(02)昇格した

 その日、奇禍によって災厄が呼び込まれ、世界は突然破滅の縁に立った。


 災厄には意思というほどのものは無く、欲望というほどのものも無い。ましてや目的などあるはずも無く、言うなれば慣性だけで目に付くもの全てを貪る存在だ。他者にとって迷惑以外のナニモノでもないが、自らで引き入れた側に文句など言えるはずもないだろう。


 人を、人ならざるモノを、魚を、鳥を、獣を、悪鬼を、悪魔を、神霊を、天使を、曰く言い難いものを、目に見えないものを、水を、岩を、草を、樹を、森を、山を、河を、海を、邑を、街を、国を、星を、銀河を、世界を、神すら貪ってきたと言う。


 もちろん、災厄とは名前ではない。どこにあっても、そう呼び習わされるだけの話だ。


 災厄は突然出現した世界の裂け目に引き込まれたが、あまりに巨大な存在故、その身の一部分だけが引き込まれた。災厄の強靭さは世界を隔てる次元の復原力にさえ、その身を削ることを許さなかった。故に今、二つの世界は災厄で繋がっている。


 この状態は摂理に反している。が、その摂理に反する状態を押し通す力が災厄にはあった。二つの世界が、今後どうなって行くかは誰にも判らない。


 突然、身の一部分だけを引き込まれた場所について、災厄は何も知らなかった。


 同様に、災厄が元々居る場所に何故災厄は居るのか、災厄は何も知らなかった。災厄が元々居る場所に何も無いのは、災厄が貪り尽くしたが故に何も無いのか、元から何も無かった場所に押し込められたのか。災厄には何も分からない。


 記憶はあった。


 災厄には、光を感受する視細胞は無かったが、反射光を知覚することは出来た。災厄には、気体の振動を感じる鼓膜は無かったが、音を知覚することは出来た。災厄には、記憶を保存する脳のような器官は無かったが、光景や音を記憶として保存し、呼び出すことは出来た。


 全てを貪り吸収する災厄は、生体、非生体問わず、あらゆる記憶媒体に保持された記録を吸収していた。なので、実際には災厄自身の見たことの無い光景すら呼び出すことが可能だった。


 しかし、災厄には呼び出す意思が無かった。だから災厄は何も知らない。


 元々災厄が居た世界は、既に災厄で飽和していたので、災厄は長く貪ることを行っていなかった。しかし災厄が引き込まれた世界は、多くが溢れる世界だった。もし災厄に感情があり、貪ることを喜びと感じていたならば、災厄は歓喜しただろう。また貪ることが出来ると。しかし、災厄には感情が無かった。なので、この引き込まれた世界でも慣性の応じるままに喜びも悲しみも無く貪るだけになるだろう。


 そんなところに、その不幸な少年が落ちてきた。


 真上から落ちてきて、この世界に突出した災厄の一部に着水し、災厄の中を沈む少年は、只々貪られるための存在だった。


 災厄は躊躇なく少年を絡め、噛み砕き、引き千切り、吸い取り、こそげ取り、嚥下した。その、恐怖も痛みも絶望も悲しみも、余さず喰らい尽くした。少年の肉体も精神もまたたく間に消化され、吸収された。


 それは、これまで数え切れない回数災厄の中で起こったことで、特筆すべきことが全く無い普通の出来事だった。


**********


『いやだー!』

『死にたくない!誰か!誰か助けて!!』


 声にならない叫びをあげながら、晃は突然目覚めた。しかし、激烈な痛みにすぐさま昏倒した。


 程無く再び目覚めたが、やはり信じられないような痛みの為に意識を失う。


 そんなことが何度も繰り返された。それこそ何百回も何万回も。あるいは何分も何日も何年も。


 実際には、痛すぎて回数や時間の感覚など意識しようもなかったので正確には分からない。ただ、何故か、必要なことの様にも感じていた。元々、勝手に昏倒し勝手に目覚めることを繰り返しているので晃にはどうしようもなかったのだが。


