六月十二日
プロダクションが入ったビルのエレベーターに乗り込んだのはすっかり日が落ちた十八時過ぎだった。
こんなことなら紅崎に品川を指定すればよかったと悔やむ。
定時過ぎの閑散とした事務所へ入り、人の気配がするパーテーションの向こうへ歩いた。一声かけてから顔だけを出す。
応接間のソファには上座にコーヒーを啜る尾川の姿があり、向かい側には背筋を伸ばした桐瀬、その横にマスク姿の女が座っていた。
頭を下げる俺にマスクの女が座ったまま綺麗な礼を見せる。
「来たか。ま、座れ」
要領を得ないまま尾川の隣に着座し、桐瀬と目を合わせた。
「お疲れ様です。まず紹介させてください。こちら四倉このみさんです。以前北橋界隈に出入りしていた方です。四倉さん、こちらが先ほど話したライターの雨宮さんです」
「どうも、雨宮洋峰です」
言いながら名刺を渡すと四倉このみは丁寧に受け取り、目を三日月にしてもう一度頭を下げた。
四倉の髪型がミディアムボブという名前だということは、プロダクションのアルバイト女子大生が散髪したての自分の髪をそう呼んで見せびらかしてきたことがあったためわかった。
俺には伸びたおかっぱ頭にしか見えないが。
「このみさんはおいくつなのかな」
それとなく世間話を振ると、四倉はテーブルに置いていたメモ帳を開き
「二十一歳です」と書いて俺に向けた。
「四倉さんは事情があって声が出しにくいため筆談を行います」
桐瀬のフォローに四倉がまたも会釈をする。
風邪でもひいているのか、という軽口は慎んだ。
「そうでしたか。それで、彼女は一体?」
「ここ数日間、北橋界隈の取材を続けていたのですが、どの時間帯を狙ってみても北橋キッズの姿はありませんでした。以前は多くの若者で溢れていたのですが、それらしき若者は皆無でした。行政の手が入ったような印象もなく不審に思っていたところ、四倉さんにお会いしました」
客人の手前だからなのか桐瀬の俺への態度が少し柔らかい。
そうはいっても弾力があるといった程度だ。
「四倉さんによると、やはり北橋キッズの売春は組織で行われていたそうです。少女達はあるグループの統制下にあり、売春は美人局を目的としたものだそうです。俗に言う援助交際狩りですね」
美人局か。
女と深い関係を持った男にその女かあるいは仲間が関係をネタに脅迫し金をとる恐喝の一種だ。
関係を持った女が未成年であったりするとカモにされた男は社会的制裁も考え泣き寝入りする場合が多いため、少女を餌にするのが一般的だ。
「そのグループっていうのはやくざ者?」
「反社会的勢力であるかは明確ではないそうです。クラブやバーを経営している男もいればラップアーティストとして活動している男、ホストクラブの従業員などもいたとのことです。ただ暴力団との関わりも深く、グレーゾーンの集団であるのは確かです。四倉さんは昨年から約半年ほどこういった人間達と仕事をしていました」
何か言いたげな潤いを携えて俺をジッと見る四倉からつい目を逸らしてしまう。
俺が桐瀬だったら当事者の若い女の前でこんなに淀みなく取材内容を話せない。
今はもう、桐瀬は冷淡なのではなく割り切っているからなのだと見る目を変えたため神経を疑うことはない。
「恐喝の手法で多く使われていたのは中絶詐欺だったそうです。客としてとった男に後日妊娠したと告げ、父親や兄、弁護士を装った男の同席下で金銭での示談交渉をします。狙われた客とは行為に及ぶ前から食事やショッピングなどの健全な交際を行うことが肝で、恋愛感情を持たせた方が相手の金払いはよくなるとか」
尾川が憐れむような視線を琥珀へ向け、顔を俯かせた。
俺も同じだ。客だって大人の男なのだ。
たった一度の避妊具を用いた性行為で簡単に懐妊するなんてことは滅多にない。
この四倉をはじめ、北橋キッズの少女達がどんな夜を越えて髪の色を染める金を稼いでいたのか容易に想像が出来てしまう。
「行方不明になったアスミさんの部屋にベビー用品があったという話はその中絶詐欺に繋がるわけだ」
「はい。一時は産もうとしていた健気さを演出することにより騙す相手が詐欺を疑うことや騒ぎ出すことを防ぐ目的があるそうです」
