第8話 リスクとリターン

 陸上部の練習はパート別に別れて行う。


 短距離、中長距離もそうだし跳躍種目や投擲なんかもそれぞれの専門的な練習に従事する。


 ちなみに俺の属する短距離は男女合わせて10人。

 その中でも一年生は俺ともう一人いて、そのもう一人が女子のすごい選手なのだ。


 その子の名前は九条真理くじょうまり、彼女は中学の時200メートルで全国で2位になった超逸材だ。


 長い髪を靡かせる、少しきつめだがミナミ先輩たちにも引けを取らない美人で彼女にもよく陸上雑誌の取材なんかが来ている。


 俺は入部してすぐの時、同じ一年生として自己紹介だけしたことがあるがすごい顔で睨まれたのを覚えている。

 とても怖そうな女、それが彼女に持っている唯一の印象だ。


「高山君、あの子すごく綺麗なフォームだね。」


 俺のストレッチを手伝うゆきめがその九条さんに目をつけた。

 どうやらこいつは陸上は素人だが、目は肥えているようだ。

 彼女の走りを見てフォーム云々がわかるのもそうだし、さっき山田に吐き捨てた暴言だって的を得ていた。


「わかるのか? あれは九条さんって言って同じ一年生だ。それに彼女はめちゃくちゃすごい選手なんだ」

「ふーん、でも短距離の一年生って高山君と彼女しかいないんだよね?」

「そ、そうだけど」

「じゃあ彼女、絶対高山君のこと狙ってるよね」

「……はい?」


 なぜか急に俺の体を押す力が強くなった。


「い、痛い痛い……なんだよ急に」

「九条さんね、覚えたわ。今度高山君について色々話してみないといけないね」

「い、いや彼女とはほとんど話したことないから、向こうも俺のことなんて」

「随分庇うんだね。私が近づいたら何かまずいことでもあるの?」

「痛い痛い!」


 もう俺の体を折りに来ているかのようにゆきめが思い切り力を込めてきた。


「ねぇ、彼女と何かあるの? あるんだ? あるから焦ってるのね? そうなのね?」

「な、ないないない! 大体連絡先すら知らない女と何かあるわけないだろ」

「なーんだ、じゃあいいや。それより、次はジョギングだね。私も一緒に走ろっかな」


 俺を押す力を緩めたゆきめは、遠い目をしながらケロッとしていた。


 そして俺はゆきめと二人でゆっくりジョギングに移った。


 その時だった。

 山田の子分たちから冷やかしの罵声が飛んだ。


「おいおいデートなら他所でやれ」

「イチャイチャするなら帰れよ」


 俺が最初に休部した時もこんな感じだった。

 俺は癖っ毛なのだが、それをからかわれたりしながら毎日練習を妨害された。


 やっぱり変わらないなと思いながら、このどうしようもない現状にうんざりしているとゆきめがコースを外れて罵声のする方へ走っていった。


「ねぇ、イチャイチャするなって言ったの誰?」


 ゆきめが向かった先には2年の田中、遠藤、安井という山田の家来三人衆がいた。


 そしてそいつらを睨みつけながら質問をするゆきめに、少したじろぐように遠藤が口を開いた。


「い、いや神坂さんのことを言ったわけじゃないんだ。ただ高山がチンタラ走ってるように見えたから」

「そうじゃなくて、イチャイチャしてたように見えたの? 私たちが」

「え、いやまぁ仲良くしてるようには……」

「そう、わかった」


 ゆきめは何かに納得して再び俺の方へ戻ってきた。


「ど、どうしたんだ一体?」

「ふふ、私たちイチャイチャしてるように見えたんだって。えへへ、やっぱりそう見えるんだ。あは、なんか足が軽くなってきた」


 どうやら俺と仲睦まじくしているように思われたのが嬉しかったらしい。

 こいつ、あれが皮肉だということに気づいていないのか?


