第3話 名前で呼んだらいいじゃない
夜中。
メールの音で俺は目を覚ました。
目をこすりながら携帯を開くとなぜか神坂さんからメールが来ていた。
『仕方ないので明日の朝ご飯は部屋に持っていくね』
そう書かれていたメールを見て、俺は急に眠れなくなった。
一体彼女は俺に何をしたいのだろうか。
一体何が仕方ないのだろうか。
それに今彼女は隣の部屋で起きているのだと思うと、余計に怖くなった。
まずベランダを見たがもちろん誰もいない。
続いて玄関のカギを確認しに行ったがちゃんとしまっている。
それでも部屋が隣というだけで逃れられない恐怖と圧迫感が俺を襲う。
何か悪いことでもしたっけと自分の行いを振り返りながら、しばらく天井を見上げていると、やがて眠気が俺を悩みから解放してくれた。
◇
朝。
玄関のチャイムが鳴ったことで俺は再び目が覚めた。
起きた瞬間に誰が来たのかはわかった。
玄関に向かう足が重い。
でも何度もチャイムがしつこく鳴るので仕方なく玄関まで行き、のぞき穴から外を覗くと奴がいた……。
「神坂……」
引き返そうとするとまたチャイムが連呼する。
更にドアを何度も強く叩く音がする。
「ねぇいるの、いるんでしょ、いるよね、いるのになんで返事しないの、いるんだから開けてよー」
無視しようとしたが何度も何度も何度も強く叩く音にとうとう根負けした。
そして引き返して玄関を開けると、朝食を持った神坂さんが制服姿で立っていた。
「おはよう高山君」
「お、おはよう……」
「べ、別に勘違いしないでよね。たまたまパンを焼きすぎたからお裾分けに持ってきただけだもん」
「はぁ」
たまたまパンを焼きすぎてしまうシチュエーションってどんなんだ?
オーブンの中にパンを袋ごとひっくり返して放り込んだとでもいうのだろうか?
それに昨日、メールで予告してただろ。
忘れたのか?
意味のわからない言い訳に首を傾げていると、勝手に俺の部屋に神坂さんが上がり込んでくる。
「ちょ、勝手に入るなよ」
「いいじゃない、昨日私の部屋に入ったんだからこれでお相子よ」
「い、いやそれはお前が」
「なんで私はダメなの……メアリーちゃんは家に入れたくせに」
「メアリー? あ、ああ人形か。いやそれもだな」
「とにかく、失礼するわね。早く食べないと冷めちゃうし」
勝手に我が家のように部屋にあがりコタツ机に持ってきた朝食を並べるとまたキッチンの方へ戻ってきた。
「コーヒーとかないの?」
「コーヒーは飲まないから、代わりにココアなら」
「そんなのダメよ、糖分多いと太るわ。高山君の大事な足に贅肉が付いたら……お、お母さんが悲しむから心配してあげてるのよ」
朝から変なテンションの奴だ。
しかし今日改めて見ても彼女はクソ美人だ。
こんな子が隣の部屋で朝食を作ってくれてなんなら好意丸出しで迫ってくるなんて夢にしても出来すぎている。
なのにちっとも嬉しくないのはなぜか。
それは彼女が病的だからだ。
しかしストーカーにはその自覚がないなんてことも聞くし、下手に刺激をすると何されるかわからない。
部屋に入られてるわけだし、今は俺が不利だ。
適当にあしらってこの場を凌ぐしかない。
「さ、飲み物は私が準備するから召し上がって」
「い、いただきます」
なんてことはないただの食パンと目玉焼きだったが、男の一人暮らしとなれば朝食も食べないかコンビニのサンドイッチばかりだったので。
手作りのものはとてもうまく感じた。
ついつい箸が進んでしまっていると、神坂さんが少し嬉しそうに俺の顔を覗き込んでくる。
「ふふ、美味しいんだ」
「い、いいだろ別に。うまくないって言われた方が満足か?」
「そんなこと言われたら、この部屋で死んでやるから」
「こ、怖い冗談はよせよ……」
「それよりさ、陸上部、戻らないの?」
「へ?」
突然の質問に俺は虚を突かれて変な声が出た。
「何よその返事、別におかしなこと聞いてないでしょ」
