第21話 予定調和

「ふんふんふーん♪」

「随分とご機嫌だな……」

「そう見える? べ、別にお寿司が美味しかったから当然だもんね」


 ゆきめはプンプンしながらも口元がニヤけている。

 そして俺の手はガッチリとゆきめに握られているままだ。


「なぁ、今日は飯も食べたことだし帰ったら寝ないか?」

「一緒にってこと?」

「違う、別々だ」

「じゃあ、さっきミクちゃんと話してたこと、教えてくれたらいいよ」


 ゆきめがなんとも悪そうな顔でこっちを見上げてくる。

 悪戯な、いや小悪魔な、いやいやこいつのはただの悪意だ……


「なんでもないって。それにミクの言ってたことだってあいつが勝手にだな」

「じゃあミクちゃんが私に嘘ついたの? え、兄妹で私をからかったの? そうなの? ねぇ、どうなの?」


 繋いだ手はそのままに、握力を強めてゆきめが詰め寄ってくる。

 さっきまでのだらしない顔はどこかに消え、ゆきめの黒目が大きくなっていく。


「い、いや別に嘘は言ってないというか……」

「じゃあミクちゃんが言ってたことは本当?」

「そ、それは……」

「え、嘘?」

「ほ、本当だ本当! あいつが嘘つくわけないだろ」

「なぁんだ、よかった。私、ミクちゃんのこと好きだから嘘つかれたらショックだったのよね」


 うふふと笑うゆきめの顔の切り替わりは、どこかにスイッチでも付いているかのように早く、そして正確である。


 さっきの顔は、確かに俺とミクを殺してしまわんといった恐怖をはらんだ、いや恐怖そのもののようだったというのになぜ今は穏やかに笑えるのだろう……。


「と、とにかくだな」

「もうその話はいいから、今日もお部屋行くね」

「……」


 これ以上どう回避したらよいかわからず、俺は黙ってゆきめを部屋に入れた。


 とはいっても別に部屋に着いた瞬間奇行に走る彼女ではなく、むしろ部屋の片づけや掃除、風呂の準備や明日の朝食の用意まで整えてくれるのだからこうなると文句は言えない。


 ここまで文句ひとつ言わず手際よく家事をこなし、しかも愛想がよくて抜群に綺麗なのだから、きっとゆきめはどこの誰にでも気に入られる存在なのだろう。


 なぜここまで完璧なのに俺にストーカーなんかするんだ?

 真正面から突っ込んでこられたら俺だってノックダウンしていたかもしれないのに。


「明日の朝はホットケーキにして、お昼は食堂に行かない? 私まだあそこのカレー食べてないのよね」


 掃除をしながらゆきめが話しかけてくる。


 ほんと、ゆきめは綺麗だし俺にも普段は優しいしうちの家族と仲良いし、ほんと付き合ってしまったら色々と解放されるのかな?


 いや、こいつの中では既に俺たちは付き合ってることになってるんだった。

まぁそれだって周りを信用させるためのブラフという可能性すらあるが、こいつの思考だけは読めないからなぁ……


「なぁゆきめ、俺とお前っていつ付き合ったことになってるんだ?」

「なぁにその質問、まるで私たちが付き合ってないみたいな言い方じゃん」

「い、いやそれは……」

「私と付き合ってて困ること、あるの?」

「そ、それは……」


 ゆきめと付き合ってて困ること。

 ……他に彼女ができない、とか?

