第19話

 練習中でのこと。

 

 どうも今日の九条さんの走りはおかしいということに、スタブロを使った50m走の練習に入ったところで気が付いた。


 走りがバラバラだ。

 上半身と下半身の動きがかみ合っていないから、まったくスムーズに前に進んでいないし、どこか覇気もない。


 どうしたのかと声をかけたかったが、他の女子部員の先輩が話をしているようだったので俺は気にしないように練習を続けていた。


 しかし次の練習の時、ゆきめが近くに来た瞬間九条さんの目の色が変わった。


 そして何か独り言を呟いているのを聞いてしまった。


「見てろあの泥棒猫……まだ勝負は終わってないんだから」


 多分ゆきめに向けて放った言葉なのだろう。

 俺は聞かなかったことにした。

 そして着替えを取りに行くふりをしてその場を離れた。


 10分後、練習に戻るとまたしても九条さんが虚ろな目をしてゴール地点から帰ってくるのを目撃した。


 ゴール付近にはゆきめがいる。

 きっと何かあったに違いないが、九条さんに聞くべきかゆきめに聞くべきか、それとも触れないという道を選ぶか迷った挙句、走り終わった後にゆきめに話を聞くことにした。


「なあわ九条さんに何したんだ?」

「え、メールしかしてないよ」

「メール? なんの話だ」

「高山君の携帯から二人の写真を九条さんに送ったんだよ」

「!?」


 いつだ? 

 いつそんなことをする隙があった?


 あ……しまった。

 今朝こいつに例の画像を消せと言って携帯をうっかり渡してしまったのだ。


 なんて迂闊な……ストーカーに自分の携帯を預けるなんて自殺行為というかもはや自殺そのものだ。


「……いやまて、俺の携帯に九条さんの連絡先入ってないだろ?」

「グループのところから引っ張ってきた」

「あ、なるほど……いや待て待て、ツーショットなんかいつ撮ったんだよ!?」

「この前朝起きた時に撮ったよ?」

「さいですか……」


 思わず関西弁でちゃったよ……

 しかしそれで今日九条さんはボロボロなのか。


 ただ、これってどうなんだ?

 マネージャーとして部員の、しかも女子のエースの調子を乱す行為なんて許されていいはずがない。


 それはズバッと言ってやらないと。


「ゆきめ。お前マネージャーなんだから九条さんを不調にするようなことするなよ。」

「してないよ? ただ自慢しただけだよ」

「い、いやいやだけど」

「人の男好きになって勝手に自滅してる奴の事まで面倒見れないなぁ私」


 人の男とは、つまり俺のことか?

 俺は誰かの男になった覚えはない、というか確実にお前のものではないぞと言いたくて仕方なかったが、今は練習中だ……。

 こんなところで揉めてみんなの練習の妨げになるようなことはしたくない。


 反論を呑み込んで、俺は諦めてスタート位置まで戻ることにした。


 その後も九条さんは本調子とは程遠く、小林先生に申し出て早退していた。


 もちろんそんなことは知ったこっちゃないと言わんばかりに、練習終わりにゆきめが俺のところに嬉しそうな顔をして寄ってくる。


「練習お疲れ様、この後楽しみだね」

「……なぁゆきめ。お前俺の携帯使って他に変なことしてないよな?」

「変なことはしてないよ?」

「変じゃないことはしたのか」

「お母さんにメールしたくらいかな」

「!?」


 こいつ……あの数分、いや数十秒の間に九条さんのみならず母さんにまでメールしたのか。


 俺は急いで携帯を確認したが、送信履歴は綺麗に削除されている。

 その代わりに母さんから「あらあら」という意味深な返信だけが来ていた。


「ちなみなんて送ったんだ?」

「私の画像だよ? 自撮りして送っただけ」

「お、お前な……」

「ふふ、だって仲良しアピールしてないとお母さん心配するでしょ? 安心させてあげるのも親孝行だよ」


 至極まともでぐうの音も出ないような教科書に書いてあるほどにまっとうな意見を、一番まともじゃないやつに言われた……


 ああそうだ。

 一人暮らしをしているのだから親を安心させてあげるためになんでもないメールをしてあげるなんて、とても素晴らしいことだと俺も思う。


 しかしだ、この世界のどこに自分のストーカーの写真を嬉しそうに親に送りつける人間がいるんだ。

 もう俺は、こいつとの関係を否定する方が頭がイカれてると思われてしまうところまで誘導されているのかもしれない。


 それにゆきめは既に俺の彼女なんだと、本人も含めて誰も信じて疑っていない。

 だからきっと母さんは今日上機嫌でこっちに向かっていることだろう。


 ……なんかもう母さん達のためにこいつと付き合った方がいいとすら思ってしまう自分がどこかにいる。


 しかし、俺はまだそこまで大人にはなれない。

 もっと自分を大切にしたい……。


「さ、帰ろっか。着替えないといけないし」

「そういえば場所はどこなんだ? 寿司としか聞いてないけど」

「駅前にあるお寿司屋さんわかる? あそこがいいって」

「ええと、どんなところだっけ?……ん?」


 携帯で駅前にある寿司屋を検索すると、そこは一人1万円くらいはするような高級店だった。


「い、いやこんなとこいくの? 母さんが言い出したの?」

「お父さんがね、ちゃんとした店にしなさいって言ってくれたんだって。今日は顔合わせの日だから」

「顔合わせ? いやお前母さんたちと仲良いんだろ?」

「でもうちのママとお母さんは初めて会うから」

「ああ、そりゃそう……今なんて言った?」

「だからー、うちのママとお母さんが」

「うちのママだと!? ゆ、ゆきめのお母さんもくるの!?」


 なんだそれ? なんだそれだよおい……

 聞いてない、聞いてないぞ。

 え、今日って母さんとミクが遊びに来るだけじゃなかったのか?