「ああすまん、でも昨日も言ったけど俺はもう」
「それで本当にいいの?」
また神坂さんが俺を覗き込むように聞いてくる。
その完璧に整った顔が俺に迫ってくるので、不覚にも胸がどきどきしていた。
「い、いやそれに戻りたくてももう無理だよ。みんなに白い目で見られるのがオチだろうし」
「なんだ、そんなことなら問題ないって。私が何とかしてあげるわ」
「なんとかって……いや別にそこまでしてもらわなくても」
「私だけじゃなくて、高山君に期待してる人いっぱいいるんだよ? それこそご両親は? やめたって聞いたらきっと悲しむよ?」
こいつが俺の親の何を知っているんだと言いたい気持ちはあったが、実際その通りだから何も言えなかった。
特に母さんは俺が活躍するのをいつも楽しみにしていた。
父は厳しい人だが俺の陸上に対する部分だけは認めてくれていた。
そんな二人を喜ばせようと俺は陸上を頑張っていたんじゃないか?
いや、ストーカーの話に心を揺さぶられてどうする。
こいつはただのストーカーだ。
「今日一緒に先生のところに行こうよ」
「いや、それは」
「行って、はなしてみるだけでいいんだし。それで無理ならご両親にも説明つくでしょ?」
「でも」
「陸上部に彼女がいるのー?」
「ち、違うって……わかったよ。でも無理なら諦めるし変な期待はしないからな」
「よし、じゃあそれで行きましょ。ち、ちなみにだけど別に君のためとかじゃないから。将来の陸上界の発展を思うと優秀な人材がいなくなることに対する懸念があるだけよ、わかった?」
「はいはい」
お前は陸上界の誰だよ。
心の中でそうツッコみながら俺は残りの朝食を食べて学校へ向かう準備をすることにした。
「さ、早く着替えないと遅刻するわよ」
「わかってるよ。だからさ、早く部屋、出てってくんない?」
「え、なんで?」
「なんでって着替えるからに決まってるだろ」
「別に私はいいよ」
「俺がダメなんだよ!いいから出て行ってくれよ」
「婚約者なのに見られて困ることあるの?」
「誰だってはずかしいものは恥ずかしいの」
「ふーん。わかった」
しつこく居座ろうとする神坂さんを追い払うと、彼女はどうやら自分の部屋に戻っていったらしい。
やれやれと思いながらようやく着替えて学校の荷物を準備した。
♡
「もー、高山君の生着替え見たかったのに……。でもいいもんね、メアリーちゃんがいるからそんな様子も…あ、ちょうどズボン履いてる。きゃっ、すごい腹筋! ああ、高山君、高山君……いい身体。でもそろそろ行かないと逃げられちゃうし、先に下に降りとこうかな」
♤
てっきり玄関前に神坂さんが立っていると思ったが、そこに彼女の姿はなかった。
代わりに下に降りるとエレベーターの前に彼女は立っていた。
「あら、遅かったね。さ、行きましょ」
「行くって……一緒に行くの?」
「別に同じクラスなんだし良いじゃない」
「いやまぁそれはそうだけど」
結局こうなることは目に見えていた。
もちろん走って逃げたら逃げ切る自信はあったが、結局ゴールである学校の教室で捕まるのが確定している。
だから諦めて従うしかないのだ。
それほどまでに、同級生がストーカーであるというのはタチが悪い。
「見られてるな……」
もちろん、彼女と歩いていると登校中も注目を集める。
彼女の事はすでに全校のほとんどの男子が把握しているようだ。
一方でその隣にいる俺の事は、誰だあいつと言わんばかりの鋭い視線で攻撃してくる。
「ふふ、私たちのことみんなカップルだとか思ってるのかな?」
「知らん、そんなこと。そう思われたいのか?」
「そ、そんなことないもん。私こそあなたなんかが隣にいられると……変な気持ちになっちゃうよう、どうしよう」
「……」
その時々極端にデレるのをやめてくれ。
俺まで変な気になってしまう。
先に行こうとすると袖を掴むし、大人しく従うと「何よ?」とツンツンしてくるし、やっぱりこいつはただのツンデレなのか?
