第38話 雑魚が、逃げてるんじゃねえよ

 巨大な狼が眼前にいる。

 ……このサイズ感はエルダーウルフだな。ゲーム内でも、ヘルウルフが多く住んでいる森のボスキャラとして出現していた。こことは違う森だったので、あまり気にしていなかったが、そうか、同じ状況なのだから、こいつがいることは想定しているべきだったか。


 見積もりが甘かったか――

 だが、最悪の事態は想定していた。何かしらのイレギュラーは起こるのではないかと。


 その懸念は当たった。準備をしていたおかげで、ここに俺がいる。

 ……もちろん、当たってなど欲しくはなかったけど。


 そのために用意していたカードがオスカー――つまり、俺だ。シリウスからのプレッシャーを無視して本作戦の参加依頼を断ったのも、このため。

 シリウスはどんな苦境でも問題ないので、何かが起こるとすれば、ルシアかオリアナ側だと当たりをつけて、二人のエリアの中間地点に俺はそっと忍び込んでいた。


 それで、妙な――切迫感のある笛の音を聞いた。

 あまりにも不自然だ。


 リーダー笛を待つまでもないと判断して俺は移動を開始した。冒険者たちの悪ふざけで俺が無駄足に終わるだけなら、それはそれで問題ない。


 結果、その判断は報われた――

 かどうかはわからない。ルシアの生死が不明だからな……。


 ちらっと背後に視線を送る。

 樹木に背中を預けたままの姿勢で、ルシアが座り込んでいる。その全身は力を失って弛緩している。

 生きていてくれるのなら、報われたと断言できるのだけど。


「ルシア様、返事を」


 短く声を発してみるが、反応がない。


「それはそれは、残念ですね――」


 意識がないのは確かなようだ。

 俺は視線をエルダーウルフに向ける。


「あなたに勝ち目がなくなりました」


 ルシアが意識を失っている状況は、実力を隠したい俺にとって好都合だ。なぜなら、俺のフルパワーを発揮しても問題ないからだ。目覚めていると、最悪、ルシアを守りながら逃げるだけの展開も考えていたのだけど。


「グゴオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」


 おや、お怒りか?

 咆哮と同時に、エルダーウルフが距離を詰めてくる。頭を低く下げて――全体重をかけた突進! 原始的でシンプルだが、体格差があるのなら最も有効な攻撃だ。

 俺には相性が悪いのだけど。


「カウンター」


 夜鷹を一閃。

 打点を逸らされて、エルダーウルフの巨体が横に逸れる。さらに、スラッシュカウンターを発動、斬撃がエルダーウルフの右頬に刻み込まれた。

 単純な突進?

 ははは! カウンターのタイミングが取り放題だな!

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 エルダーウルフはこの森の王だった。

 ヘルウルフたちの畏敬はいつも彼を心地よいものにさせた。森の向こう側に住む人間どもも恐れをなして息を潜めている。圧倒的な強者として、誰に憚ることなく日々を過ごす。それ以上の快楽などあるのだろうか?


 そんな日々が永遠に続くかと思ったが――

 人間どもが愚かにも森への侵略を始めた。


 最初は3匹の同胞が殺された。エルダーウルフは怒りを覚えたが、不問にした。長い平穏を破棄し、戦争を始めるにはまだ不足と判断した。

 だが、すぐにそれを後悔した。

 調子に乗った人間どもは、大挙を成して森へと攻め入り、ヘルウルフたちを蹂躙し始めたのだ!


(許さぬ)


 王は出陣した。愚かなる人間どもに心底からの恐怖と罰を与えるために。

 初めて接敵した人間どもの狼狽ぶりは滑稽だった。


「なんだよ! このバカでかい狼は!?」


「聞いてねえぞ! か、勝てるのか!?」


「逃げろ! 逃げるんだよ!」


 そんなことを言いつつも、恐怖で足が動いていない。エルダーウルフは近づき、容赦のない攻撃を仕掛けた。3人の男たちはズタボロの肉塊に成り果てた。


(弱い、弱いな! 己の力量がわかっておらぬ!)