 何度も何度も昏倒しながらも慣れることで徐々に覚醒時間も伸びていった。そんな中で少しずつ判ってきたのは、自分の意識を失わさせるのが痛みでは無いこと。


 ずっと痛みの様に感じていたが、何回も経験することで、それは痛みでは無く非常に激しい情動のようなものだと判り始めた。おそらく『あ〜何か食べたい!!』と言った感じの、一時的で急激な感情の動き。空腹と言うこともないので、そんな気分と言えば良いか。それが激しすぎて痛みのように晃にダメージを与えているようなのだ。


『なんなんだよ、それ。どうなってるんだ。』


 我ながら呆れた。しかし、馬鹿馬鹿しい話だったが、自分の中で最も似た感覚を探すとそういう結論になってしまった。


 確かに特に空腹でもないのにそんな気分になることも無くはないが、普通であれば、そんな感覚は放って置けば雲散霧消するものだ。それだけにかかずらう程には誰もが暇ではない。何より本当に空腹なわけではなく、只々そんな気分だと言うだけなのだから。


 判ったからといって、一瞬で意識を昏倒させるような刺激であることに変わりなかったが、理解することをきっかけに、意識を保つことが出来るようにもなって来た。釈然としていないが、自分の気分であれば、意識から締め出すことも可能だ。


 妙な感覚を意識の端に追いやることが出来、意識を保つことが可能になると、当たり前だが、今の状況を不思議に思いはじめた。


 確か、屋上で黄昏ていたところで地震に遭遇し、マンションから転落してしまったはずだった。


 死ぬかと思われたが、得体の知れない池に落ち、九死に一生を得たと思ったのも束の間、水のような何かに襲われ、食い散らかされ、痛みと絶望の中、死を確信して意識が途切れたのではなかったか。


 絶対に死んだと思ったが、あれは本当に起こったことだったのだろうか?夢を見ていたとか?それとも本当にあったことで、再度、奇跡的に命を拾ったのだろうか。


 『食べたい』と言う激しい焦燥感が纏わりつく以外、何も見えず何も感じられない。当然痛みも無いが恐ろしいことに身体の感覚もない。


 何かに接している皮膚や筋肉への圧迫感も無い。空気の流れを感じる肌感覚も無い。胃腸が蠕動する内臓感覚も無い。腹腔内で発生したガスと液体がまじり合い、腹部でゴロゴロと腹鳴が鳴る様子もない。眼窩で眼球がゴロゴロする感覚も無い。


 あの後、救助されたものの、手足を食い千切られ意識も戻らないまま、植物人間になって病院のベッドに転がっているのか?確かに手足を食い散らかされた記憶が有るし、可能性は高い。空腹でも無いのにしきりに食べたいと考えるのも、脳にも損傷があって、その後遺症なのかもしれない。


 そんなことを想像してしまい、出口の無い恐怖と絶望に、パニックに陥りそうになったところで、今度は感覚が爆発した。


『うわっ?!こ、今度は何?』


 今まで外部からの刺激が皆無で、植物人間になって身動きも出来ず、感覚も無くなってしまったのかと心配していたところに大量の感覚情報が雪崩を打って押し寄せたのだ。


 五感からの情報?判らない。五感からの感覚情報だと思う。多分。


 視覚は全方位に見えている?何だろうか、何かの残骸が辺りを覆っている。何かは判らないが、ひどい有り様だ。火も出ているようだが、赤い光がチョロチョロと揺れているようにしか見えず、炎と認識するのは難しい。


 全方位から音も聞こえる。色々な緊急車両のサイレンのようにも思えるが、獣の鳴き声にも思える。言葉の意味が全く判らない人の話し声、うめき声、泣き声、何百と言う声がサイレンのような音に重なって聞こえる。


 全方位から匂いもする。立ち込めるのは土なのか、鉱石なのか、硬い感じの匂い、焦げる、焼ける匂いもしている。気体に細かい粒子が多く浮遊しているようで、かなり埃っぽい感じだ。それにも増して、血のような匂いが酷い。多分、血なのだと思う。


