六月十二日


「人気力士のことを米びつなんて言ったりする。相撲用語では米は金の隠語なんだ。力士は昔、金の代わりに米をもらっていたから」


どこから戻ってきたのか尾川がピンク色のパーテーションの間から顔だけを出していた。会釈で形だけの礼をする。


「お米を捧げるのは牛鬼が来たことに対するお礼でしたね。つまりは、牛鬼にお金を払う?」


桐瀬の言葉に頷きながら自分の手帳にもう一度目を落とす。


「米は金、線香は煙草なら、花は一体なんだ?」


牛鬼が煙草を禁忌とする金で買うものだとして花の役割は?

花・米・線香。これは牛鬼様を行う際に必ず持参するもの。

この三つがなければ牛鬼は現れない。花も牛鬼には必要。


「隠語として考えるのなら、花売りに売春行為という意味があります。あるいは花を寵愛と指す場合も。花という字を分解すると贔屓(ヒイキ)と読めることが由来です。どちらも社会通念上は女性に関わる隠語です」


「花は女性? 牛鬼と女と聞くとまるで濡れ女だな」


俺と桐瀬の向かい側に着座した尾川が独り言のようにそう言った。

流石オカルトマニアだ。牛鬼と濡れ女の伝説なら俺も知っている。

傍らで不思議そうな顔をしている桐瀬に目を向ける。


「島根県の伝承だよ。海辺で赤ちゃんを抱く女に会った男が、女から赤ちゃんを押し付けられる。すると女は海へ消え、代わりに牛鬼が姿を現して男を喰おうとする。男は逃げようとするが預かっていた赤ちゃんが重い石に変わっていて逃げられない。つまり濡れ女は牛鬼が人を襲うための罠なんだ。濡れ女と牛鬼を同一視する見方もあるそうだ」


「美人局のようですね。パパ活女子の中絶詐欺に似ています」


寵愛されていたパパへ妊娠したと嘘を言って金銭を騙し取る手法をメインにした、グループとパパ活女子が行う恐喝のことか。

それと重ねるなら四倉やアスミが濡れ女でグループの男が牛鬼に相当する。花を使って現れる牛鬼に捧げるのは米という金。

仮に牛鬼様や張り紙がパパ活の中絶詐欺を暗に指しているとして


「花と米はパパ活とリンクするけど、煙の説明がつかない」


「煙草の煙がパニックのトリガーだというのも仮説ですよね」


相変わらずの切れ味を持つ桐瀬の言葉に納得して頷いたが、目の前の尾川はまた俺と桐瀬の言い合いが始まると予感したのか宥めるように手をバタバタと揺らした。


「パニックが起こる医学的な原因を考えてみるのはどうだ?」


桐瀬と目を合わせ、知識の幅が広い桐瀬に委ねるつもりで先に視線を逸らした。


「パニックの起因は不安や恐怖だと思われます。そういった不快情動は脳の扁桃体が関係するそうです。PTSDにみられるフラッシュバックは扁桃体が記憶を司る海馬と密接であることから恐怖記憶と不快情動が結びつき起こるといわれています」


尾川が目を丸くしながら「そうなんだ」と呟く。


大脳辺縁系の話だったら俺も知っていた。

桐瀬が俺を記憶する時は扁桃体から不快というラベルを印刷していると考えてよく笑った。


「不安や恐怖に関わる脳内物質はノルアドレナリンや副腎皮質から分泌されストレスホルモンと呼ばれるコルチゾールなどが浮かびます。最近では睡眠や食欲に関係するオレキシンという脳内物質が恐怖の調節に関与するそうです。煙草の煙がこれらの分泌を促す可能性についてはわかりませんが、煙草の臭いが心的外傷を受ける体験をした際に記憶されていればフラッシュバックも起こると考えられます」


「詳しいね。医療ジャーナリストと仲良いの?」


「過去にPTSDの診断を受けた際に詳しく調べました。今でも時々抗うつ剤を服用しています」


自分の余計な言葉を恥じて尾川を見る。

瞬きさえしない固まり具合から察するに尾川も知らなかったようだ。


「全員が煙草にトラウマを持っているのは考えにくいし、煙草が直接的な原因だったら俺もパニックを起こしている。それじゃ別の何かが煙草を発作の起因に変えているってとこか? それがこの花に該当するものなのか」


独り言のようにそう言って足を組み変えた。

こう煙草の話ばかりしていると口寂しくなってくる。

オフィスはもちろんビル全体が禁煙なので、ここにいる時は非常階段でホタル族にならざるを得ないため腰は重くなるが。


「まぁ煙草を発作の起因に変える花があると仮定して、そいつの正体を知れるのは話題の北橋界隈だろうな。現時点では煙草とパニックを関連付けている人間はみんな北橋関係だろ?」


尾川が桐瀬のメモ帳に一通り目を落としてどちらともなく言った。


「そうですね。桐瀬さんさ、その北橋界隈って所で若者は一体何してるの? 単純にたむろして遊んでいるだけ?」


「何をしているというのはそれぞれで異なりますよ。雨宮さんがイメージしているような徒党を組んだ集団ではなくて、あくまで北橋という場所に多種多様な若者が集まっているわけです。遊びに来ているだけの子もいれば北橋に住んでいる子もいます。言うなればそこではみんなが生活をしているとでも言いましょうか。誰かの部屋でもあり遊技場兼宿泊施設でもあるのかもしれません」


