第40話 視える男、保守に回る。
次の更新は水曜日の8時です。
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誤字脱字のチェックはそれなりに気を遣う。
機械に読み上げさせて発音がおかしな文章の箇所をチェックしたとしても、それは読み上げのほうの発音がおかしいだけのところもあるからだ。
そういう物を一つ一つ確認しては修正したり、そのままにしたり。
そんな手順を踏んでいてさえ誤字脱字は撲滅出来ない。この後校正の段階でまた誤字が見つかることもあれば、製本されて読者さんの手に届いて初めて発見されることさえある。
誤字脱字っていうのは、もしかしたら怪異の類だったりするのかもしれない。
花野先生と目を皿のようにしてチェックもし、文章の気に入らにところも修正したり、丸まま削除したり。終わったころには二人してぐったりだ。
それが丁度、思慧の店の昼休みと同じころで。
「まいど!」
カフェのドアが開いて、勢いよくウエルカムベルが鳴ったと同時に思慧の声が聞こえた。
動かしにくい首を巡らせれば、葛城や鬼一に挨拶している思慧が見える。
その明るい気配に、花野先生が『お疲れ様です~』と告げて、ふよふよと二階の居住区に飛んで行った。
それに小さく目礼を返すと、思慧に手を振る。
パソコンを横に退けて、テーブルに行儀悪く突っ伏す僕を見つけた思慧は近付いて来て肩をすくめた。
「大丈夫か~?」
「朝より、まし……」
ましとは言っても、ソファーに座っているのがやっとだ。
もう全体的にだるくて辛い。
死んだ魚の目でそう言えば、思慧は肩をすくめた。
「もう今日は仕事諦めて安静にしとき」
「でも締め切り……!」
「一日くらい休んでも取り返せるやろ? お前そんなギリギリの提出せぇへんやん」
「そうだけど……」
上体を起こしてきちんと座り直せば、思慧が真正面のソファーに腰を下ろす。
締め切りを破るのが作家の常みたいな感覚が世間様にはあるようだけど、そんなことが許されるのはヒットメーカーとかドル箱作家くらいだ。僕みたいに拭けば飛ぶような小粒作家には、そんなことは許されない。
依頼されたものは期日より早く上げる。それだってセールスポイントの一つにはなるはずだ。そう思うからこそ、僕は出来るだけ早く締め切りを倒すことにしている。
締め切りを守る、ではなく、倒すっていうのがみそだな。
体のだるさに呻いていると、思慧がポリポリと頬を掻く。
「今日は買い物止めとこ。昼はここで食って、夜は俺が買い物してくわ。ちょっと遅なるけど、ええな?」
「それは全然構わないけど」
「ほな、そうしよか」
そういうと思慧はテーブルに立てかけてあったメニュー表を手に取る。ぱらっと捲ると忙しなく視線を動かして。
暫くしてからメニュー表から顔を上げると、ふむと顎に手をやった。
「メニュー、増えとるな」
「え? そうなのか?」
「おお、ほら」
思慧から渡されたメニューを手に取れば、たしかに増えている。
カレーはあの鶏もも一本まるまま使ったバターチキンカレーだけだったのが、スパイスカレーが追加になっていた。
他にもパスタや焼きそば、チャーハンや炊き込みご飯、ハンバーガーやホットドッグなんてものもメニューに載っている。
「ここ、カフェだろ? 焼きそば? チャーハン? 炊き込みご飯?」
「だって食べたいって人がいるんだから、仕方ないじゃない」
いつの間にか注文を取りに来た葛城が、ぷくっと膨れて応える。
美形は美形だけど、男が頬を膨らませるのを見たところで何の感慨も湧かない。それより彼のいう「食べたがる人」のほうが気になる。
ここに通うようになって暫く経つけど、客層は主婦や女性が多かった。彼女達がそういう物を好むのだろうか?
