第60話 入学、アイリス学園
時間が過ぎるのは本当に速いものだ。あの衝撃の入学試験から、あっという間に時が流れて春が訪れた。
春――
すなわち、アイリス学園への入学だ。
入学式の前日、俺とシリウスは学園のある王都に到着した。アイリス学園は全寮制であり、すべての学生が学内での生活を強制される。それは大貴族シリウスも例外ではない。
馬車から降りたシリウスに付き従い、寮を移動していく。
当然、すでに多くの学生たちが入寮していて――
悪名高きシリウスはその視線を一身に集める。1人でいる生徒は引き攣った表情のまま慌てて通路の隅に寄り、複数人でいる生徒は1%の好奇と99%の恐怖に満ちた表情で見送った後、学友たちと何かをコソコソと話し出す。
シリウスはそんな様子を歯牙にもかけない。
……いや、この男のことだ。むしろ、ただ歩くだけで周りが動揺する様子を楽しんでいるに違いない。
もともと『最悪なる人間』と悪評の高いシリウスだが、試験でゴーレムを破壊したり、人類の希望たる勇者リヒトをねじ伏せたりとやりたい放題に暴れまくった噂も広まっているだろう。
――うわああ……あいつやべえよ……。
学生たちのそんな心の声が聞こえてきそうだ。
割り当てられた寮部屋にたどり着く。
「……ふん、チンケな部屋だな!」
内装を見た瞬間、シリウスが減らず口を叩く。確かに、公爵家のシリウスの部屋からすれば実に微妙ではある。だが、アイリス学園の名誉のために補足すると、割り当てられた部屋は寮内でも最高グレードのものなのだが。
「お前の部屋はそこか?」
「はい。いつでもお呼びください」
シリウスのような大貴族のみ、従者を従えての入学が許可されている。つまり、俺のことだ。従者の部屋は同じ室内に用意されているらしい。
室内はすでに公爵家の使用人が作業を行い、不自由なく生活できるレベルで片付いている。あとは、
「――持ち込んだ貴重品を整理します。見苦しいので散策でもされてはどうですか?」
残った作業を終わらせるだけ。俺は持ってきた旅行カバンを開く。
「そうだな、悪くはない話だ。このシリウスの存在を、凡夫どもに知らしめてやらんとなあ……!」
そんなことを言いながら、シリウスがドアへと向かっていく。
「あとは任せた、執事オスカー」
「お任せください」
ドアが閉じた。
シリウスが言った通り、俺は『従僕』から『執事』に格上げされた。今まではディンバート公爵家の人間だったので、ただの付き人にしか過ぎなかったが、今はシリウス個人に対する所属となったので、『執事』となった。
よかったよかった。
この、俺の長大なモノローグにタイトルをつけるのなら『ラスボス悪役令息を裏で操る参謀は執事の俺』になるだろう。今まで従僕だったので微妙にズレていたが、これで問題はなくなった。
そんな、どうでもいい考えを端に追いやり、手を動かしながら俺は思考を巡らせる――
いよいよ、アイリス学園に入学してしまった。
ここからが本番なのだ。
なぜなら、ゲーム『アイリス学園クロニクル』の本編は入学の日、つまり、明日から始まるからだ。
ゲーム本編において、ここで悪役貴族シリウス・ディンバートはあらゆるパターンで死を遂げる、あるいは、ラスボスへと進化する。もちろん、ラスボス化しても倒されるのがゲームのラストなので、結局は死ぬ。
そして、執事であるオスカー、すなわち俺もまた、シリウスと運命を共にする。ようするに、シリウスが死ねば俺も死ぬのだ。転生してから今日まで、色々とシリウスを導いていたのも、結局はそれ――シリウスの破滅を防ぐための準備にしか過ぎない。
その成果が明日から試されるわけだ。
今のところ、結果には満足している。あれ? これってひょっとしていい感じに破滅ルートを回避できるんじゃないの? そんな期待が胸に膨らんでいる。
とはいえ、気を抜くのはまだ早い。
――リヒトとの戦いで、わけのわからん力みたいなのが俺の動きを邪魔した。あれはなんだ?
