第10話 寝たら負け

 夜になった。

 俺は復帰初日から全力疾走をしてしまって疲れた体を早く癒したくて風呂に入りたかった。


 しかしだ、なぜか暗くなってからもゆきめが部屋に居座っている。


「なぁ、いつまでいるつもりだ? そろそろお風呂入りたいんだけど」

「え、入ってきていいよ? 私は後でいいし」

「いやなんでお前までここで入るつもりなんだよ? それに他人を部屋に残して風呂なんて俺は嫌だよ」

「ふーん、恥ずかしがり屋さんなのね高山君って。で、でも私は別にあなたの裸とか期待してないから、変に意識しないでよね。こっちが変態みたいに言わないで」


 変態も変態だろお前は。

 人の汗のにおいをスーハー嗅いでうっとりしていたくせに。


 しかしゆきめは梃子でも動きそうにない。

 仕方なく諦めて俺はゆきめを部屋に残して風呂に入ることにした。


 湯舟に浸かると今日一日の疲れがドッと抜けていく。

 おっさんくさい言い方だが、この時の為に一日頑張っていると言っても過言ではないほどに風呂は気持ちがいい。


 まぁゆきめも金を盗ったりするような奴ではないだろう。

 しかし代わりに他のいたずらをされている可能性は大いにあるが、それはあいつが帰ってからじっくり調べるとして、今はこのひと時を満喫しようではないか。


 ゆきめは静かだったのでじっくり体を温めた後、髪を洗っていると脱衣所の方から声がした。


「高山君、もう体洗った?」

「え、いや今からだけど」

「じゃあお背中流してあげるね」

「!?」


 俺の返事も待たず、ゆきめは扉を開けて中に入ってきた。


「な、何してるんだよ!?」

「大丈夫、タオル巻いてるから。さ、背中向けて」

「い、いやさすがにそれは」

「変なこと期待したでしょ? 私 はただ今日一日ご苦労様って気持ちで労ってあげようと思っただけだからね?」


 じゃあもっと別の形で労ってくれ。

ていうか女子と風呂場で裸で二人きりなんて、いくらこいつがストーカーだとしても俺の理性が……


 熱くなる体を必死で抑えながら俺は下を向いて黙った。

 やがて泡立てた布で俺の背中を優しくゆきめが洗い始めた。

 やばい、ぞわぞわする。

 でもダメだ、決して振り向くなよ俺……。


「ふふ、緊張してるんだ。可愛い♪」

「あ、当たり前だ……お、お前は緊張しないのか?」

「うーん、だってこの場で押し倒されたらむしろラッキーだし。あ、だから好きにしてもいいんだよ?」

「だ、誰がするか……」


 そう、決して振り向いてはいけない。

 振り向いたら最後、こんな変態と既成事実を作ってしまい俺の人生は終わる。

 しかし時々鏡に映るゆきめの体、なんて色っぽいんだ……


「な、なんで急にこんなことするんだよ」

「だって、高山君っていつも背中洗う時に肩の方が届いてないから洗えてないもんね。しっかり洗ってあげないとダメかなって思ったのよ」

「ああ、よく知って……いやなんで知ってるんだ?」

「なんで? だってそうなんだもん。でしょ?」

「でしょって……」


 ほら、やっぱりというかしっかりやばい奴なんだよこいつは。

 いくら可愛くても献身的でも健気でも女子力高くてもダメなもんはダメだ。


 こいつはあまりにサイコ過ぎる……。

 あとでなにをされるかわかったもんじゃない。


「も、もういいよ。ありがとう」

「じゃあ前も洗って」

「それはダメ! 絶対ダメダメ! ほんとそれは勘弁してくれ!」


 俺は下を向いたまま大声で懇願した。

 前だと? そんなところ触られたらもう理性もくそもない。


「えー、残念だなぁ。じゃあちゃんと洗ってね。私出ておくから」

「あ、ああ……一応礼は言っておくよ、ありがとな」

「ふふ、いいよいいよ。これから毎日こうしてあげるんだし」

「そっか……毎日!?」


 俺は思わずゆきめの方を見てしまった。

しかし彼女はタオルを巻いたままでいてくれたのでラッキースケベからの破滅といった即死案件にはならずに済んだ。


「あは、やっとこっちみてくれた。だって毎日練習するんだから毎日洗ってあげないとでしょ?」

「い、いやそれはさすがに」