訊ねれば葛城は首を否定系に動かした。
「学校終りの学生さんよ。お小遣いで食べに来るから、値段もリーズナブルにしてるのよねぇ」
「学生がくるのか?」
「ええ、近所の高校の子たちが部活帰りに来るのよ。育ち盛りだから、夕飯までもたないらしいのよ」
「へぇ」
思慧と二人して頷く。
そういえば僕はそうでもないけど、思慧は結構食べる方だった。だから学校帰りにファストフード店に寄って、ボリュームのあるハンバーガーを二つほど食べていたっけ。
細身の身体の何処にそんなに入るのかって思うくらい食べた後、夕飯もぺろっと食べていたから僕の母は凄く喜んでいた。
僕の母は人にご飯を食べさせるのが好きな人で。
息子の僕があまりに食べないので、その辺の欲求を思慧に晴らしてもらっていた感じだ。
今でも思慧は実はよく食べる。
「しぃちゃん、僕、あんまり食べられそうにないから半分もらってくれる?」
「おお、ええで? でもそれやったら家で雑炊とかしたろか?」
「いや、この海鮮塩焼きそば食べたい。けど全部は今は無理なので!」
「あー……そうか。ほな、俺、この日替わり定食セットにするわ」
思慧が指差したメニュー表では、本日の日替わりセットのメインはチキン南蛮だそうな。一切れ欲しいと言えば、思慧は「ええで」とからりと笑う。
注文を葛城に伝えれば「はいはい」とメモに書きつけて、カウンターのほうに去っていく。
そこで一息つくと、思慧が「ほい」と、茶封筒を僕に差し出した。
「何、これ?」
「お師匠さんから。郵便で送る筈やったけど、家族さんがこっち来る用事があったらしくて、届けてくれはった。宛名が俺宛になってたから、中は見たで?」
「それは全然構わないけど」
受け取って中を確認すると、札が二枚ほど入っていた。それだけでなく、手紙も。
便箋を取り出して開けば、流麗な字で札の効果と使い方が認められているではないか。
「これは……」
「お前が頼んでた、素人でも扱える札やて。主にお前のクラゲの強化に使えるヤツらしいわ。使い方は手紙に書いてるから、よう読んでくれって」
「ああ、たしかに。ありがとう。助かる」
「俺は何もしてへん。礼は終わったらお師匠さんに直接言うたらええし」
「解った」
折角の品だ。
畳んだパソコンと一緒に鞄の中にしまってしまう。その過程で首を動かすと、ちょっと青褪めた鬼一が視界に入った。
安心院さんと彼らはライバルのようなものだ。その力を急に感じて驚いたのかも知れない。
でもここで声をかけるのもおかしい気がしていると、あちらがそっと目を逸らす。なので僕も何も見なかったことにして商売道具を速やかに片付けた。
そうして待つこと暫く。
僕の前にはホカホカの海鮮焼きそば、思慧の前にはチキン南蛮が主役の定食が運ばれてきた。
が。
「先生はタルタルとオーロラソースどっちにする?」
葛城がタルタルの入った小鉢とオーロラソースの入った小鉢を二つ持って、こてんと小首を傾げる。それにつられて思慧も同じく首を傾げた。
「チキン南蛮いうたらタルタルソースちゃうん?」
「それがさぁ、違うらしいのよ。お客さんにこの間教えてもらったんだけど、高知? あっちのほうじゃ、タルタルじゃなくってオーロラソースなんですって。『タルタルは違う!』って凄い剣幕だったんだから」
「はぁん? そうなん?」
思慧が怪訝そうに言う。
僕も知らなかった。
日本は世界的に見ても食に異常なまでのこだわりを持つ民族だ。このソース一つで戦争が起きそうなところが何とも日本的だと思う。
けど、チキン南蛮はタルタルが主流だ。
僕の記憶がたしかならチキン南蛮が広く知られるようになったのは、某ご当地紹介番組で取り上げられてから。
そのとき取り上げられたのはタルタルソースだったから、それが普通なんだと皆思っているだろう。
そうなると、思慧もスタンダードなタルタルを選ぶんじゃないかな?
そう思っていた僕だったが。
「えぇっと、じゃあ、両方かけてみる」
思慧が選んだのは欲張りセットだった。
葛城はといえば一瞬キョトンとした後、小鉢を二つとも思慧の前に置く。
「やっぱ、食べてみんことには選ばれへんやん?」
「そりゃそうよねぇ」
じゃ、ごゆっくり。
そう告げて葛城が去っていく。
「で、晴は?」
「え?」
「オーロラソースかタルタルか、両方?」
「あ、僕はタルタルで」
タルタルのチキン南蛮は何度も他の店で食べてるから、味の想像がつく。オーロラソースのほうはちょっと解らないから、今回はパスだ。
安パイを選んだ僕に、思慧がにやっとする。
「お前、こういうとこでは思いきり良くないよな?」
悔し紛れにケラケラと笑い出した思慧の皿のチキン南蛮を一切れ強奪すると、たっぷりとタルタルソースを奪い取ってやった。
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