窓の外で音をたてる雨粒が風に吹かれ斜めに線を作る。

晴れの日ばかりではないというのに、何故そこを居場所にするのか。

ただの路上に根をはるほどの特別なこととは何だろう。


「じゃ若年層の路上生活者ってことなの?」


「あぁそれはどうでしょう。住む場所を失っているというより、多岐に渡る理由で親と同居する家を離れている子が多いので、雨宮さん世代が理解し易いのは家出少年少女が適するかと」


雨宮さん世代ってアナタもそんなに俺と歳は違わないでしょ。


「他人が口出しできない事情は若かろうが歳をくっていようが必ず付いて回るからな。まぁ色々と悪く言われているみたいだけど、家を飛び出した者同士で一部に固まっている方が安全だよなぁ」


すっかり壮年の落ち着きを手に入れはじめている尾川が神妙な顔でそう頷く。

確か小学校に上がる前の姪がいると聞いたが、その子がこの先そうなった時、本当に同じことを言うのだろうか。


「身の安全を心配するなら一人や数人で放浪するよりは良いのかもしれませんが、彼らが描く楽園は我々が考えるシェルターを理想とはしていませんよ。彼らが逃げ出してきたのは学校や家ではなくて先ほどおっしゃった通り付いて回る事情というものです。我々が言うところの現実です」


「どこに身を寄せたって現実は自分の影だろう。北橋で生活しているという毎日だって現実なんだから。逃げるなんて無理だ」


尾川が何故か桐瀬を北橋キッズに見立てて眉をひそめる。

今の桐瀬の言葉を姪が言うものなら怒鳴っているだろう。


「だからこそ北橋界隈では破滅的あるいは自傷的な行動をとる若年層が問題になっているわけです。おっしゃる通り現実とは自分そのものですから、逃げるために自分との殺し合いをします。多量飲酒から件の売春、乱闘やリストカット。昨今では市販薬のオーバードーズで救急搬送される子供たちが増えています」


「薬の過剰摂取? そりゃ自殺だろう」


俺の驚きに桐瀬が「そうですね」と冷静に頷く。


「ただ確固たる自殺の意思を持った上での摂取というよりは運悪く死んでしまっても構わないという破滅思考の下での行為かと。北橋界隈の一部では処方薬を売る者までいるといいます」


オーバードーズってそれ何のために?

俺の次の言葉を予知したかのように桐瀬が続ける。


「オーバードーズにより意識を朦朧とさせることで現実を幻影にしてしまいたいのかもしれませんね。まぁ流行を追う気持ちと似たファッション感覚や協調意識で手を出す若者は多いと思います」


「昭和に当てはめて言うならシンナーやガスパン遊びだな。どれも覚せい剤なんかの入り口になる行為だ」


尾川の呆れた声に小さく頷いた。

学生時代に見たアンパン中毒だった先輩の笑顔が呼び起こされる。

あの歯ではもうリンゴも丸齧りできなかった。

小学校からの知り合いだったが末期では会話もままならないこともあった。白い赤ん坊が便器の底にいると騒いで和式トイレを叩き割った事件もあったな。

シンナーが見せる幻覚だ。……幻覚か。


「思ったんだけど、その薬の過剰摂取でアスミや放火少女はパニックを起こしたってことはないかな? つまりオーバードーズによる精神障害が現れたっていう可能性はどうだろう」


「えぇ、まぁ中枢神経への影響は大きいと考えられるので、話にあるような幻覚や興奮はあり得ると思いますが、煙草とは結びつきませんよ」


「煙草は仮説なんだろう? 薬の影響っていうのもあくまで仮説だ。仮説は検証して立証しなきゃいつまでも実体がないままだ。その線で隠語だと踏んでいる花を調べてみたらどうだ?」


尾川の進めに俺と桐瀬は目を合わせた。

これで牛鬼の正体と張り紙の意味を知ることができればアスミや紅崎との関わり方をはっきりさせることができる。


「では改めて分担しましょう。私はクライアントの実話誌と連携して北橋界隈の薬物問題を中心に虎村について調べます。雨宮さんはとりあえず私の方の調べが一段落するまでやはりアスミさんに的を絞るのはいかがですか。男達が張り紙の犯人だと疑うジョナはアスミさんで間違いないようですし、まずは男達への進捗報告を視野に動くべきだと思います。雨宮さんの裁量に任せますが、まずは可能であればアスミさんのアパートの部屋で手がかりを探してみてはどうでしょう。私からの要望を言えば市販薬または処方薬の有無を確認していただきたいですね」


少し前ならプライドが邪魔をして跳ね除けたはずの桐瀬の指示に素直に頷いてみせた。

桐瀬の冷静さや探究心とその行動力を俺は敬いはじめている。

高揚した気持ちが勝手に命令をし、意図せず桐瀬に握手を求めていた。

一瞬眉を上げて差し出された手を見た桐瀬が、躊躇うことなく手を握ってくれる。

こういう時くらいは笑ってくれよ。

手を離そうとした間際、シャッターが切られる音がした。

尾川の顔がカメラの後ろから出る。


「記念だよ。協定はシャッターチャンスなんだから」


ヘラヘラと笑う尾川に微量の愛想笑いもしていない俺がいる。

敬いに付随して桐瀬の強かさが影響しはじめているようだ。

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