 足元には硬い感触がある。頭や身体の各所にも硬い何かが当たっているようで、圧迫される感じがある。奇妙なことに口腔を満たしているのは硬い味のない何かで、圧迫しているものの味だと感じる。


 そういった、これまで感じたことがあり、馴染み深いはずなのに、何故か認識が上手く出来ない感覚があった。


 それとは別に、冷たく、広範囲に肌を刺す感覚。熱く、広範囲に肌を焼く感覚。一部を際限無く締め付けられる感覚。この世のモノとは思えないえもいわれぬ感覚など奇妙な感触もあった。


 暴力的な勢いで流れ込んできた感覚情報だったが、今度は意識の喪失は発生しなかった。


 最初の覚醒時に昏倒した時以上の衝撃があったのだが、何か自身のスペックがいきない上がり、無理な入力情報を何のストレスもなく入力できたような感覚があった。


 例えば、重たいプログラムを、容量の無い電源環境、低スペックPCで無理矢理動かしていたのに、いきなり無限の電源環境、超高スペックPCに環境が変わって、入力もストレスないし、ブレイカーも余裕で必要なくなった。そんな感じになっている。


 感覚の奔流に翻弄されるが、今回もパニックには至らなかった。そもそもパニックは死への危険を察知して警告を発信し、生き延びるための反応で起こるので、今の晃には(本人は理解出来ていないが)起こり得ないことだったのだ。同じ理由で先程も結局はパニックに至らなかっただろう。


 晃に押し寄せる感覚の奔流は、災厄が体表面から取得している感覚情報だ。晃の世界から得られる感覚情報。災厄が元々居た世界から得られる感覚情報。世界と世界の狭間で得られる感覚情報。


 晃には理解出来なかったが、それはつまり、災厄が取得している情報を晃も受け取っていると言うことに他ならない。


 珍事と言うべきか。いや、このことによって、晃の世界は災厄に消化吸収されることを取り敢えず免れたのだから、奇跡と言っても差し支えないかもしれない。


 何が、災厄の中で起こったのか。


 まず最初に、吸収されて災厄の一部となっていた晃に、災厄の存在意義とも言える、喰らい、吸収する行為の制御権が付与され、元々存在しなかった吸収制御機構と言えるものを晃の精神が担う形になった。


 何故かは分からない。


 まさか晃が今際の際に、夕食を抜いて空腹だったことを無念に思ったからだろうか?


 吸収したものも、自身の機能も、何もかもが混然としており、精神さえもカオスの災厄では、有り得ないとも言い切れない。しかし、これまで災厄は数限り無い意志あるものを貪り吸収して来たのだ。晃と同じ状況で被害にあった者も星の数では済まないほど居そうではある。


 意思の無い災厄にとって、吸収する行為の制御を得ることが、必要なことだったとは思えない。とは言え、いつかは制御機構が内部で発生しないとも言い切れず、あるいは外部から取り込むことになったかもしれず、それが今だったとしても不思議では無かった?


 しかし、喰らい、吸収する行為の制御が行われ始めるや否や、貪ること以外の能動性を持たなかった災厄の存在自体の制御も何故か当然のように(?)晃に付託されてしまったのは自然の流れだったと言えるのか?


 つまり、吸収された晃の精神が、一時的に喰らい、吸収する行為の制御主体に成った後、現在は災厄自体の制御主体に昇格してしまったのだ。


 だからこそ災厄の感覚情報が晃に殺到した。あたかもそれが本然の姿のように。


 これは何と言うべき事象だったのか。ここに意思を持つ災厄が誕生した。


 これまで妄り(みだり)に貪るだけだった巨大な災厄が、貪ることを存在の根底に持ちながら、意思を持ってことを成す何かに変わった。それが奇禍なのか、僥倖なのかは、まだ誰にも判らない。


 何れにしても災厄だったものは貪ることを止めたが、災厄たる晃はまだ状況が理解出来ず、只々戸惑っていた。

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