六月十二日



少しだけ濡れてしまった体をそのままに事務所へ戻って応接間へ顔を出すと、俺が座っていた位置のテーブルにコーヒーカップが置かれていた。

尾川の姿はなく、あるのは襟足の短い桐瀬の頭だけだ。

ソファに腰をおろしコーヒーを啜る。

もうそろそろアイスコーヒーにしてほしい。


「何か狙いがあったんですか?」


桐瀬が両肘を揃えた太ももに置き俺の顔を覗き込む。

小さな顔には俺の髪が濡れていることは別にどうでもいいと書いてある。


「あの子はまだ何か隠している」


そう答え、赤坂にて遭遇した男達の話をする。

そして張り紙の主を探し出すついでにと渡された二人の女が笑っている写真を桐瀬に見せた。


「……え、これは?」


「その紅崎らが容疑者として睨んでいるのはその右の女らしい。名前はなんとジョナさん」


「ジョナ? ですか? これはアスミさんじゃないですか」


頷いて衛藤から預かっている写真もテーブルに置いた。

紅崎から渡された写真の方が化粧も髪色も派手だが、ジョナと呼ばれていた女は紛れもなくアスミだった。


「それにだ。この左の女性をよく見てくれ」


桐瀬が少しだけ眉の間に力を入れて写真を覗き込む。


「こちらも髪型が違いますが、四倉さんに似ていますね。今日はマスクをしていましたが、目元は同じようです」


「張り紙についても四倉このみに聞いてみた。牛鬼をよぶ方法だって答えたよ。放火少女から端を発した牛鬼、少女と関係する北橋キッズ、北橋キッズで売春詐欺をしていたアスミ、アスミも発した牛鬼、張り紙の主とアスミを捜す男達、そして張り紙が牛鬼をよぶ方法だと言う四倉このみ。この一連の繋がりをどう解釈しよう」


俺が並べた繋がりを自分の手帳に箇条書きすると桐瀬は思案を表すようにペンを指で回した。


「四倉このみの連絡先は持っているんだよね? 張り紙が牛鬼をよぶ方法って言葉の意味を聞けるかな」


「メールアドレスだけですが。一応メールはしてみます。でも詳しく話さず帰ってしまったということは、これ以上は答えないという意思表示かもしれませんよ」


携帯を華麗に操作した桐瀬が顔を上げる。


「ジョナという名前はアスミさんが仕事をする上での偽名だったと考えれば、男達がアスミさんをジョナとして認識していた可能性はありますね。男達の正体によっては変わってくることですが。たとえば男達が四倉さんの言うグループの人間だった場合です」


「それなら探させている俺に本名を教えないのはおかしいってことだよね。それに四倉このみの談が本当なら仲間の虎村に聞けば探すまでもない。アスミと虎村が二人で逃げているなら虎村の情報も俺によこすはずだ。時間がないなんて言っていたくらいだから。でも紅崎らがパパ活を管理するグループの人間だという可能性はあるかもしれない。パパ活女子二人が並んでいる写真を持っているんだ。それにアスミについて話をしていた時、五月の第二週まで仕事をしていたと言っていた」


言いながら俺を囲んだ男達を一人ずつ思い出してみる。

どいつの首にも花のタトゥーは刻まれていない。

すると小さな疑問が浮かび、視線を安っぽい色のコーヒーから桐瀬へと戻した。


「そういえは売春グループの女の子は自分の担当者以外の男とは会うことはないって四倉このみは言っていたそうだけど、どうしてアスミの担当者だった虎村の首にタトゥーがあることを知っているんだ?」


「四倉さんが言うにはアスミさんと虎村なる男は交際していたそうなので、友人である四倉さんに紹介したか、あるいは写真を見せたのではないでしょうか。だから虎村という名前も知っていたのでは」