「ふふ、サプライズだよ。で、でも勘違いしないでよ別に結婚とかの挨拶じゃなくて、うちのママが高山君達に挨拶したいって言ってただけだからね!」


 いやおかしいだろそれ……

 誰になんの挨拶をするつもりだよ。


 うちの娘がいつもお世話になってます、とか?

 世話してねぇよ余計なお世話なんだよ。


 だからといってご迷惑をおかけしておりますなんて社交辞令を言われても、ああその通りですよとでも言えばいいのか?


 うわ……一気に憂鬱になってきたぞ……


 もうそこからは横でペラペラと楽しげに喋るゆきめの言葉なんて耳に入ってこなかった。

 虚ろになりながら歩いていると気がつけば部屋の前に立っていて、ゆきめに洗濯物を要求されたからすぐに服を脱いで彼女に渡したあと部屋で一人うなだれた。


 いやだ……ストーカーの親になんか会いたくない。

 頼むからさっきのは嘘でした、なんてサプライズをもう一度見せてくれ……


 しかし現実はそう甘くはない。

 しばらくして俺の部屋の玄関をノックする音で俺は外に連れ出された。


 部屋の前で待っていたゆきめはそりゃ綺麗だった。

 昨日買ったワンピースにトレードマークのポニーテールがよく似合う。


 そして駅に向かう途中でゆきめから手を繋ぐように急かされた。

 一回も二回も一緒だろと、俺も半ばやけくそで手を繋ぐとゆきめは「幸せ…」と艶やかな声で喜んでいた。


 そのまま待ち合わせの場所に到着すると、少し久しぶりな母さんの姿があった。


「あら蒼、それにゆきめちゃんお久しぶり! 今日はよろしくね」

「お母さんお久しぶりです! すみませんこんな高いお店に連れてきてもらって……なんか申し訳ないなぁ」

「いいのよ、毎日蒼のお世話してもらってるんだからこれでも足りないくらいだもの。せめていっぱい食べてね」


 俺の母さんはなんでもない普通の人だ。

 しかしそんなに社交的なタイプではなく、こんなに楽しそうに誰かと話しているところなんて初めて見た。


 その仲の良さそうな会話を聞くと、今までゆきめが話してくれた内容が本当に現実だったのだと改めて思い知らされる……


 心のどこかで、弁当の件も母や父や妹との仲もすべてこいつの妄想なんじゃないかと思いたい自分がいた。


 しかしそれは全て事実だったのだということを突きつけられて俺は言葉を失った。


「ゆきめちゃん、お母さんは?」

「母はもう少ししたら来ます、ミクちゃんは?」

「あの子は今駅の中でお土産見てるからすぐくるわ。ゆきめちゃんと会うの楽しみにしてたわよー」


 そんな会話をしていると、すぐにミクの姿が駅の方から見えた。

 そしてミクもまた、俺には見せたことのない笑顔でゆきめに近づいてくる。


「お姉ちゃん! 全然会えなくて寂しかったよー」

「ミクちゃんお久しぶり、元気そうだねー」


 一目散に、実の兄の俺になど目もくれずゆきめの胸にミクが飛び込んだ。

 その光景はまるで仲睦まじい本当の姉妹のようにも見えたが、実際はただの女子中学生とその兄のストーカーが抱き合っているだけなのである。


 この異常な状況にも関わらず、気まずそうにしているのは俺だけだ。

 それは男が俺一人だからということではない。

 様々な理由で取り残された俺は、まるで俺だけが赤の他人かのようによそよそしく突っ立っていた。


 すると、こっちに向かってくる女性にゆきめが手を振っているのが目に入った。


「ママ、こっちこっち!」


 彼女に呼ばれてこっちに向かってくる女性は、どうやらゆきめの母親のようだ。

 ゆきめによく似ている、そしてまだ30代だろうか? 母親と言ってもとても若く綺麗だ。


 その人は、まず俺と母のところに目をやり頭を下げてきた。


「はじめまして、ゆきめの母です。いつも娘がご迷惑をおかけしています」


 なんとも物腰柔らかな品のある対応で俺達にそう言った。


 隣で母は「うちの息子こそほんといつもお世話になりっぱなしで」なんて会話を嬉しそうにしている。


 しかし俺は頭を下げはしたが、なんと言っていいかわからなかった。


 直接言われてみると、迷惑なんて言葉も生ぬるい。


 もう俺がかけられているのは被害だよ被害!

 四六時中監視されて干渉されて管理されているこの惨状を迷惑の一言で済まされてたまるものか……


「こら蒼、ちゃんと挨拶しなさい」

「え、ああすみません。こちらこそゆきめさんにはいつも……いつも、お、お世話になって、ます……」


 くそっ、これ以上の屈辱があるか……

 なんで俺はストーカーの母に感謝の意を述べなければならない。

 ここが裁判所なら俺は加害者側、あんたは被害者側だ。

 相容れるどころか裁判官から二度と近づくなと警告されるような関係だぞ?


 それなのに……


「じゃあ早速入りましょう。蒼、きちんとしなさいよあなたも」

「……」


 嬉しそうに店の中に入る女四人はとても和気藹々としていた。

 その背中を見ながら俺は重い足を前に出してトボトボとついていく。


 その時、ゆきめがチラッとこっちを見て笑った、気がした。

 してやったり、と言ったところか……


 しかし、俺もこのまま引き下がるわけにはいかない。

 状況をひっくり返すまではいかなくとも、何か爪痕の一つくらい残してやる。


 俺は一人険しい顔をして店の中に向かった。

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