しかし時々俺が女子の方を見ていると、「あれ、誰?」と曇った眼で俺を覗いてくる。
朝から散々だ。こんなのを毎日やる余裕は俺にはないぞ……。
◇
色々ありながらも無事学校に到着できた。
そのまま教室に着くと真っ先に男子たちが神坂さんに群がる。
彼女は何度も言うが超絶美人なのだ。
スタイルだって完璧と言っていいほどにいい。
制服姿ですら犯罪級に似合っていて、クラスの男子はすっかり彼女の虜だ。
俺は彼女が男子に集られている間に生じる間隙を満喫した。
ほんの少しの間だったが落ち着いて本を読んでいると、すぐに彼女が席に戻ってきた。
すぐに身構えたが、彼女は反対隣の女子に声をかけられて、俺に絡んでくる余裕はなかったようで俺は安堵した。
学校ならこうやって人も多く、彼女もまた人気者のようなので俺に構う余裕が少ない。
こうなると学校というのは退屈な場所からむしろありがたい聖域に早変わりだ。
授業中もしばしの安息を堪能した。
そして昼休み。
俺はこっそりと抜け出して購買にパンを買いに向かう。
しかしその時俺の腕を誰かが掴んだ。
「ちょっとどこ行くのよ」
「あ、神坂さん……いやパンを買いに」
「その前に先生のところに行く約束、覚えてないの?」
「い、いや覚えてたけど放課後でもよくないか?」
「ダメよ、善は急げっていうから早く行きましょ」
「ちょ、ちょっとちょっと」
俺はグイグイと手を引っ張られて神坂さんに職員室に連れていかれた。
その光景を男子どもは羨ましそうに見ていた。
中には俺のことを仇のような目で睨んでくるやつもいたが、そんなことより。
陸上部に今更戻りたいなんて、そんな気まずい相談に行く方が嫌だ。
投げ出したのは俺だし、俺をいじめた連中もまだ部内に残っているというのに。
「顧問の先生は……いたいた。すみません、小林先生」
神坂さんが呼び止めたのは、陸上部顧問の小林。
28歳、イケメンで生徒からも人気がある。
彼もまた現役で陸上を続けており、アマチュアの大会に出場している。
「ああ、君は転校生の子だったね。それに、高山じゃないかどうした?」
俺は気まずかった。
この先生は実際良い人だし俺に良くしてくれていた。
しかしそんな先生の制止を振り切って今に至るのだから合わせる顔もない。
だがそんな俺のことなど気にするそぶりもなく神坂さんは小林に話をする。
「先生、高山君を陸上部に戻してあげてください」
「え、それは僕とすれば歓迎だけど。高山は戻る気になったのかい?」
当然俺に意見を求められる。
俺はなんと答えたらいいかわからない。
戻りたくないというわけでもないが、正直あの雰囲気の部活に溶け込める自信もないし、一度抜けた身としては気まずさしかない。
「先生、私がマネージャーをして彼をサポートしますから大丈夫です」
「え?」
急に彼女がまた突拍子もないことを言いだした。
マネージャー? なんのために? いや俺のためだろうけど。
「そ、それは助かるよ。今陸上部もマネージャーがいなくて困ってたし、男子たちは特に喜ぶんじゃないかな」
「はい、それじゃ早速明日から高山君が練習に入れるように手続きしておいてください。では」
言いたいことを言い終えるとすぐに俺の手を引いて神坂さんは職員室から俺を連れ出した。
「お、おいおい待てって」
「ね、これで問題ないでしょ」
「いや問題大ありだよ。それにお前がマネージャーって、どういうつもりだ?」
「だって、あの部活に高山君のことを惑わす虫がいたら困るでしょ? せっかく陸上に復帰するのにそんな女が集ってきたら迷惑じゃない」
「お前はどうなんだよ……」
「私はお母さんにお墨付きいただいてるから大丈夫なの。で、でも勘違いしないでよね、別にあなたのことが心配なんじゃなくてあなたの競技成績が心配なだけだから」
