第9話 スイッチオン
100メートルを走るのは実は随分久しぶりだ。
中三の時の最後の大会を終えた後、冬は練習ばかりでその後は推薦入試の準備や引っ越なんかに追われてバタバタしていた。
そして高校ではすぐに部活をやめた。
だから、いくら俺より格下の格下である山田であっても一年間みっちり練習をしてきているのだから気は抜けない。
さっきまではそんなことを言い訳に負けちゃえと気軽に思っていたのだが、俺はこの100メートルで負けたら死ぬのだと思うと全国大会の決勝の時以上に緊張してきた。
そりゃ命がけでなんて表現はあるけれども、実際に命がかかったレースなんて誰も経験したことがないだろう。
山田も、負けたら退部と言われたことで緊張しているのか隣に来ても話しかけてこない。
しかしお前は退部だ。俺はこの世から退場だぞ?
重みが違う。全く持って意味が違う。
だから何がなんでも勝たなければという思いでスタート位置に着いた。
そして小林先生がピストルを構えた。
「よーい」
バンっと鳴ったピストルの音で俺たちはスタートを切った。
最初に思ったことは一つ、体が軽い。
しばらく休んでいたおかげか溜まっていた疲労が抜けてスムーズに足が出る。
そしてなんとも結末はあっさりだった。
一度も山田の姿を見ることなく俺はゴールを駆け抜けた。
「はぁ、はぁ……」
勝った。
その瞬間俺は大げさではなく生きていることの喜びを実感した。
「やったね高山君!」
俺たちの走るコースを挟むように観戦していた集団の中からゆきめが飛び出してきた。
「あ、高山君汗かいてる。はい、タオル」
「ああ、ありがとう」
「でも余裕だったね。てか山田の走り方マジでキモい」
「うん、なんか体が軽かったよ。短く感じたし」
「ふふ、やっぱり高山君の走り方、素敵♪」
もう酔ったような目のゆきめが俺の汗を拭きながら饒舌に語りだす。
「でもでも、ベストの時より歩幅が2センチは狭かったしゴールまで48歩が理想だけど一歩多かったからまだまだ本調子じゃないね。それにスタートの時も体が起きるのが3歩早かったから直さないとね」
「よ、よく見てるなお前……」
「ふふ、だって毎日見てるもん、高山君の動画」
当たり前のようにゆきめはそう話してくる。
こいつ、只者ではないと思っていたが俺の予想のはるか上をいくストーカーのようだ。
俺の一挙手一投足を漏らすことなくチェックしている。
いやしかしだ……もしかして、マネージャーとしては一流なのか?
……いやいや、そんなのは後付けの後付け、ストーカーしてることの言い訳にもならない。
やはりただのストーカーだ。動画だってどうせ俺をこっそり盗撮したものだろうし、それを見ていることに感心するなんてどうかしてる。
しかし俺に散々喋った後、今度は山田の方へむかったゆきめは、今度はまるで腐った生ごみでも見るかのような目で見下していた。
「ねぇ先輩、さっきの約束覚えてます?」
「い、いやさっきのは冗談だって。俺も別に神坂さんをどうこうしようなんて気は」
「吐いた唾は飲ませませんから。明日きっちりさせるんで。じゃあそういうことで。高山君帰りましょ」
山田にそう伝えると、まだ勝負の余韻が残るグラウンドを横切るように俺の手を引いてゆきめはさっさと帰ろうとした。
「い、いや待てって」
「なに? 勝利の味を皆で分かち合いたい? あ、九条さんに褒められたいのね。でもそうはさせないわ。今日は私と家でお祝いするんだから」
俺が何を言ってもゆきめは聞いてくれなかった。
着替えることすらさせてくれず、俺は学校から引きずりだされる形で復帰初日を終えた。
ちなみにミナミ先輩や主将は俺に声をかけようとしてくれていた様子だったが、あまりに強引なゆきめの様子に気圧されてか、何か言いたそうにしたまま突っ立っていた。