「それで虎村がアスミの居所を知っていると断定しているわけね。そういえば虎村に伝えてほしいっていうアレ、なんだろう」


「お参りをして、でしたね。普通に考えればお墓参りか参拝を指す言葉ですよね。共通の知人が亡くなったのでしょうか」


「少し捻るなら復讐とか? お礼参りってあったじゃん」


四倉このみに意図を尋ねてもよかったが、アスミ捜しとは関係ないプライベートのことだったら失礼だと感じて聞けなかった。

しかし今ではあの伝言を俺や桐瀬に預けるためにプロダクションまで足を運んだ気がしてならない。

張り紙についての質問を煙に巻くのだから、四倉このみはアスミの身を案じるただの女じゃない。

虎村への伝言にはあまり関心がないのか、桐瀬は微妙に肩をすくめて「さぁ」と返事をする。


「私は四倉さんから情報提供があってすぐ、放火少女が関わる北橋界隈、そこに広がる売春についてまとめた記事を上げることを実話誌編集部に報告したので、グループのリーダー格だという虎村について調べて、可能であればインタビューを取ろうと考えています。雨宮さんはどうしますか?」


「今は記事を書くどころじゃないよ。チンピラみたいな男らからアスミと張り紙の犯人探しを強要されているって言ったでしょ」


紅崎らは赤坂で張り紙を探し回っている俺を見つけただけで威圧的に接触してきたことを考えると、違う世界において張り紙は関わってはいけないタブーなのかもしれない。真意はともかく四倉このみの返答を踏まえると、牛鬼こそが禁忌なのか。

それは桐瀬の取材通りに若者の流行言葉などではなく、さらにただの降霊術ゲームでもない。

そのタブーに触れたアスミは消えた。

いや逃げたというべきか? 牛鬼という禁忌からアスミは逃げた。

そうじゃなかったらまだ俺も紅崎らも知らない何者かに連れ去られてしまったのかもしれない。


「それなら今回はアヤカシでの記事は見送りましょう。その代わり私のアシスタントということで動いて下さい。報酬も出します」


「いや記事は書く。与えられた枠は絶対に落とさない。俺は物書きになってからこの掟だけは守ってきたもので」


一瞬だけ桐瀬が笑った気がした。

もちろん口角は一切上がっていないが、表情からいつもの緊迫感が消え、顔が全体的に緩んだように見えたのだ。それも桐瀬にしては充分な笑顔だ。


「それじゃやることは二通りですね。今回の件に必ず出てくる謎だらけの牛鬼に焦点を合わせるか、怨霊トンネルと張り紙や牛鬼それから北橋界隈と謎の男たちなど全てに関係があるアスミさんの行方を追うか。張り紙の犯人捜しは雲を掴む様なものなので却下です」


「紅崎の呪縛を考えると牛鬼を調べることよりハードだけど、やっぱりアスミ捜しか。でもどうだろう。仮にアスミの居場所や手がかりを得たとして、危なそうな男らに情報を渡すべきなのかな」


「アスミさんが本当に犯人だったら危険な男たちも自ら招いたことなので、雨宮さんは自分の身を守ることを考えていいと言えます。でもまだあくまで疑いなので、アスミさんの潔白を証明するつもりで動くと考えてみてはどうでしょうか。男たちより先にアスミさんを保護して、張り紙とは牛鬼とは何なのか、ジョナとは一体誰のことなのかという真実を明らかにすれば選択肢も増えるでしょう」


もしもアスミが張り紙の犯人なら自業自得なので気に病む必要はなく、違うなら保護すればいい。

つまりアスミの正体によって男らに差し出すか守るかを決めるということか。

桐瀬にはどうも勧善懲悪な物事の見方があるようで、これが今まで俺には桐瀬が冷血な雪女に見えていた所以なのか。

しかしアスミが犯人だったとしても彼女自身が張り紙の意味を知らなかったら俺はアスミに「お前が悪い」とは言えない。

そもそも張り紙や牛鬼が何を指すものなのかが不明なままでは誰が悪なのかなど明確にはできないのだ。

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