 エルダーウルフは人間たちを引き裂きながら森を進んでいく。

 最中に現れたのが、緑色の髪をした女剣士だ。

 なかなかの強者であった。他の連中とは明らかに動きのキレが違う。才能を持ち、それを鍛え抜いた人間の動き。だけど――


(ああ、楽しいなあ、面白いなあ)


 エルダーウルフに愉悦を与えるだけだった。まるで狩人がウサギを狩るようなもの。追い詰めて殺す喜びだけがある。

 結局、女剣士もあっさりと崩れ落ちた。


(この程度か)


 想像ほども楽しめず、がっかりした。しかし、若く美しい女の血と肉が味わえるのは悪くはない。鹿も豚も若い雌のほうが味わいがいいのだから。


 唾液を口内に広げながら、エルダーウルフは女の肉を引き裂こうとして――

 そこで邪魔が入った。


 黒髪の陰気な雰囲気の男だった。鎧の類は一切つけず、白と黒を基調にした服をまとっている。手には他の剣士たちとは違う、優美な形状をした刃を持つ変わった剣を持っている。


「ここからは私がお相手いたしましょう」


 この男に女への攻撃を払われたような。

 野性が警戒を発し、エルダーウルフは距離を取る。


(なんだこいつは?)


 しかし、エルダーウルフは深く考えなかった。急に割り込んできた角度が良かったのだ。適当に振り回した剣が運よく一撃を上手く弾いただけ。

 脆弱な人の肉体が、この私に抵抗などできるはずもない。


(叩き潰してやる!)


 エルダーウルフは全体重をかけて突進を仕掛ける。あの女と同じく、一撃で仕留める。幸運は二度とも続かない。吹き飛べ!


「カウンター」


 なんだか不気味な言葉が耳に届いた直後、突進の方角が横にズレる。


(な――!?)


 大きく横によろけながら停止、そして、己の頬に痛みを覚えた。血の匂い。触らずともわかる。男の刃がエルダーウルフの強靭な羽毛と肌を切り裂いたのだ。


(この男……強い!)


 エルダーウルフは己の過ちを認識した。決して幸運ではない、この男はエルダーウルフの巨体を相手にしても封殺する力を持っている!

 警戒するべき敵だと判断したエルダーウルフは慎重に攻撃を開始する。


(もう油断はない。お前は死ぬだけだ!)


 前足による引っ掻き、打撃、頭部による頭突き――

 次々とエルダーウルフは攻撃を繰り出す。どの一撃も当たれば致命傷、かするだけでも戦闘不能。これが強靭な生物種と脆弱な人間との差!

 しかし――


「カウンター、カウンター、カウンター、カウンター、カウンター、カウンター、カウンター、カウンター、カウンター、カウンター、カウンター、カウンター、カウンター、カウンター、カウンター」


 男は慌てふためくこともなく、黙々と剣を振り続ける。

 その全てがエルダーウルフの超重量の一撃をいとも容易く弾いていく。


(バカな!? バカな!?)


 信じられなかった。理解できなかった。矮小な人間ごときが、どうしてこうも攻撃を弾くことができる!? 

 おまけに、攻撃のたびに弾かれた場所に裂傷が生まれた。それは決して大きな傷ではないが――

 次々と、着実に、男はエルダーウルフを追い詰めている。

 それが、エルダーウルフに焦りを与える。


(人間が! お前たちに俺に勝てる道理などない!)


「グゴオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」


 怒りの咆哮とともに、エルダーウルフが噛みつきを仕掛けた。


(上下から襲いかかる牙ならば!)


 どうするか!?

 答えは簡単だ。


「カウンター」


 何度も聞かされた不愉快な言葉。強烈な衝撃が顎を下から上へと突き抜ける。あまりの衝撃に巨大な犬歯が一本へし折れて宙を飛んだ。


「ガ、ガアアアアアアア……」


 顎の骨が割れたのだろう、口から血が噴き出る。脳が揺れて、意識がぐらつく。


「今のは綺麗に入りましたね。クリティカルヒットというやつですか」


 男が訳のわからないことを言っている。


(な、なんだ、この男は……)


 エルダーウルフは恐怖を覚えた――否、認識した。とっくの昔に、心は恐怖に包まれていたのだ。

 得体が知れない。意味がわからない。どうして最強の我が手玉に取られる? 男は想定を超えていた。常識外。そんな存在など許されない。

 それはエルダーウルフの心に植え付けた。

 絶望を。


(勝てない……! 勝てない!)


 エルダーウルフは文字通り、尻尾を巻いて逃げ出した。この男に勝てるはずがない!  森など捨てろ! 命をつなげ! 生き延びることが最優先だ! 


「おや、逃げるのですか。あまりお勧めしませんね。なぜなら――」


 ふふ、と笑って男が続けた。


「そちらには、鬼がいますから」


 意味を理解するよりも早く、頭上から別の男の声が降り落ちてきた。


「雑魚が、逃げてるんじゃねえよ。興醒めだ」


 頭上を振り仰いだ瞬間、雷をまとわせた巨大な剣が落ちてきた。

 それが、エルダーウルフの見た最後の光景だった。


「オラアッ、死ね!」


 黄金に輝く刃がエルダーウルフの顔面を両断した。 


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