六月十二日


「ちょっといい?」


俺の真正面で腕を組むビジネスシャツ姿の眼鏡の男が言った。

スプレーでプラスチックのように固められたツーブロックの頭をしているが真っ当な会社員には見えない。レンズの奥の両目を大きく見開いている。

まるでシールのような黒目だ。


「あぁ、何かな?」


言うとメガネは後方を指差し、ジロリと俺を見る。

男物ではない甘い香りがした。


「さっきからその張り紙のある所をうろついているみたいだけど、貼ったのってアンタなの?」


「これ?」


俺を取り囲む男たちが敵意剥き出しの形相をする。

少しでも言葉を間違えれば鼻を折られてしまうかもしれない。

ただ心理戦にはなっていない。

この態度を質問と鑑みればこいつらの拳の握り方は簡単に変えられる。


「張り紙が何なのかを探っているだけだよ」


メガネが眉の中央に作っていたシワを一瞬だけ緩める。

暴力もセックスも衝動だ。つまり勢いでありタイミング。

そいつは超高速である代償に小さな疑問や気がかりなんかで呆気なく脱線もする。

どちらも快楽に繋がる代物であるが故、衝動が脆くなきゃ人類は滅んでしまう。


「誰に頼まれたか言ってみろ」


誰に頼まれたか? それはつまりメガネを含め、この男たちはあくまで何者かのお使いをしているだけということか。


「俺は頼まれたわけじゃない。だけど仕事だ」


誰かが苛立った声を上げる。

“あ”の濁音を出せるのはこの手の連中にとって歌舞伎でいうところの見得なのかもしれない。その世界にいるなら出来て当たり前の代名詞。


「なに、おまわり?」


冷たく言い放ったメガネに、ポケットから取り出した名刺を渡す。


「フリーの物書きで、今これをネタにしている」


メガネが横を向き、茶髪にスパイラルパーマをあてた男と目配せをする。

それが交代のタッチであったかのようにパーマが俺を見た。

左の目尻に涙の雫に似た小さなタトゥーがある。


「この張り紙のことでアンタがわかったことは?」


駆け引きを狙って質問をはぐらかせば、パーマの後方で肩を怒らせる丸刈りの男が、トライバルタトゥーに覆われた腕を振り上げてくると容易に想像できた。

中東系のハーフなのか抜きん出たガタイをしている。


「仮説だけど貼っているのは単独であることと、現時点で千代田から見て鬼門と裏鬼門を結んでいることくらい。意味や目的は調査中」


「あぁ鬼門ね。あのさ、勿論記事にするために張り紙のことを調べているわけだよね? 誰かに頼まれたわけじゃなくて」


頷く代わりに張り紙についてまとめたファイルを差し出した。

無事に帰れるならこんなものくれてやる。


「記事にしたところで大した金にならないでしょ」


ファイルをパラパラとめくりながら、パーマが乾いた口調で言う。

恐らく他人には読めない字を書いているので見ているのは台東区で撮った張り紙の写真だけだろう。


「まぁ多分、三日分の食費にはなるよ」


「じゃこっちは一ヶ月分の食費を出してやろうか」


閉じたファイルを俺の胸へ押し返し、パーマが口角を小さく上げる。

要領を得ない返答だがこいつらが何者なのか聞くのは早々な気がする。

勘ぐりはせず、発言に対してひたすらキャッチボールをしていればつば迫り合いにはならない。


「そちらに記事を売るってことかな?」


「欲しいわけねぇだろうそんなもん。この張り紙を貼った奴を連れてきてくれりゃいい」


そう言われてもこんな得体の知れない危なげな連中に付き合うメリットは全くない。この類の男らが関わっていると知ってしまった今になれば、張り紙も安易にオカルトとして紹介できなくなった。

それに人捜しはアスミだけで充分だ。


「悪いけど、俺は探偵じゃないから」


メガネから受け取った俺の名刺をパーマが片手でクルクルと回し遊ばせている。


「そう言わずにさ。一人でこれだけ張り紙のことを調べられるならそんなに難しい話でもないと思うよ。記事にはさせないけど、俺から取材依頼があったと思ってこっちに付いてくれないかな」