明日きちんとお詫びしなければと思いながらも、ゆきめは足を止めることなく俺を学校の外に連れ出した。
「おい、着替えどうするんだよ?」
「明日回収したらいいじゃない。それよりタオル、返して」
「え、汗で濡れてるぞ? ちゃんと洗濯してから返すよ」
「そのままじゃないと意味ない……あ、あなたのパンツとかと一緒に洗濯されたら困るから言ってるの。はやく」
「あ、ああそれなら……」
「くんくん、はぁ……高山君の匂いがする」
俺の汗が付いたタオルを嬉しそうに嗅いでいるゆきめに俺はもうツッコまなかった。
そんなことくらいでは驚かない。
むしろその程度はこいつからすれば序の口なのだろう。
しかしせめてキャラくらいは統一してくれと言いたい。
ツンデレをするのは結構だ、もう慣れた。
しかしやるならちゃんとやれ……
もう俺はそんなことくらいしか考えることができなくなっていた。
「さ、今日はご馳走にしないとね。何食べたい?」
「なんでお前は俺と一緒に晩飯を食べる前提なんだ?」
「逆になんで高山君は私と食事を別にしたがるの? 誰か来るの?」
「こ、来ないけど。一人の時間も必要だって言ってるんだ」
「溜まってるの?」
「そ、そういう意味じゃないって!」
いやしかしこの数日こいつに監視されている気がして、そういうこともしてなかったから多少は溜まっている。
それにスポーツをした後は余計にそういう欲が湧いてくるというか……
なぜか少しムラムラしながらアパートに到着すると、部屋の前でゆきめが条件を出してきた。
「じゃあ晩御飯作って洗濯する間自由にしてていいよ。」
「あ、ああそれは助かる」
「その代わり洗濯物、ちょうだい」
「え? いやそれは」
「ちょうだい。じゃないとこのまま部屋に行くよ?」
「……着替えるから待っててくれ」
正直こいつに着替えを預けたくはない。
何に使われるかわかったものじゃないし、返ってこなくなる可能性もある。
しかし、束の間の自由を得るための代償として洗濯物を差し出すのは仕方ないことだった。
俺は急いで服を着替え、脱いだ服や靴下をかごに入れてゆきめに渡した。
「はい、変なことするなよ」
「し、しないわよ。私をなんだと思ってるの?」
何だと思ってるか、だと? 決まってる、ストーカーだお前は。
少しツンツンしながらもどこか嬉しそうな顔を隠しきれていないゆきめは「また後で」と言って自分の部屋に帰っていった。
♡
「えへへへ、高山君の着てた服ゲットしちゃったー♪ どうしよっかなぁ、このまま洗っちゃうの惜しいなぁ。スゥー、ハァー、うん高山君の匂いだ。ああ、高山君、今日の走りかっこよかったなぁ。もう幸せ、今日は焼肉にでもしちゃおうかな。ええと、確か高山君は塩コショウで食べるのが好きだったよね」
♤
俺はほんの少しの自由を堪能しようと、携帯でエッチな動画を検索していた。
しかしなぜかそんな気分にはならず、すぐにサイトを閉じてテレビをつけた。
なぜだろう、誰もいないはずなのに見られている気がする。
これはただの思い込み、なのかもしれないが警戒するに越したことはない。
その時俺は部屋に置いてある人形、メアリーと目が合った。
じっとこちらを見ている彼女の髪が、窓の隙間から入る風でなびいた。
まるで本物の髪の毛のようにサラサラとしているな。
……まさか本物じゃないよな?
俺はメアリーを手に取ろうとした。
その瞬間携帯が鳴った。
ゆきめからだ。
「高山君、ご飯できたから今から持っていくね」
「あ、ああ……わざわざどうも」
すぐに電話は切れた。
わざわざ電話で伝えてくるなんて、そういう常識行動はとれるのか?