四倉の骨ばった肩が何だか切ない。
初夏に似つかわしくない長袖の裏を見たくないと思った。
「このみさんは、アスミさんをご存知なんですか?」
頷いてペンを取る。
「同じ大学に通っていました」と端麗な字で答えてくれた。
「四倉さん曰く、美人局グループの中のあるリーダー格の男がアスミさんの居所を知っているとのことでした。四倉さんもその男を捜しているため我々の協力を得たいそうです」
「それはどこの誰かな?」
四倉がまたサラサラとメモ帳の上にペンを走らせ、今度は紙を破って俺によこした。渡されたメモには「虎村奏太朗」と書かれている。
「トラムラ? すごい名前だ」
「グループでは働き手の少女に担当者と呼ばれる男が一人付き、客から少女の身を保障し、恐喝の際には役を演じるそうです」
「つまり虎村はアスミの担当者だったのか。情報は名前だけ?」
四倉が大袈裟に眉を折り曲げて深く頭を下げる。
「グループの少女は自分の担当者以外の男に会うことはないためわかっているのは名前だけだそうです」
桐瀬がそう言い終えた直後に四倉が「はっ」と息を漏らし首筋を触った。
注目を集めた後でメモに「首に赤い花のタトゥーがあります」
と書く。桐瀬がメモから俺に目を移し「だそうです」と言った。
とりあえずの言葉を言いかけたところで尾川の携帯が鳴り、短い会話をしてすぐに切った。
尾川が誰を見るわけでもなく顔を上げる。
「呼んでいたタクシーが着たそうだ。四倉さんのお住まいはここから少し離れているそうなので頼んでおいた」
そう言って尾川が茶封筒を差し出す。
激しく両手を振って断る四倉に「いいから」と無理矢理渡した。
「取材の謝礼だと思ってもらってやって下さい。俺が下まで送りましょう」
一緒に立ち上がろうとする桐瀬を小さく手で制して、四倉を出入り口まで促した。
「今日はありがとうございました。近いうちにご連絡させていただくことがあると思うので、その際はまたお願いします」
桐瀬の挨拶に頭を下げた四倉がメモ帳に何かを書く。
「もしも虎村に会うことができたら伝えてほしいことがあります。
【お参りをして】伝えていただいた際はご一報ください」
少し乱れた、力のこもった字だ。
俺と桐瀬は同時に頷く。
満足そうに目を潤ませた四倉を誘導し、エレベーターまで歩く。
俺がここへ来て間もないためボタンを押してすぐにドアが開いた。
俺の胸ほどの高さにある四倉の顔に笑いかけてみる。
乗り込んでドアを閉めたタイミングで切り出す。
「四倉さん。確認なのですが、アスミさんはこちらの方で間違いないですね?」
そう言って衛藤から預かっていたアスミの写真を四倉に向ける。
四倉は目を丸くし不思議そうに頷いた。
耳石器が下がっていくエレベーターの運動をとらえる。
「そうですか。いや、ありがとうございます。それから、台東区と港区の謎の張り紙のことはご存知ですか? これについては別件なのですが取材を行っていまして、参考までに何かご存知のことがあれば。噂レベルの話でも構いません」
四倉の鼻から微量に息が漏れる音がした。
笑ったようだ。
ベルを鳴らしてエレベーターのドアが開く。
ロビーへ出ると外がいつの間にか雨になっていることに気付いた。
出入り口のガラス扉の向こうに濡れたタクシーが見える。
四倉が振り向き、またも破ったメモを渡してお辞儀をした。
そうして足早にビルを出てタクシーへ乗り込む。
何故か二つに折られているメモを広げる。
「牛鬼をよぶ方法です」
はっとして視線を上げる。
幾数の水滴が散っている後部座席の窓にマスクを外しているのであろう四倉の横顔があった。
「待ってくれ」
聞こえるはずもない声を上げてガラス扉を押し開けるも、鼻腔へ雨に濡れた冷たい空気が流れ込んだと同時にタクシーがウィンカーを上げて出発してしまう。
走り去って行くタクシーのリアガラスにこちらを振り向いている四倉の顔を見た。
それは薄闇と雨に濡れた女のシルエットにすぎなかった。
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