なんて答えらえず、ただゆっくりと首を横に振った。
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