第37話 ルシアvsエルダーウルフ
それは、エルダーウルフと呼ばれるものだ。
魔獣ヘル・ウルフの強力な個体が年月を経て、何度も進化を重ねて誕生する。その力は進化前とは比較にならず、圧倒的に強くなっている。また知性にも深みがあり、人と同程度の思考を持つと見られている。
言うなれば、ヘル・ウルフたちの王である。
この森のヘル・ウルフたちは、あまりにも長く放置されすぎた。狼の群れは繁殖し、膨れ上がり、膨大な時間の経過が凶悪な王へと変貌する器を生み出してしまったのだ。
強さのヒエラルキーで言えば、最強の狼種であるフェンリルに近い種で、その力はシリウスが瞬殺したレッサードラゴンをも上回る。強き王であるがゆえに――傲慢。ナワバリは己の領土であり、それを犯したものを許す慈愛など持ち合わせてはいない。
その凶悪なる王の目が、高みからルシアを見下ろしていた。
(こ、これは……!)
ルシアは、この巨大な狼の正体を知らない。
だが、空気ごと体を締め上げるような、息の詰まる圧迫感だけでわかった。
――こいつはヤバい。
己の寿命が悲鳴を上げて、すくみ上がる気配を感じる。
明らかに、今までの狼たちと強さの次元が違う。同時に、理解する。これが狼たちの王であることも。
王は己の領地が侵略されたことに怒り、自ら出陣してきたのだ。
愚か者たちに制裁を下すために。
ルシアはエルダーウルフから目を離さなかった。移動するか、目を離すか。それが開戦の始まりだとわかっていたから。
静かに腰の剣を引き抜き、逃げてきた冒険者に声をかける。
「今すぐ逃げてください。冒険者たちに状況を伝えて、逃げるように――」
冒険者が這いずるように逃げ出す。
怖い気持ちもある。だが、ルシアは勇気を一歩を踏み出した。
(任せてもらった以上、私がなんとかしないと!)
領主の娘でもあるのだ。簡単に投げ出すわけにはいかない。
エルダーウルフが咥えていた冒険者の遺体をぞんざいに投げ捨てる。ボロボロになった肉塊が鈍い音を立てて地面を転がる。
エルダーウルフが大口を開けて、咆哮を吐き出した。
轟音。
耳が痛くなるような、肌がひりつくような圧を受けても、ルシアは戦意を燃やす。
「グゴオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
狼が怒りの雄叫びとともに突進、前足を振り回してルシアを襲撃する。
(――速い!)
力強さはもちろん、巨体からは想像できないほどの速さだ。直撃を喰らいたいとは全く思わない。ルシアは全神経を集中させて回避に徹する。
(焦るな、ともかく、状況を伝えないと……)
方法はある。
リーダーに支給された特別な笛を吹くことだ。その笛の音色は、緊急事態を告げる。全員の撤収と、各リーダーの集合を意味する。
(笛を吹ければ――)
だけど、狼の攻撃が激しくて、容易に行動に移せない。懐から取り出す余裕すらない。
(隙がないなら、作るだけだ!)
そう決断したルシアは一計を案じ、回避を繰り返しながら立ち位置を調整する。
狼の正面ではなく斜め右前に立つ。
この位置であれば、狼は前足による横薙ぎ攻撃をする可能性が高い。それをルシアは、背後に大きな樹木を背負う形で待ち受ける。
横薙ぎの一撃を、硬い樹木の幹で受け止めるのだ。
生じた隙をついて笛を取り出して、吹く――
(これしかない!)