「俺を雇う理由は? どう考えても君らが捜した方が上手くいくと思うけど、どうして金まで出して俺に手伝わせたいのかな」


「俺らが持っていない記者の情報網を買いたい」


俺はアヤカシの自分の枠に穴を空けないために動いているわけで、貼っている人間が誰かなんて勿論どうでもいいのだ。

記事にできない取材をどうしてライターがやると思うのだろう。

言葉を迷う俺に、パーマはやけに目を見開いた顔を向ける。


「それとも俺らと仲良くできない理由があるの? ただのフリーライターってのは嘘なのかよ」


パーマの背後にいる男たちが一斉に獣へ変化したように感じた。

何を言ってみてもイエスだけがこの魔物共を追い払う呪文なのだ。


「後が怖いし、そんな簡単に受けられないだけだ。頼むからそう興奮しないでほしいんだ」


「悪いようにはしないって約束するよ。話だけでも聞いて、それから考えてみたら?」


話を聞いてしまえばそれは無言のイエスじゃないか。

思いながらも情けなく頷く俺を、過去の若い俺が軽蔑した。

辺りを包む瘴気に似た空気が徐々に変わっていくのを感じた。

パーマがもう一度にやりと笑う。


「送っていくよ。雨宮さん」



後部座席で俺の横に座った茶髪のパーマ男は紅崎と名乗った。

まさか本名だとは思っていないがご丁寧に漢字まで教えてくれた。


「一週間な」


手元の携帯に目をやりながら紅崎がぽつりと呟く。


「そんなに時間はない。本当は三日って言いたいとこだけど、まぁ協力してもらうわけだからね。伸ばすよ」


こいつらがいつから張り紙の主を探しているのかは知らないが、この人数の男で見つけられない奴を俺一人が一週間で連れて来られると本気で思うのだろうか。


「まだやるとは言っていないけど。そちらがわかっていることは?」


手帳を取り出して紅崎を見る。

弾みで落ちた煙草の箱が紅崎の足元に転がった。


「目を付けている奴がいる」


「その疑惑の人物に接触は?」


紅崎が正面を向き、鼻から少しばかりの溜め息を吐いた。

痩せた首に浮く突き出た喉仏が微妙に上がる。


「そいつがどこにもいねぇから詰められない。俺としてはそいつを捜して追い込みかけるべきだって思っているけど、上が張り紙の犯人を探せって聞かねぇんだよ」


派手な風貌とは対照的に、紅崎をはじめ車内の男たちは一様に大人しい。

ピリピリしていて誰も口を利かないと言うより、話すことが億劫なほど疲弊しているといった印象があった。

車に乗り込んで初めて紅崎が俺を見る。


「雨宮さんもコイツのことを知っておいてくれ」


紅崎はそう言って俺の手元に一枚の写真を乗せた。

二人の女が並んで写っている。

笑っているのにこの二人が決して仲良しではないことが何となくわかる不思議な写真だった。


「右の女。名前はジョナ。コイツを必ず連れて来いって言いたいわけじゃない。確かなら小さい手がかりでもいい」


「……ジョナ?」


「外人じゃねぇよ。生まれはあっちらしいけど」


「この、ジョナという女性はいつ頃からいなくなったの?」


紅崎の奥で流れる車窓からの景色を見るに、さっき教えた最寄り駅へ本当に連れて行ってくれているようだ。

飼おうとしている俺の住所を無理に聞き出そうとしない辺りからも、人の手綱を握ることへの慣れを感じていた。

自由を拘束すれば利用したい犬は隙をついて反発することを知っているらしい。


「最後に仕事をしたのは五月の第二週だから、一ヶ月くらいは見てねぇな。どのタイミングで消えたのかは知らないけど張り紙が出た頃にはもう部屋にはいなかった」


「ジョナねぇ」


「そいつの住所も教えておく。通っていた大学もわかっている。そういう所から辿っていってクレジットカードの使用履歴だとか携帯での通話履歴だとかを探ったりできないかな」


この若造はフリーライターを何だと思っているのだ。

こいつらにとって記者はスパイと同格なのかもしれない。


「君らが何者で、あの張り紙は君らにとってどういうものなのかは聞いてもいいのかな」


「それを知らなくてもジョナも張り紙を貼っている奴も捜せるだろ。今日みたいに歩き回ってパトロールしていればいいんだからさ。それに知らない方がいい」


紅崎が脚を組み変えるついでに足元に転がっていた煙草の箱を拾った。

俺に差し出し、目の下を暗くした顔を向ける。


「言うなら嫌煙家の集まりかな。だから俺らと会っている時は絶対に煙草を吸わないでくれ。会う前もな」


頷いて煙草を受け取り「捜し出せなかったら俺はどうなる?」という質問を飲み込んだ。それも知らない方がいいのかもしれない。


運転手のトライバルタトゥーの坊主が低い声で「着いたぞ」と言う。

誰かがスライドドアを開け、喧騒と光りが車中に流れ込む。


「用がある時はこの番号に電話してくれ。こっちからは非通知でかけるから携帯の拒否設定は外してね」


黒字で番号だけが印字されたプリペードカードのような硬い紙を渡され促されるままアルファードを降りた。

ドアに手をかけると紅崎が携帯の画面から目を離して俺を見た。


「アヤカシって雑誌でよく仕事しているみたいだね。雨宮さんがばっくれたらとりあえずこれの発行元に行けばいいわけね」


だから情報社会は嫌いだ。

脳みそや心臓を剥き出しにしなければ仕事ができない監視社会も嫌だ。


「進捗状況の報告は三日後」という言葉を最後に残し、紅崎を乗せた黒いアルファードが唸りをあげて去っていった。

ハーフパンツのポケットで折れている前金の一万円が禍々しいものに感じてしまう。諭吉が言ったことは嘘だ。

飼い主と犬という上下関係がなければお前は俺の財布にやって来ないじゃないか。

携帯を取り出し桐瀬へ電話をかける。

今まではメールでのやり取りに限定していたというのに、どういう風の吹き回しか番号の交換を持ちかけてきたのだ。


「お疲れ様です。私も今報告をしようと思っていたところでした」


外にいるのか桐瀬の声とともに風が通話口にぶつかる音が聞こえる。


「こっちも話さなきゃいけないことがある。緊急だ」


「わかりました。事務所で落ち合いましょう」


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