「い、いやあいつらが言いたいのはな……」

「わかってるよ、高山君が羨ましくて妬んでるんでしょ? だったらもっと見せつけてやらないと」

「お、おい離れろって」


 ゆきめはジョギングしながら猫のように俺に擦り寄ってくる。

 足が絡まってこけそうになりながらゆきめを引き離そうとするのだが、こいつヘビのように絡まってくる……


「や、やめろ危ないから」

「襲っちゃいそうってこと? ならいいよ私」

「そういう危ないじゃないって……もういいジョギングは終わりだ、次のメニューに移るぞ」

「な、なによ偉そうに! 陸上のことになったら急に強気になっちゃって。ほんとそういうところが……そういうところも素敵……」


 ……その情緒をなんとか安定させてくれ、じゃないと何からツッコんだらいいかわからん。

 もうツンなのかデレなのかなんなのかさっぱりな彼女だが、一番謎なのはなぜ俺は今こいつと一緒に走っているのか、だった。


 よく考えたら、というかよく考えなくてもこの現状はストーカーがただ部活にまで乗り込んできたというだけのことだ。

 それに一回はスルーしかけたが、俺が今着ている練習着だってゆきめが当たり前のように持ち去っていたものだ。

 誰か一人でもいい、俺が異常者に付け回されているのだということに気づいてくれ……


「次は腹筋だって。足抑えててあげるからさっさとやりましょう。マットは用意したよ。」


 ゆきめは早速俺が腹筋運動をするための準備を整える。


 しかしこいつとこうして練習をしていて気付いたことがある。

こいつ、異常に手際がいい。


本当に陸上部に所属していたことなんてなかったのかと言いたくなるくらいに段取りも練習の運びもよくわかっている。


「なぁ、なんでお前はそんなに陸上のこと詳しいんだ? 本当に好きなんだとしたら熱心だな」

「ふふ、だって私毎日ずーっと高山君の練習見てたんだもん。詳しくなって当然だよ」

「そ、そりゃ詳しくもなるな……って毎日? い、いやでもどこから見てたんだ?」

「ふふ、秘密♪」


 ゆきめの曇り一つない笑顔がそこにはあった。

 まるで恋人がいたずら心満載に思わせぶりなことを言ってくるかのようだったが、現実はただ変人が悪戯を働いた事実を一部隠蔽しているだけのことだった。


「いやしかしお前中学の時何してたんだよ? まさかずっと俺のこと追いかけてたわけじゃないだろ」

「んーん、そのまさかだよ。ずーっとずーっと高山君が日々努力してる姿を追ってたの」

「な、なんでそこまで……」

「ち、ちがうのよそれは陸上部のあなたの成長を記録することで短距離界の発展に繋がるかもって思ってやってるだけで、都合よくたまたま高山君が近くにいただけの話よ、それだけ!」


 言い訳が言い訳になっていないゆきめだったが、少し気になることを言っていた気がした。


 記録? 俺の何かをどこかに記録しているというのか?


「なぁ、お前まさか観察日記とかつけてないよな?」

「日記? うんそれはもちろん毎日。あと、映像も全部残ってるよ」

「映像? 試合の時の様子とかか?」

「んー、それはもちろんだけどあとは部屋で腹筋してる姿とかー、お風呂で肺活量を鍛えようとしてるとことかー」

「い、いやいやそれただの盗撮じゃないか!?」

「失礼ねー、ちゃんとお母さんにも見せてあげてるわよ」

「……」


 もう俺にプライベートなんてものはなかったのか。

 いや、そうなれば今俺が住んでいるアパートも危ないのでは?