「……もういいよ」
なぜか強制的に部活に復帰させられることになった、ようだ。
それでも俺はまだ迷っている。
またすぐにやめることになるのではとも思うし、一カ月とはいえブランクもある。
はっきり言って彼女のやったことは余計なお世話だ。
「俺はどうなっても知らないからな」
「なんで、なんでそんなに冷たいの? 私の事、嫌い?」
「え、いや」
また急に神坂さんが泣きだしたので、今度は急いで人のいない踊り場まで連れて行った。
「はあ、はあ……おい、神坂」
「ぐすん、私、こんなに高山君の為に尽くそうとしてるのに、迷惑なのかな」
「い、いや迷惑というかさ」
「じゃあ迷惑じゃない?」
「い、いやそれはだな」
「やっぱり迷惑なんだ、私もう死ぬ。今日あなたの家の玄関で首吊る」
「それはやめてくれよ……。ええと、まぁ俺の為に色々してくれたことは感謝してるよ。でもあんまり一人で暴走するなよ」
「うん……って別にあなたの為、だけどそういう意味じゃないから。これも演技だもん。涙は女の武器なんだから」
「……」
めんどくさい。
それが今の彼女に抱いた正直な印象だ。
そんなこんなで神坂を慰めたあと、教室へもどっていると。
陸上部の部長が俺の姿を見ると駆け寄って話しかけてきた。
「高山君、部活戻ってくるんだって? よかったじゃん、待ってるよ!」
「あ、ミナミ先輩。い、いえまだはっきりとは。でもまぁ、その時はよろしくお願いします」
「うん、じゃね」
さっさと行ってしまった部長の名前は
身長は170センチを超え、跳躍選手らしい細身の体が特徴的だ。
彼女は陸上界でも期待の新人で、その愛らしい顔つきでニューヒロインとしてもてはやされている。
短く切った髪につけた星の髪飾りが目印で、彼女もまたこの学校ではアイドル的存在であり、友人も多い。
俺もこの学校で気を許した友人というのはいなかったが、休部する時に最後まで親身になってくれたのもこの人だけで、あれ以降絡みはなかったがとても良い人だというのはよく知っている。
「やれやれ、ミナミ先輩の耳に入ったんなら陸上部の連中も今日中にはみんな俺の復帰を知ることになるだろうな」
「ねぇ、あの人って彼女?」
「え、いや部長してる先輩だよ」
「ふぅん、でも高山君は少し気があるよね?」
隣にいた神坂さんは俺の袖を掴んだ手を震わせながら恐ろしい顔で俺を睨み上げてくる。
「い、いやそんなわけないだろ……」
「だって、ミナミだなんて下の名前で呼んでる」
「それはみんなそうやって呼んでるから」
「じゃあ私もゆきめでいいわよ」
「へ?」
また唐突に話題が変わったので変な声が出た。
「別にお前の名前は関係ないだろ」
「ダメ、ゆきめって呼んで。いえ、呼ばせてあげるから呼びなさい」
「そ、そんなの」
「なんであの人にはできて私にはできないの? やっぱりそうなんだ、へぇ。私ちょっと屋上行ってくる」
「わ、わかったよ……ええと、ゆきめ?」
「はわわ……コホン、もう一回呼びなさい、疑問形じゃなくてちゃんと」
「はぁ……ゆきめ」
「ひゃわわ……ん、んっ!と、とりあえずそうやって呼ぶのよ、わかった?」
「ま、まぁ頑張る」
「呼ばなかったらあなたを殺して私も死ぬから」
「意味がわからない……」
なぜか昼休み中彼女に振り回された。
そして思い出したようにお腹が鳴り、急いでパンを買いに行こうと思ったその時昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
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