「じゃあタオルとって襲っちゃうけどいい?」

「そ、それは勘弁してくれ!」

「なーんかその言い方傷つくなぁ。でも、それはってことは、背中を流すのはいいってことだよね?」

「……」


 見事に交換条件を駆使されてゆきめの要望を通す結果となってしまった。

 俺の毎日の楽しみであったはずの風呂はこの瞬間から、自身の健やかな未来のために己の理性と闘う苦悩の場と化した。


 ゆきめが風呂から出て行ったあと、もう一度風呂に入った時ゆきめのタオル一枚の姿を思い出してしまった。


 なんであんなストーカー女の体で興奮しなければならないんだと何度も邪念を洗い流すように顔を洗ってから風呂を出ると、ゆきめは部屋着に着替えていた。


「おい、なんでくつろいでるんだよ」

「今日は色々あったから一人はやだなーって思うから泊まろうかなって」

「な、なんでお前が勝手に決めるんだ? ダメに決まってるだろ!」

「襲っちゃいそうだから?」

「……違う。落ち着かないだけだ」


 ゆきめの恰好はふわふわした上着とショートパンツだ。

 まるで作り物みたいに綺麗な足だ。それに柔らかそうだ……


 い、いかんこいつをやらしい目で見ることは決してあってはならない。

 俺はこんな奇人に屈するわけには……


「ねぇ、これ見て?」


 ゆきめはそう言ってテレビを指さした。

 するとニュースが流れていて、近所で空き巣が出たという報道がされていた。


「怖いよね、勝手に人の部屋に入るなんて。私、一人だとちょっと不安だな」


 そこにいたのは純粋に事件の報道に怯えるだけの健気な女子だった。

 しかし俺は騙されない。こいつだって人の家に勝手に侵入して、好き勝手やっているではないか。


 俺がどんな気持ちで今過ごしているかお前は考えたことがあるのか?


「ねぇ、だから泊まっていっていい? ま、はもちろん空き巣が近くに潜んでるかもしれないから自分の身を案じてのことよ、それはわかっててね」


 言葉だけはツンツンしながらも、実際の彼女は上目遣いで甘えるように俺を見てくる。

 この目を見たらダメだ、可愛い女子の潤んだ目はそれだけで男の判断力を鈍らせる。


「だ、ダメだ……」

「じゃあお母さんに相談する。だったらいい?」

「か、母さんは関係ないだろ?」

「あるもん、私に何かあったらお母さん悲しむもん。」

「そんなまさか」

「じゃあ高山君から聞いて。それで決めて」


 もう既に母さんに電話がかかった状態でゆきめの携帯を渡された。

 そしてすぐに電話がつながった。


「もしもしゆきめちゃん?」

「あ、母さん俺だけど」

「蒼? なんだ一緒だったの。どうしたの、携帯壊れたの?」

「い、いや……」


 俺はチラッとゆきめを見た。

 しかし彼女は素知らぬ顔でテレビを見ている。

 とは言っても多分俺が母さんにちゃんと聞くまで終わらせてくれることはない、のだろうな。


「母さん、近くで空き巣が出たらしくてゆきめが泊まりたいって……さすがに高校生同士だしダメだろ?」

「何言ってるの? もしゆきめちゃんに何かあったらどうするのよ! 今日は泊めてあげなさい、予備のお布団あったでしょ? それにゆきめちゃんにベッド使わせてあげるのよ」


 母さんの答えは予想できていた。

しかし予想以上に母さんが、ゆきめを泊めろとうるさかったので思わず電話を切ってしまった。


「お母さん、いいって言ってたでしょ?」

「ま、まぁそうだけど」

「ふふ、色々と作戦通りね」


 ゆきめは上機嫌な様子で勝手に押し入れから布団を出して敷きだした。


 しかしまた気になることを言ってたな。


 色々とはなんだ?

 俺の部屋に泊まれるように仕向けたのはわかったとして。

 しかしそれ以外はなんだ?


 気になりながらゆきめを見ていると俺のポケットの携帯が震えた。


母さんからメール?


『ゆきめちゃんの携帯から電話するなんて仲いいのね。安心しました。』


 あ……。


 当たり前のようにゆきめの電話を使ってしまったが、それはつまりそういうことだと思われても仕方ないのだ。


 嵌められた。

 俺は完全に嵌められてしまった。


 こいつ、どこまでが計算なんだ?

