六月九日


「話が怪談どころじゃなくなってきたな。どうやら放火少女とアスミには明確な関連があるようだし、桐瀬さんの分野だね」


「そうみたいですね。北橋界隈という共通点は社会的なネタです」


俺の返事がないことから察したのか、桐瀬が手帳の上を滑らせている手を止めた。


「北区にある山手線の終点に当たる駅付近には、学校や家庭から逃げてきた子供達の終着駅になぞられ、少年少女の集いの場と化している一帯があります。北口改札を出て右手にある橋なので、彼らからは正式名称ではなく北橋と呼ばれ、そこを北橋界隈、集う子供達は周囲から北橋キッズと名付けられています。以前別のライターが現在仕事を請けている実話誌で記事にしていました」


「要するに徒党を組んだ非行少年達のことか。それが消音器を抜いたバイクを走らせるなら暴走族になり、アメ車をローライダーにカスタムしてホッピングさせていればギャングってことだろう? 特定の場所にたむろするなら渋谷によくいたチーマーが近いのかな」


どちらからともなく公園を出て駅方面へと歩き出す。


「いえ、一般的な不良集団のような暴力性は低い傾向にあります。反抗挑戦的な行動は目立たず、メランコリーな特徴を持っているので、同じ非行でも暴走族などとは一線を画すコミュニティですね。自傷的な破滅型タイプの集団という認知が適するかと思います」


改札を抜けて溢れ出してきた都民の群れを見据えながら、桐瀬がそう説明を終えた。信号が赤になる。


「売りについては? 前からその界隈で横行していたの?」


言いながらそうだろうなと思う。

援助交際という一つの市場は若者がポケベルを鳴らしていた遥か昔から横行していた、雑踏に輝く伝統的な商売だ。

特に未成年という若い肉体はもう触れるチャンスを失った中年層にとってハイブランドの象徴と言っても過言ではなく、勝手に高値をつけてくれるのだから少女達は価値がなくなる前に若さを金に換えようと次々に参入してくるのは必然で、それが若者だけの集団内で流行らないはずがない。

ここまで明確で単純な利害の一致が法律を掲げただけで淘汰されるなら殺人だって稀有な犯罪にすることができるだろう。

コミュニケーションツールが手紙からメールになりアプリやSNSと根本を残して変わっていくのと同じく、男女の金銭援助の実態も名や質を変えつつ社会の隅で脈打っているのだ。


「北橋キッズは特に高額を求める傾向にありますので、ただ食事するだけのマイルドなパパ活とは毛色の異なった、よりディープな交際が蔓延しているようです」


信号が変わると向こう側の人の塊がボロボロと崩れて同じく崩れていくこちら側の塊と中央で混ざり合う。それは人波になる。


「北橋の売春が組織化されているっていう話は桐瀬さんのとこには入っていないみたいだね」


「友島さんの談にあった勧誘という点からそんな想像をしただけであって組織があるというのは聞いたことがありません。ただ、友島さんと一緒に来ていた赤い頬のふくよかな学生が他の学生と異なりパパ活について知らなかった様子を見ると、アスミさんは手当たり次第ではなく稼げそうな女の子を選んで声をかけていたと考察できます」


校内放送に似た話し方で「北橋キッズはよくないバイトをしていると聞く」と会話に入ってきた恰幅のいいあの女を思い出す。

美醜云々はともかく、男が高額を叩いて選ぶ商品にはなりえない雰囲気は確かにあったと感じる。


「つまりアスミが個人で売春をしているなら自分の客をとりかねないライバルを界隈の外から引っ張ってわざわざ増やすようなことはするはずないと。イコール働き手の欲しい女衒ぜげんの影を感じるわけだ」


「そうなりますね。オーナーという言葉もあったようですし」


もはや俺が扱う分野の話ではなくあまり頭が回らない。

その上新言語のようなイマドキ語が介在すれば得意ではない整理がさらに複雑化してしまう。俺は俺のテリトリーで動くが吉だ。

矢印と化している桐瀬の足先が駅を逸れてパーキングエリアの方角へ向いた。

無言で立ち止まって気配を途絶えさせても関心を示さず行ってしまいそうなので斜め背後から断りを入れる。


「とりあえず俺はせっかくだし張り紙について調べてみるから、桐瀬さんだけ先に戻って」


数歩先で桐瀬が体を斜めにして振り返った。

敵と対峙するような姿勢に見える。

桐瀬が俯くように頷き、顔を上げた反動で片目を覆った前髪を分ける。

その時、薬指が陽光を小さく反射した。

一瞬の光はまるで存在を伝える声のようで、認知さえすれば薬指を抱き締める細い輪がシンプルな結婚指輪であることがわかる。

露骨に目を丸くしたが俺の微妙な表情の変化に桐瀬は関心がないようだ。

その目は俺だけではなく、俺の背後で揺れ動く泥水のような都会の風景も一緒に見ている。


「本腰の取材をしますか? それなら一度帰社するので、牛鬼と平行する旨を編集長に報告しますが」


「……あぁ、じゃ一応ページもらえる前提で動いてみる」


「わかりました。私は近々北橋界隈へ向かいます。新しい情報が入り次第メールします。今日はお疲れ様でした」


見習いたいくらいの淡白さに会釈をすると珍しくそれを見届けて桐瀬が俺に背を向けた。

咄嗟に声が出て呼び止めてしまう。

もう一度振り返った顔には煩わしさも疑問も内在していない。


「あの、桐瀬さんって結婚しているんだっけ?」


「いえ」


「あ、そう。いや、不躾に申し訳なかった」


「あぁ、指輪ですか」


そう言って左手を宙にかざして、まるで自分でも今気付いたような素振りを見せる。それでも、俺には桐瀬の顔に温もりと言えるような体温が浮かんだと思えた。


「うん。俺も尾川編集長から桐瀬さんが俺と同じくバツが付いていることを聞いていたから」


「未練なんかじゃないです」


そんな誤解はしていない。

否定しようと口を開いたが喧騒に押し退けられ届かない。

桐瀬に踏み込んでいる負い目が声量に表れているのかもしれない。


「戒めみたいなものです。たとえばどれほど心に刻んでも毎日が移り変わっていけば見えなくなってしまうことがあるでしょ? そしてふとしたきっかけで思い出したりする。時々苦しむだけなんて、そんなことは許されないと信じているから、一瞬でも目を背けないために未だに薬指にこれはあります。具体的な説明ではなくてすみません」


固い表情のままそう言って目を伏せた桐瀬が、俺の知らないどこかで笑っている。

渡された美しい指輪を黒目に反射させ、同じ指輪を嵌める相手と人生を捧げ合うことに笑みを溢しているのだ。

その幸福の記憶が戒めへと変わった時、桐瀬は笑顔を置き去りにしたのかもしれない。指輪を戒めに変えた何かが、指輪に向けていた笑みというものを許さないから。

笑わないのではなく笑えないのだ。

強く息を吸う。

相手に自分の声をきちんと届けたいと思ったのは何年ぶりだろうか。


「いつか外させる時がくることを勝手に願うよ」


桐瀬は頷いて、ありがとうございますと言ったのかもしれない。

さっきの俺と同じく、桐瀬の声は街の渦に飲み込まれてしまうほど小さかったのだ。

それじゃ、と簡単に挨拶をして背中を向ける。

空は青く、だけど渇いていた。

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