その後すぐにゆきめは夕食を持ってやってきた。
今日は焼肉のようで、ちゃんと俺好みの塩コショウで味付けをしてくれていた。
「さ、いっぱい食べてね。ご飯もたくさん炊いたから」
「う、うんいただきます。……うまい」
悔しいがこいつの料理はうまい。
それに俺の好みを知り尽くしているから味付けにも文句のつけようがない。
もしかしたらこいつが彼女になれば俺は結構幸せなのでは?
……いやいや何を考えてるんだ俺は。
たまたまゆきめが美人だからそんな気の迷いが生じるだけだ。
こいつは異常だ、絶対に気を許すなんてあってはならない。
「ねぇ高山君、今日山田と走ってる時に九条さんも応援してたの知ってる?」
「え、九条さんが?い、いや気づかなかったよ」
「そっか、でも彼女って結構美人だよね」
「ま、まぁ中学の時から人気はあったみたいだから。でもそれが何か?」
「んーん、何でもない。でも九条さんも高山君狙いだったらやだなーって」
今のゆきめの顔は乙女の恥じらうような表情だった。
一応こいつにもいっぱしの恋心というものは存在しているのか?
ていうかそれならもっと普通に接しようと思わないのだろうか。
俺は結局ゆきめの作った飯で腹を膨らませてから、また彼女に洗い物までさせてしまった。
いつまでこんなことが続くのだろうか。
別に俺が頼んでやってもらっていることじゃないし、罪悪感なんてものはないがそれでもここまで尽くされると悪い気はしてくる。
かといってお礼するなんておかしな話だ。
やはり早くこの状況を解消してこいつと距離を置かないと……
「高山君、私高山君と離れる気、ないから」
突然台所で洗い物をしているゆきめがそう言った。
なぜこのタイミングでそんなことを?
もしかしてこいつ、心が読めるのか?
「い、いやあのだな」
「無理、絶対無理。何されてもいいから私」
こっちを見ることもなく、ただ洗い物を淡々とこなしながら、落ち着いた声でゆきめはそう話す。
しかし今反論したら、また包丁を握った彼女が迫ってくるかもしれない。
彼女が洗い物を終えた時、その時にきちんと話をしよう。
ゆきめはその後廊下の掃除までやってくれた。
そしてそろそろ洗濯物が終わる時間だということで一旦部屋に帰ると言ってきた。
多分だけど今がチャンスだ。
洗濯物なんてくれてやる、もうこれ以上俺に関わるなとはっきり言うんだ。
俺は玄関に向かう彼女を見送るふりをして、台所を背中にしながらゆきめに話しかけた。
「なぁゆきめ、もう俺のストーカーはやめろ。迷惑だ、勘弁してくれ」
声は震えていた。
しかし言ってやった……
どうだ、願わくばツンデレなところを出してきて「こっちから願い下げよ」くらい言ってくれたら理想だが……
「ふぅん、そっか。そんなこと思ってたんだ。」
ゆきめはぼんやりと俺を見ながらそう言った。
ヤバい、やっぱり何かスイッチが入った。
しかし包丁は握らせない……俺が背中越しに押さえている。
「ああ、だからもうこういうことはやめに」
「しないよ、絶対しない。私の努力が足りないからいけないだけなのよ。もっともっと尽くさないと高山君に認めてもらえないのね。わかった、今日は洗濯物終わったら耳掃除してあげるね。あと私、サプリメントも買ってきてるから持ってくるね。それに明日の朝食のメニューも買いに行かないとだからあとで一緒に行こうね」
「あ、あのさそういうことじゃなくて」
「誰? 誰の入れ知恵?」
「え?」
ゆきめは玄関先で履きかけた靴を脱いで俺の方に戻ってきた。
もう喋り方も歩き方も視線も全て虚ろだったが、その眼光は鋭く俺を捉えていた。