 隣だし、盗聴盗撮なんて既に……


「お、お前さすがにそれはやりすぎじゃ……」

「なんで? 見られて困ることとかあるの?」

「い、いやそういう問題ではなくてだな」

「別に高山君が一人でエッチなことしてても私気にならないよ。男の子だもん。でもね、誰かとエッチなことしてたらちょっと考えるけど」

「か、考えるって、何を……」

「もちろん、その女もろとも殺すかどうか」

「こ、殺す……?」

「でも高山君はそんなことしないから安心ね♪さ、腹筋得意でしょ。いつもみたいにさっさと終わらせて」


 こいつが俺のを語ることにとてつもない違和感を覚えながらも俺はゆきめに足を抑えてもらって腹筋をした。

 そして続いて背筋をして、もう一度ジョギングをしてから俺は今日の練習を終えた。


「なんか物足りない気もするけど」

「最初はこんなものよ。それより先生に報告に行かないと」


 すっかりマネージャーになった様子のゆきめに言われるまま俺は先生に練習が終わったと報告に向かう。


 ゆきめと少し離れた隙に山田が今度は俺に絡んできた。


「おい、お前調子乗るなよ?」


 山田はどうあっても俺のことが嫌いなようだ。

 取り巻きの遠藤と田中もご丁寧に側に控えている。


 しかし俺は別に喧嘩をしたくて復帰したわけではない。

 一方的に絡んでこられたところで「すみません」くらいしか言葉が見当たらない。


「すみません」

「はぁ? ていうか一カ月も休んどいて彼女作ってから復帰とか随分なご身分だなお前。目障りだよ死ね」


 結局何も変わらない、ということか。

 ちなみにこの山田という先輩の親は、そこそこ金持ちでこの学校や部活にも寄付をしているそうだ。


 そんな理由もあって先生たちも直接的に注意ができない、という大人の事情は学生ながらに理解している。

 だから俺が身を引けばと思ったわけだが、何度もこんな気持ちになるくらいならやはり復帰などしなければよかった。


 やはり明日先生に相談して退部しよう。

 なんなら転校してもいい、親にも正直に相談すればわかってもらえるはずだ。


そう思った時、山田が俺に提案を持ち掛ける。


「そうだ、今から100m勝負しようぜ? 俺が勝ったらお前の可愛い彼女、俺に貸せよ」


 荒廃した世紀末世界の悪役のような顔で山田が笑っている。

 しかし俺は耳を疑った。


「俺が負けたらゆきめを渡せってこと、ですか?」

「そうだよ。なんだ、自信ないのか?」

「い、いえ……」


 これは……僥倖だ。

 山田がゆきめを引き取ってくれる? 願ったり叶ったりだ。

 いやもう勝負とかどうでもいいからどうぞ引き取ってくださいと言いたいところだが、それでは意味がわからないだろうから体裁として勝負は必要だ。


 しかも俺はブランクがある。

 いくら山田相手とはいえ、今なら負けても十分言い訳がたつ。


「おい、やるのかやらないのかどっちだよ」

「やります、是非やります!」

「お、おう……じゃあ早速準備しろ」


 山田は小林先生に話を通しにいったようだ。

 そして瞬く間に部員たちにもその話が広まって、ゆきめの耳にも入ったようだ。


 心配そうに俺のところにゆきめがやってくる。


「ねぇ無茶だよ、いきなり100m走るなんて怪我したらどうするの?」

「大丈夫だって。でも負けたら本当に山田先輩の言うことは聞かないといけなくなるなぁ」

「高山君なら心配ないよ。私、信じてるね」


 なんともまぁ信用されたもんだ。

 しかし純粋に俺を信じてくれているやつをあんな山田みたいなやつに差し出すのは少し心苦しいが、もうそれくらいしかゆきめを引き剥がす方法が思いつかない。

 俺は残念ながら負けるつもりだ。


 でもよくよく考えたら山田のことをあんなに嫌っているゆきめが大人しく従うのだろうか?


「なぁ、もし俺が負けたらどうするんだ?」

「え、そんな可能性ゼロだから考えないよ」

「い、いや万が一ということもあるだろ?」

「その時は山田はこの世にいないかもね。あ、例えじゃなくて真面目な話ね。」


 ゆきめは靴紐を結び直しながらぽそっと呟いた。


「い、いやさすがにそれは極端というか」

「それに高山君も殺すよ。あんなのに負ける高山君なんて見たくないから。でも安心して、山田は山か田んぼに埋めるけど、高山君は私のおうちに連れて帰るからね。だからずっと一緒にいられるから、それはそれでアリかもね」


 焦点の合わない目で自然にそう話すゆきめだが、彼女が冗談でそんなことを言っているのではないことくらいは伝わってきた。

 わざと負けたら万事解決、なんて安易に考えていたがそれどころか負けたら俺の人生が終わるだと?


……嫌だ、まだ死にたくはない。


 急に俺は焦った。

 変な汗が噴き出してきた。


 慌ててストレッチを始める俺だったが、そんな様子の俺を見てニッコリ笑ったゆきめは、そのあと山田の元へと歩いていった。


「お、神坂さん。もう覚悟決めた? 俺、先週ベスト出たばっかりだから正直高山なんかに負ける気がしないからな」

「ねぇ、山田先輩が負けた場合はどう責任取るんですか?」

「え?」

「そりゃそうでしょ? 高山君にリスク負わせて私を景品にした以上は、負けたら相応のことしてくれますよね? 退部? 退学? それとも人生辞める?」

「い、いや俺はだな……」


 ゆきめが山田に詰め寄っていた。

 そしてゆきめは戸惑う山田に有無を言わさず賭けの条件を勝手に決めた。


「そっちが勝手に決めたから、こちらも勝手に決めます。負けたら退部してください」

「な、なんで俺がそんなこと」

「あ、ちなみに先輩の親がしてる寄付、うちの親が代わりにやりますからご心配なく。じゃあそれでいいですね。あ、もしかして自信ないですか?遅いですもんね、足」

「や、やってやるよ! 調子乗るなよお前!」


 山田はゆきめの挑発に見事にのせられていた。

 その時のゆきめはなんともまぁ悪そうな顔をしていた。


 そしてグラウンドを斜めに横切る形で100メートルの距離をとり、俺と山田の勝負が始まった。





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