 いや、そもそも候補もいなければ好きな人もいない。

 基本的に俺は奥手ではあるし案外好みというか理想は高い。


 それに気の利いたことができる性格でもないし、陸上という狭い世界では多少モテたが学校で見れば俺の存在はマイナーだ。


 ミクの言う通り、こいつは俺の身にあまる彼女なのかもしれない。


 わかる、わかるよ。頭ではわかってる。

 でも、付き合ってしまったら……いや、俺がそれを認めたら一生こいつから逃れられなくなる。


 ただの勘だがこれは人間が誰しも持っている危機回避の予感でもあると、俺は確信している。


「ねぇ、どうなの?」

「ま、まぁ別にないけどさ……ほ、ほら、記念日とかもないのってちょっとどうかなって……」

「なぁんだそんなこと? じゃあー、今日をその日にしましょ♪」


 ゆきめはそう言って掃除用のエプロンを外すと、俺の隣に座ってきた。


「な、なんだよ?」

「ふふ、今日は記念日だから……イチャイチャしたいな」

「!?」


 ゆきめが俺に胸を当てるように寄ってきた。


 あ、柔らかい……それに大きいし、一緒に当たる二の腕も細いのにあたたかくてふわふわしてる。

 ちょっと突き出してくる唇は、とてもみずみずしいし気持ち良さそうだ。

 太もも……なんでそんなに綺麗なの?

 毛穴すらないのかというくらいに真っ白だ。

 きっと触ったら気持ちいいんだろうなぁ……


「ってダメだよ! は、離れろ! 俺はそんなことまではしないぞ!」

「なんでー? 付き合ってるんならこのくらい普通だってー」


 もう俺の腕を掴んで離さないゆきめは俺を押し倒してこようと体重をかけてくる。

 俺は精一杯の脚力で踏ん張るが、ゆきめの力が強い……


「わ、わかったから一回、一回離れてくれって!」

「ムラムラしてきた?」

「し、してきたら困るんだって!」

「私は困らないよ?」

「……」


 そのウルウルした目で俺を見るな。

 頭が変になりそうだ……


 い、いかん……もう手が勝手にゆきめにのびてしまう……


「ねぇ、イチャイチャしよ?」

「……ダメだって言っただろ」

「してくれないなら、今から押し倒すよ?」

「て、手を……手を繋ごう、それでどうだ?」

「さっき繋いだ。そんなの普通だもん」


 ダメだ、逃げられない……

 無理矢理こいつを引き剥がして逃げる、と言う手もあるにはあるがそれはその場凌ぎでしかない。

 きっと明日にでも、いや今日の夜寝ている間にでもリベンジされるだけで結果はもっと悪くなりそうだ。


「じゃ、じゃあ何したら離れてくれるんだ……」

「キス、したいなぁ」

「!?」


 キス、キスだと?

 まて、そんなことしてしまったら本当に恋人になってしまうじゃないか。


 もちろん俺も健全な男子高校生だ、キスはしたい。

 エッチなことにも興味あるし遊びたい願望だってないわけじゃない。


 でもこいつは、こいつはダメだ……

 遊びにも洒落にもならない。

 それに好きでもない奴とキスだなんてそんなこと……


「そ、それ以外は?」

「ない、キスしたら離れてあげる」

「……い、一回だけか?」

「別に何回でもいいよ?」


 もう俺の思考はぐちゃぐちゃだった。


 キスをすればとりあえず貞操は守れるということだけはわかった。

 それが問題を先送りにして、さらに明日からのゆきめをエスカレートさせる結果にしかつながらないことも予想はできた。


 しかし、しかし今自分の人生を全て棒に振る覚悟までは出来ていない。

 キスくらい欧米人なら日常でやっていることだ。

 それで納得してくれるのなら……


「い、一回だけだぞ……」

「いいよ。ん……」


 ゆきめが目を瞑って唇を俺に向けた。

 俺はその綺麗な顔を見て唾を飲んだ。



 今から、今からこいつとキスをする……

 待て、今ゆきめが目を閉じているのならその隙に……いやそれはダメだとさっき結論を出したじゃないか……


「早く」

「は、はい……」


 急かされて、俺は覚悟を決めた。

 ちょっと俺の唇が彼女のに触れる、それだけのことだ。


 そう割り切りながら俺はゆきめにキスをした。


「ん」


 ほんの1秒程度だったが、その感触は今までの人生で味わったことのないなんとも言えない心地よさだった。


 その瞬間に俺をグッと引き寄せようとするゆきめの腕に逆らうように俺は正気を保って離れた。


「も、もう終わり……や、約束だろ……」

「ふふ、私たちキスしちゃったね。今日は初めて高山君とキスした記念日ってことでメモしておくね」


 少し恥じらうように頬を朱く染めて微笑むゆきめがそう言って携帯のカレンダーにメモを残していた。


 俺はゆきめとキスをした。

 もうここまでしてしまった以上責任を取らなければならないのだろうか……

 い、いや別にキスくらいで……

 でもキスくらいでなんて言うのは軽いのか?