ルシアの予想通り、狼が前足で薙ぎ払ってくる。
今だ、とばかりにルシアは立ち位置を変えた。背後にある樹木の幹が狼とルシアの間に割り込む。
この大きな樹木が狼の攻撃を堰き止めて――
残念ながら、予想通りにはいかなかった。
「え!?」
耐えてくれるはずの樹木が、あっさりとへし折れたのだ。そんなものを物ともせず、樹木を打ち砕きながら、狼の前足がルシアに迫る。
あっと思うまもなかった。
その一撃は、したたかにルシアを打ち払った。
「うう!?」
ルシアにとって幸運だったのは、さすがに勢いが削がれていたことだ。半減した衝撃は、それでもルシアの体を大きく吹っ飛ばした。
片膝をついて、気が付く。
(しまった、笛が――!?)
掴んでいたはずの笛が手元から消えてる。慌てて視線を走らせると、手からすっぽ抜けて、離れた場所に転がっていた。
拾わなきゃ、と思考が先走り、束の間、眼前の危機を忘れた。
頭を下げたエルダーウルフが突進してきたのだ。
視界が狼の頭頂部で埋まる。
衝撃。
まるで、巨大な鋼の塊が直撃したような衝撃が全身を打ち砕いた。
「うっぐ!?」
身体中の肉が爆発して、剥き出しになった骨が砕け散るような、そんな錯覚すら覚えてしまう痛みが全身を襲う。
一瞬にして後方へとすっ飛んだ。まるで手で払われた豆粒のように。
何かを考える暇もなく、ただ景色が高速で流れていく。一瞬のような、そうでもないような――気づいたときには、ルシアの体は樹木に激突して停止した。
「かはっ!?」
肺から空気が逆流し、激痛が胸を焼く。だけど、それは大きな問題ではなかった。全身に痛みが走りすぎていて、もう何が何だかわからなくなっている。急速に意識が沈み、風景が明滅する。
(あ……あ……)
逃げなきゃ、という意思はあるが、体が動かなかった。指先をピクリと動かすのが精一杯だった。額にぬらりとした嫌な感覚があった。あっという間に視界の右半分が真っ赤に染まった。流血だというのは理解したけれど、それを拭う気力もない。
霞む視界に映ったのは、ゆっくりと近づくエルダーウルフの巨体。
(……死ぬ……)
その言葉に違和感はなかった。すんなりと腹に落ちた。死ぬ、死ぬ、死ぬ。間違いなく、死ぬ。巨大なアギトに噛み潰されるか、その爪で引き裂かれるか、超重量の肉体で圧殺されるか――
その違いだけ。
(勝てない、誰も――)
弱った心の出した答えは、全滅。
だけど、それは違う、とルシアは思った。全滅、敗北、潰走。いずれもしっくりこない。あの男がいるから。最強にして敗北とは無縁のあの男――
暴虐の王シリウスが。
ルシアは圧倒的な力で押し潰されたが、シリウスがそうなるは想像できなかった。
――どうした? なんだ、この程度か? 弱すぎるぞ、それでも王か!?
そんなことを吐き捨てながら、高笑いとともに蹂躙している。
そんな姿が浮かぶ。
その呆れた姿は、場違いにもルシアの口元を綻ばせた。
(あなたなら、勝てるかもしれない……)
それだけを願った。もう、自分は助からないのなら、せめて、この狼の王だけでも排除して、村の未来を開いて欲しい。
「お願い、シリウス――」
意識が闇に落ちた。
憤怒に燃えるエルダーウルフは着々と距離を詰め、鋭い爪が生えた右前足を横に薙ぐ。女の体は真っ二つに引き裂かれて疑いようのない死が――
そこに飛び込む影があった。
「カウンター」
一筋の漆黒が閃き、巨大な前足を跳ね飛ばす。
エルダーウルフが後方へと退き、新たなる脅威に威嚇の声を漏らす。闖入者は、その視線に真っ向から対峙した。
「やれやれ、こんな大事になっているとは――己の領地が踏み荒らされたとご立腹ですか、狼の王よ? ふふふ、私は傲慢なる王の扱いには長けているんですよ」
くるりと回した夜鷹の切先を向けて、オスカーが微笑む。
「ここからは私がお相手いたしましょう」
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