第26話 視える男、接敵す。
毎日朝8時に1話更新します。
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あ、これはヤバいヤツだ。
見えているもの全ての時間がゆったりと流れる。
車に撥ねられた瞬間に、スローモーションでも見てるような錯覚に陥るって事が言われてるけれど、アレは視覚の時間的精度を上げてよく見えるように脳が処理している状態なのだとか。
その状態の時に、どうにか衝撃を和らげるように動けたり、そのまま事故るよりもマシな状態にもっていけたりできれば、危機を回避できるからってことだそうだ。
だけど生憎、僕にはそんな強靭な身体能力なんかない訳で。
精度が上がった視覚に映るものは、ぽっかり空いた黒い穴から覗く百足の頭部だ。
頭部の触角をしならせ、ぎちぎちと大顎を動かす。
あ、これは食われるな。
どこか冷静な思考がそんな答えを出していた。
が。
「晴っ!」
背後から明るい言葉が掛かったほんの一瞬、百足が動きを僅かに止めた。その一瞬の間に、僕の頭上から降りていた触腕が、べちんっと勢いよく百足の頭部を張り倒した。シェリーが危険を訴えるかのように、毒々しい蛍光ピンクの光を放つ。
逃げないと。
思うより早く、足が思慧に向かって走り出す。すると僕の表情から何か察したのか、近寄った僕の腕を掴んで、思慧はその背後に庇ってくれた。
「どないした!?」
「む、百足!」
それだけで伝わったのか、思慧の目が鋭く据わる。
思慧から立ち上った攻撃的な霊気が、彼の力を基にして作られたシェリーにも伝わるのか、蛍光ピンクだった身体が一気に深紅に染まった。
そして張り倒されて吹っ飛んだ百足に向かって、クリオネよろしく割れた頭部から現れた牙をガチガチと鳴らす。
「あー……モンスター大決戦……」
「何が見えてるや知らんけど、お前余裕やな?」
「いや、うん。しぃちゃんいるし、シェリー頑張ってくれてるし?」
「そーけ」
と、言いつつ思慧は振り返って僕の肩に触れた。
真正面から見た思慧の目には、笑えるほど引き攣った僕の顔が映っている。虚勢を張ってることが丸解かりの、その情けない表情に、けれど思慧は何も言わない。
「ケリ、つきそうか?」
「解らない。なんか睨み合ってるけど、シェリーの触腕で殴られてもあんまり弱ってる感じがしない」
「ノーダメージか。俺、店から塩持って来て撒こか?」
「あー……どうかな?」
それで効くなら、多分鬼一や葛城がそう助言してくれてるだろう。だけどそんな話は聞いてないから、やっぱり効果はないかも知れない。
もっともあいつ等だって万能じゃない訳だし、そういう事まで考えが及んでない可能性はあるけど。
じっとりと背中が汗ばむ。
永遠に睨み合いが続きそうな気さえしてきたころ、不意に周りが明るくなった。どうやら雲間に隠れていた太陽が顔を出したみたいで。
きらっと陽光をビルの窓が弾いて一瞬目を眇める。刹那ぎちっと大あごを鳴らして、大百足は穴の中に消えた。
はっと詰めていた息を吐く。
「……消えたんか?」
「うん」
緊張して固まっていた全身から、少しずつ力が抜ける。
ガクガクと笑い出した膝を叱咤しているのに、気持ちとは裏腹に足元の感覚が覚束ない。
思慧の指先が、僕の首に触れて脈を取る。
「……めっちゃ固まってる」
「マジで?」
「おう。帰ったらちょっと診たるわ」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして」
軽い返事に、早くなっていた鼓動が段々と通常の速度に戻っていく。
危機は脱した。
毒々しい赤から、シェリーの身体の色が元の透ける青に変わったから、そういう認識で大丈夫だろう。クリオネのように割れて見えた歯も、お利口さんにナイナイして、シェリーはふよふよと僕の頭上に戻って来た。
ほうっと息を吐くと、背後からバタバタと人が走って来る音が。
振りかえると血相を変えた葛城と鬼一が、こちらに走って来るのが見えた。
「ありゃ、鬼一さんと葛城さんやん」
「あー……」
なんて誤魔化そうかと考えていると、思慧が二人に声をかけた。
二人は二人で思慧と僕の様子に察するものがあったのか、誤魔化すように笑顔を浮かべる。
「よお、鍼のセンセ」
「こんにちは」
手を振って近付いて来る二人に、思慧は「どうしはったん?」と声をかけた。
にこっと笑った二人の目は「後で説明して」と訴えてくる。それに思慧に見えないように頷くと、葛城がおっとりと口を開いた。
「先生、うちの店に忘れ物してたわよォ?」
「見つけて慌てて追っかけて来たのサ」
「あ? え?」
そんなモノあったか?