 あー、もうわからん!

 だけど俺はキスしろと脅されてしただけだ。

 だから何も悪くない、悪くないのに……


「高山君、キスって気持ちいいね」


 俺は耳元でゆきめの艶かしい声を聞いてゾクっとした。

 さっきのキスの余韻がまだ残る中でそんなことを言われたもんだから、また変に興奮してしまっていた。


「で、でも一回だけの約束だ……もう離れろ」

「約束は約束だもんね。ふふ、さっきの写真あとで送っておくね」

「ああ、わかっ……さっきの写真?」

「キスの時のだよ。ほら」


 ゆきめの見せてくれた携帯の画面には、見事に俺たちがキスしている写真がおさめられていた。


「お、お前こんなもん撮ってどうする気だ!?」

「毎日見て楽しむだけよ。それとも知られてまずい人とかいるの?」

「い、いや別に……」

「ふふ、そうよね。じゃあ私、今日は部屋に戻ろっかなー」


 ゆきめはそう言ってスッと立ち上がり玄関に向かっていった。


 いつもなら帰れ帰れとその場であしらうのだが、何故か玄関先まで見送りに出てしまったのはきっとキスをしてしまった罪悪感なんかもあったのだろう。


 黙って出て行こうとするゆきめに対して、何か声をかけなければいけないような、そんな謎の責任感に駆られて俺はゆきめになぜか礼を言った。


「今日はさ……その、ありがとう」

「それはキスのお礼?」

「い、いや母さんもミクも喜んでたし……」

「彼女として当然のことをしただけよ。だ、だから別にお礼なんていらないから」


 急に出てきたツンデレキャラが、何故か今は鬱陶しくない。


「じゃあ、そういうことで……」

「キス、またしたいね」

「え?」

「べ、別にキスが気持ちよかったからで高山君じゃなくてもい、いいんだからね! でも他の人と私がキスしても、いーい?」


 玄関のノブに手をかけて少し振り向きながら俺にそう言ったゆきめの顔を見て俺は何も言えなかった。


 なんとも言えない、言葉にできない気持ちになっていたのをゆきめに悟られたくなかったからだ。


「じゃあ明日またね、おやすみ」

「ああ、おやすみ……」


 彼女の姿が見えなくなると、俺は何の意味もない鍵を閉めてから部屋に戻った。


 そして今ここでゆきめとキスをしてしまったことを思い出した。


 ……これ、大丈夫なわけないよな?


 俺はもっとキスの余韻に浸って悶えるのかと思っていたが、なぜか冷静になり、少しゾッとした。


 しかし、その感触もまた本物で、俺は初めて女の子とキスをした事実に徐々にドキドキしてきていた……


 ゆきめの唇、柔らかったな……



「やーん、高山君とキスしちゃったよー♪ あー、死ねる! もう死んでもいい! いや、まだ死なないけどうれちー!」


 私は部屋で一人悶えていた。

 そしてうっとりと高山君ポスターに語りかける。


「見て高山君、私とキスしてる写真! ね、本当でしょ? うん、夢じゃないの! あー嬉しい誰かに言いたいよー! あ、ミクちゃんに報告しとこ♪」


 私はミクちゃんに写メを添付してメールした。


 するとすぐに「お姉ちゃんおめでとう!」と祝福のメールが返ってきてまた悶えた。


「なんか高校に来てから全部順調だなぁ。もうキスまでしたんだから次は……やーん私のエッチー♪」


 私は散々大声を出したあと、少し落ち着いてから明日の準備を整えている時にふと閃いた。


「あ、そうだ。これ九条さんにも送っておこっと」


 何の躊躇いもなしに、当たり前のように、まるで親友に幸せな報告をするかのように九条さんにメールを送った。


 もちろんそのメールに彼女からの返信はなかった。




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