「山田が何か言ったの? それとも小林先生? あ、ミナミ先輩かな? みんなが私と高山君を引き離そうとしてそんなウソ吹き込んだんだ。ストーカー? ふふ、私はただの高山君の大ファンだよ? 別に写真撮ったり追っかけたり普通じゃん。それに私、お母さん公認の彼女だよ? 彼女なんだから彼氏についていってまずいことなんてあるのかな? かな? かなぁ!?」
だんだんと早口になり大声になるゆきめの鬼気迫る様子に俺はまたたじろいでしまった。
しかし包丁は何とか死守した。
急いで下の棚に隠してそこにもたれるようにして棚を塞いだ。
だがゆきめは目に留まったフライパンを手に取った。
「一回高山君の記憶を整理しないとだね。大丈夫、死なない程度にするから」
「ま、待てそれをどうする気だ……」
「大丈夫、ちょっと血はでるかもだけど。だからその手、どけて」
ゆきめがフライパンを振りかぶった。
ヤバい、殺される……
「わ、わかった俺が間違ってたから! だからやめてくれ!」
「……ほんと?私、ストーカーじゃないよね?」
「あ、ああ……悪かったよ。だからそれ、降ろしてくれ」
「ほんとにそう思ってる? フライパンが怖くてそう言ってるんじゃない?」
「……ほんとだって、俺を信じてくれ」
どう考えても暴力に屈しただけだろこんなの……
なのになぜそんな質問を平然とできるんだこいつは。
しかしみるみると血色がよくなり穏やかな表情に戻るゆきめは今度は泣き出してしまった。
「うう、私、もっと頑張るから……ちゃんと高山君に尽くすから、だから冷たいこと言わないで、言わないでよ!」
「わ、わかったわかった。だから泣くな……」
よく男女平等だとか色々言われるけどそんなのは嘘だ。
だって男が泣いても女々しいとしか思われないのに、女が泣くと男は途端に戦意を喪失させられる。
ていうかここで追い打ちをかけたらそれこそ俺が最低な男みたいじゃないか。
今日はもうこれ以上は望めない、というかこれからもゆきめを咎めることは無理なんじゃないかとすら思えてきた……
「高山君、私可愛くない?」
「い、いやとても美人だと思う……」
「じゃあ私の料理美味しくない?」
「そ、それもとてもうまいと思うよ」
「じゃあ私って魅力ない?」
「そ、そんなわけないじゃないか、ゆきめは魅力的、だよ」
何の質問だ、こんな時に。
そりゃあ可愛いのは本当だし料理はうまいし、一般的に魅力的だともいえるから嘘はついていない。
一通り褒めてやると、ゆきめは泣き止んで涙をぬぐいながら俺にツンデレしてきた。
「だ、大体なんで私があなたのストーカーなんかしないといけないのよ。思い上がりもいいとこね、ちょっと足が速くて顔がよくてなんか雰囲気かっこよくて優しいからって調子に乗らないでよね!」
う、うーん、すごく褒められたな今……
なんか最後は「すぐ戻ってくるけどそういう意味じゃないから!」と言ってゆきめは一度部屋に戻っていった。
そして玄関先に立ち尽くしたまま俺は悩んだ。
もうゆきめを拒絶するというのは無理そうだ。
だがあんな地雷と付き合うのはさすがにごめんだし、なんとかいい落としどころを探って適切な距離を保つしかない。
それが今日の俺が出した精一杯の結論だった。
♡
「全く失礼しちゃうわ高山君ったら。ストーカーなんてレディに対して失礼よね? ねー高山君♪」
私は壁に貼られた高山君の写真に嬉しそうに語りかける。
「でも、ちゃんとわかってくれたみたいだしよかった。雨降って地固まるってやつね。だけどもっとツンデレした方がお好みなのかな? どう思う、高山君?」
私は再び高山君の写真に問いかける。
「さてと、洗濯物持って行こ。あ、靴下……これはもらっててもいいかな? いいよね、彼女だもん♪」
そっと彼の靴下をポケットに入れ、私は洗濯籠を持って隣の部屋に移動した。
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