一瞬驚いた物の、葛城がこちらに向かってパチパチと瞬きを繰り返すのを見て、ああと思う。
嘘、なのだろう。
ワザとらしくならないように「ありがとうございます」と手を差し出すと、鬼一がそこに二つ折りにしたメモのようなものを乗せた。
中を確認して、何か書いてあるように振舞ってそれをポケットにしまう。因みに白紙だ。
そうして鬼一や葛城は喫茶店に戻り、僕達は家路へ。
「なんやったん?」
「ああ、書いてる時に浮かんだネタのメモ書き」
「へぇ」
思慧はそれ以上追及してこなかった。
そうこうしていると、思慧が「あ」と小さく呟く。
視線の先にはスーパーがあった。
「もしかして、しぃちゃんの言ってたスーパーってここ?」
「せやで」
「いつのまにスーパーなんか出来たんだ。気付かなかった……」
「マジで、お前ちょっとは外出た方がええで?」
然もありなん。
だって何で気付かないんだってくらい、幟は沢山立ってるし、人は一杯だし、自転車の路駐で道幅は狭まってるし。おまけに店の中から特徴的なオリジナルだろうCMソングが聞こえて来た。
「……なんでこれで気が付かなかったんだろう?」
「要らんことするモン警戒してて、スーパーみたいな無害なモンは目に入らんかったんと違うか? 知らんけど」
「知らんのかい」
「知らんがな」
へらりと笑って思慧が肩をすくめる。思慧のこの何でもない態度が、僕には居心地がいい。茶かすような態度でも、そこにあるのは嘲りじゃなく過度な心配でもなく、自然体の労りだ。
通りかかったついでに買い物をしていこうという事に。
ついでに僕は明日からのスケジュール変更を思慧に伝えた。
「大丈夫なんか?」
「え?」
「百足。来たんやろ?」
「ああ……でもシェリーいるし」
「でもそのクラゲやと、勝たれんのやろ?」
「それは……」
口ごもる。
たしかにシェリーではダメージを与え切れなかったみたいだ。けれど睨み合っているうちに逃げれば大丈夫じゃないだろうか?
そう言えば思慧は腕を組んで空を仰ぐ。ややあって、彼は僕に視線を寄越すと、ふむと頷いた。
「ええわ。俺も喫茶店行く。んで、コーヒー飲んでから出勤するし」
「え?」
「んで、仕事終わったら迎えに行ったるわ」
「いや、そこまでしてもらわなくても」
「その方が俺も安心やし」
思慧自身の運動不足の解消も兼ねると付け加えられてしまえば、その言葉に頷くほか僕に選択肢はない。
小声で「ありがとう」と言えば、思慧からは「なんもしとらん」と素っ気なく帰って来る。
で、スーパーの中に入る訳だけど。
どこを見ても人が多い。特に「タイムセール」だの「特売品!」だのとポップが立っている所は満員電車並みに人が密集している。
驚いて固まっていると、思慧が恐ろしいことを口にした。
「今日は空いとるな」
「は?」
「え? なんやねんな?」
「いや、空いてるって!?」
僕の目には人で一杯にしか見えない。それなのに思慧には空いているように見えるらしい。
思慧が不思議そうに僕の背中を押して、ずんずんと店に入って行く。
そして特売品と書かれたポップのある方へと進んでいく。勿論そこも買い物客の、主におば様方で賑わっていた。
「いや、ちょっと!?」
「今日は豚の切り落としが安いねん。お前おるし、ようさんめに買っても持てるやろ」
「え!? や、ちょっと!? あのお姉さま方の群れに入るのか!?」
「せやで?」
何を解り切った事を。
思慧の目が本気でそう言っていて、僕は絶望を味わった。
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