 やっぱりこいつ怖すぎる……


「じゃあお泊まりも決まったし、寝る前にこれ見よ?」


 ゆきめはポケットからUSBを出してきた。


「これは?」

「高山君の全国大会の時の動画だよ。ちなみに今日のも撮ってあるから比較してみよ」


 そう言うとゆきめは勝手に俺のパソコンを開いてUSBに入った動画を再生しだした。


「見て、去年の高山君だよ。素敵……って言ってももちろん走り方の話だけどね」

「……わかったって。でもこれ、よく撮れてるな」

「だって走る高山君を撮る為に専用のカメラ買ったんだもの。普段用とは別に」


 サラッと今とんでもないこと言ったぞこいつ?

 普段用ってなんだ普段用って……

 試合以外の時の盗撮動画は一体どこまで撮られているのだろうか。


「ほら見て、今日の走りと比較したらストライドが全然違うでしょ? それに70メートルのところで足が流れてないし。今日はその辺で力んで……」


 しかしこいつの分析力にだけは頭が下がる。

 本当に俺が好きな一心でここまで知識を身につけたというのならそれはそれですごいと言うか、いやいややっぱり怖いよ……。それに重い。


「そういえば今日、珍しく力んでたよね?」

「ん、まぁ負けたらヤバいって思ってたし久々だったしで……それがどうした?」

「誰にいいところ見せようとして力んだの?」


 振り返るゆきめの目は完全に澱んでいた。

 しかしどこか達観した様子で少し口角が上がっている。


「どうせ九条さんでしょ? 知ってるんだ私、実は彼女と高山君が話したことあるの」

「え、いや本当に挨拶しかしたことないって……」

「嘘。中学の全国大会のアップの時練習場のスタブロ(スターティングブロックの略)を貸して欲しいって声かけられてたよね?」

「え、そうだっけ……いやそんなことまでは覚えてないけど」

「私覚えてるもん、見てたもん、知ってるもん。だから謝って」


 段々とゆきめの頬は膨れ目に涙を浮かべていた。


「あ、謝るって何をだよ……」

「嘘ついたこと、謝って。そしたら今回は許してあげる」


 まるで俺が浮気でもして彼女に問い詰められているかのようだ。

 しかし実際は大違い、ただストーカー女が一方的に被害妄想を膨らませているだけだ。


「い、いやでもだな」

「謝らないなら今日一緒に寝て」

「ごめんなさいすみませんでした俺が悪かったですどうか許してください」

「なんか傷つくなあ」


 俺は平謝りで謝り尽くした。

 そりゃそうだ、一緒に寝るなんて言われたらこんな安い頭いくらでも下げてやる。


「と、とにかく俺が悪かったからもういいだろ」

「ま、仕方ないから許してあげるわよ。それより明日からは本格的に練習だからしっかり動画見ておかないと」


 ゆきめはまたパソコンに視線を戻した。

 俺も彼女に言われるままに自分の走りを眺めていた。


 ちなみにゆきめは走る俺の動画を見ながらヨダレを垂らしていた。


 しばらく動画を見ていると、彼女があくびをしたのをきっかけに俺も眠たくなってきた。


「なぁ、そろそろ寝ないか? 明日も早いんだし」

「そ、そうね。じゃあ寝よっか。」


 もう自然に俺の部屋で寝ようとするゆきめにはベッドを使わせることにした。


「いいの? 高山君の体の方が疲れてるのに」

「いいよ、俺だって女の子を床に寝かせるほど腐ってないよ」


 俺は床に敷かれた布団にくるまってベッドに背を向けた。


「おやすみ、早く寝ろよ」

「な、なによわかってるって。お、おやすみなさい」


 ゆきめに声をかけてから部屋を暗くした。


 そして俺は眠りに……つけない。

 つけるわけがない。


 消灯して布団に入って冷静になってようやくこの状況がどれだけ異常なのかを自覚した。


 ストーカーが俺のベッドで寝ているだと?

 こんなの寝首をかかれるどころの騒ぎじゃないだろ……


 しかし静かだ。

 本当に寝たのであればそれに越したことはないが、わざわざ確かめようとして起こしてもいけない。


 ダメだ、やっぱり寝れない。

 いや寝てはならない。

 俺が寝ている最中にゆきめが目を覚ましたら……


 俺は疲れで飛びそうな意識を必死に繋ぎ止めるべく携帯で動画を見ながら意識を保った。


 そして数時間が経過した。

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