そんなことをシリウスが言ってきた。
おそらくは、ゲーム内のチュートリアルバトルで発生していた『シリウス弱体化』と同じものだろう。俺が危惧していた通り、同じ現象が実際のシリウスにも起こっている。
ゲームと同じく、システムによる介入だろう。
システムの介入――
気になるところは他にもある。例えば、リヒトのレベルだ。ゲームにおいて、入学時のリヒトはレベル1だ。そこから学園でレベルを積んで勇者として強くなっていく。
だが、実際のリヒトはどうだ?
明らかにレベルが1ではない。すでに難敵である吸血鬼ニコライアまで撃破し、あれだけ鍛え上げたシリウス相手に勇戦した。
明らかにレベル1の動きではない。
ひょっとして、シリウスを鍛えた分、リヒトもまた強化されている……?
誰がそんな判断を下し、誰がそんな強化を加えたのか?
それもまた、システムの介入であろう。
どうやら、何かしらの意思が『シリウスの破滅ルート回避』という俺の動きを牽制しているように思われる。
それが本当に、俺の想像通り『ゲームのシステム』であるとするのなら――
油断などとてもできない。
相手は、運命すらも容易く捻じ曲げる能力を持ったゲームマスターなのだから。油断をすれば、あっという間に『運命の補正』の前に屈することだろう。
俺の杞憂であればいいのだが……。
まあ、システムの介入が俺の妄想であろうがなかろうが、何もすることは変わらない。シリウスを裏から操り、この学園での危機を切り抜けるだけだ。
執事として、ベストを尽くすとしよう。
翌日――
朝の支度を終えた俺たちは入学式が行われる大講堂へと向かった。階段状になった床に座席がずらりと配置された大きな空間だ。前方には大きな舞台がある。
部屋は騒々しく、生徒たちの姿でごった返していた――
シリウス・ディンバートの周囲を除けば。
驚くほどに誰も近づいてこない。あるいは避けていく。君子危うきに近寄らず。さすがはアイリス学園に入るエリートたち。わかっているじゃないか。
だが、そんな中、シリウスに近づく変人の姿があった。
「やあ、シリウス。久しぶりだね」
そこには爽やかな表情を浮かべた男子生徒リヒトの姿があった。もちろん、その傍らには聖女セリーナの姿もある。苦虫を噛み潰したかのような表情だが。
「チッ、お前か。俺は負け犬に用なんぞないが――なんの用だ?」
シリウスが、セリーナの表情を肯定するかのような舌打ちからのコンボを炸裂させる。一撃で好感度をゼロどころかマイナスまで下げる言動を受けても、勇者リヒトに怯む様子はなかった。
「挨拶がしたかった。ダメかい?」
リヒトが差し出した手を、しかし、シリウスは一瞥するだけ。
「あん? お前なんぞと仲良くするつもりなんてないな。さっさと失せろ」
隣で聖女セリーナの青筋がビキビキと音を立てているが、リヒトは気にした様子もなく手を引っ込めた。
「だけどね、僕は君と仲良くしたいんだよ、シリウス」
「――は?」
シリウスが吐き捨てながら、変人を見るような目で睨め付ける。そして、それは勇者と悪役貴族の会合にそっと視線を送る生徒たちも同じだった。
――あの悪評高き、最悪を極めた下水を煮詰めたようなシリウス・ディンバートと仲良くなりたいだと?
そんな空気すらも読まず、リヒトは言葉を紡ぐ。
「君のような強者から学ぶべきことはたくさんある。僕はもっと強くなりたいんだ。人類の希望としてね。だから、君をもっと知りたいと思う。変かな?」
「……くだらん。失せろと言ったはずだが?」
「ふふふ、まあ、壇上では一緒だろうけどね」
そう言って、リヒトは舞台のほうへと足を向ける。リヒトの席はこちら側ではなく、舞台の上にある。勇者として、学生代表としてスピーチをするからだ。
そして、それは勇者リヒトを撃破した大貴族シリウス・ディンバートも同じ――
「チッ」
図星を突かれたシリウスもまた、舌打ちをしつつリヒトから数メートル後方を歩いていった。
……勇者リヒトが距離を詰めてきたか。
こんな展開はゲームにはなかったが、さて、どう転ぶのだろうか……?
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