第4話・六月九日


「台東区の不気味な張り紙なら、今のところは扱っている媒体はないと思います。

出てきてから日も浅いですし、SNSで騒がれているといった具合です」


第一京浜を新橋方面へ走るトヨタルーミーの車内で、ハンドルを握る桐瀬がフロントガラスに対してそう言った。

品川を出発して数分で話すことがなくなり、間を繋ぐため向かっている台東区に関する話を振ってみたが、これも続かなそうだ。

助手席のシートを倒し、窓から初夏の青空をぼんやり見る。

海に似た空が大脳辺縁系にある海馬のスクリーンになり、尾川のシワの深い笑顔が映った。

それは三日前の意地の悪い笑みだった。


品川に私用があったついでにプロダクションに立ち寄り簡易的な応接間で尾川と薄いコーヒーを啜った。目的は怨霊トンネルについての中間報告だ。

A氏から衛藤に行き着き、別件の放火少女の現場で聞いた牛鬼というワードを、怨霊トンネル内で異常行動を起こし現在は行方知れずにあるアスミが口走ったという情報まで詳細に報告した。

怨霊トンネルの話を持ち込んだ当初は消極的だった尾川だが、その関連と付随する牛鬼様という降霊術ゲームに食いつき、アヤカシで数ページの特集を組むとまで言い出した。そこまではいい。

“さしあたり……”

尾川からこのクッションが出た時は俺が嫌がると予想していながら強制させるつもりの目論見を話す時だ。

さしあたり来週のコンパの女子集めは雨宮が動いてくれ。

さしあたり新歓のパフォーマンスは雨宮に任せる。

大学時代から度々突きつけられた銃口だ。


「さしあたり担当編集は桐瀬にしよう」


尾川の笑顔にあえて真顔を向けた。桐瀬のように。


「放火の件は桐瀬のネタだったろ? リンクするところがあるなら組んだ方が都合いいじゃねぇか」


「そう、それ。桐瀬さんはライターとしてここにいるんじゃないんですか?」


「桐瀬が所属しているのはバイトだらけのプロダクションだ。そういうことだ」


そういうことだ、が頭に木霊し、三日前を映したスクリーンが都会の青空に戻っていく。雲のない分厚い群青色。


桐瀬が担当に決まってすぐPCメールで短いやり取りをし、手始めにアスミの友人を当たるため上野へ行くことが決まった。

衛藤を経由してもう一人の後輩にアポを取り、アスミの友人を何人か集めてもらえた。手短でいいなら講義前に話ができるという。

俺を運んでくれるメタリックシルバーのボディをした桐瀬の愛車ルーミーが待ち合わせの、プロダクションが入ったテナントビル専用駐車場にやって来た今朝、放火現場以来の再会だった。

ばつが悪い俺とは対照的に桐瀬には嫌々な素振りはなく、かといって協力関係を築こうとする姿勢もない。

桐瀬と俺は間逆の理性と本能みたいなものだ。

尾川は俺たちが仲良くやれると本気で思っているのだろうか。

相補関係を狙っても、それは本人同士が望んでいなければ成立しない。


「その張り紙だけど、規則性はあるの?」


衛藤から情報が提供された台東区の張り紙。

桐瀬に問いながら携帯で検索をかけてみると、数多くの情報がヒットした。

B6サイズの黒紙に白で人間の瞳が描かれた張り紙の画像が何件も出てくる。

黒目部分に相当する中央には赤で描かれた鳥居らしきマークがあった。

全てパソコンで描かれているようだ。


「いや、私も詳しくは。気になるならお調べになってください」


「ファンからの情報提供だからなぁ、まぁ扱うつもりで撮ってみるか」


赤信号で停車するとハンドルに上体を預けて桐瀬が俺の足元を見た。

D4入りのカメラバッグを睨んでいる。


「つもりでも撮るんですね」


またカッターの刃をちらつかせる。

桐瀬の言葉はチクチクなんて擬音を使う針ほど可愛いものじゃない。


「放火の女の子の写真のことまだ根に持っているわけ?」


「いえ。ただ使わないのにどうして撮るのか不思議なだけです」


まだ昇りきらない太陽が斜めから光を車内に降らせる。

桐瀬の白い肌が際立って余計に眩しい。

愛嬌さえあれば、鼻の小さな美人だと素直に思うのだろう。

眉を濃い茶色でかいていることを初めて知った。


「現場で被写体を狙うと指が勝手にシャッターを切っちゃうんだよ。子供だとわかった時点でお蔵にすると決めていてもね」


「案の定SNSであの時の画像や動画は出ていますよ」


「だろうな。あれだけ野次馬がいればな」


青信号になり滑り出したルーミーの前に、タクシーが強引に割り込んだ。

桐瀬はクラクションも鳴らさなければ舌打ちさえしない。

俺だったら窓を開けて怒鳴っている。


「どんな犯罪者でも未成年だったら扱わないという信条でもあるんですか? それは更生の邪魔になるからですか?」


「この業界に長くいて、子供だろうが大人だろうが救いようのない化け物くらい少しは見てきた。被害者は連中が真人間になるための糧として産まれて、その日まで生きてきたわけじゃないから更生のためだとかはちょっと違うかな」


「そう思っていて、どうしてあの少女のプライバシーを守りたいんですか?」


「見世物にする必要はないんだ。あくまで事件を偏りなく正確に伝えて世論に齟齬そごを生まないことがマスメディアの存在意義なんだから、放火して自殺しようとする子供の写真を客寄せパンダにして金を生もうとするなんて倫理に反している」


「客寄せパンダとは暴言です。我々は数多のメディアと常に競争する立場にあるわけで、血を吐く思いで取材を重ねどこよりも正確に偏りのない記事を書いたとしても売り出し方に遅れをとれば誰の目にも届くことはないんです。時には心を捨てて非情になる覚悟がなければこの業界では戦っていけません。雨宮さんは理想主義者です」


桐瀬の横顔の向こうで流れている街並みが、桐瀬の淀みなく放たれる言葉のように、無表情のまま高速で現れては消えていく。

桐瀬の扁桃体が雨宮洋峰は不快だと伝えるシグナルを発しているのがわかった。

接する海馬はそれを記憶に刻み続けてきたのだろう。


「あの時の野次馬の高揚を見ただろ? 世の中が既に非情なんだから、媒体の俺たちまで心を捨てる必要はないだろう。残酷さを娯楽にする連中に迎合する気は俺にはない。そんなに娯楽を売りたければ美味い飯屋だとか納涼に一役買う怪談を書けばいい」


「おっしゃる通りですよ。世間にとって人の不幸も罪も対岸の火事の娯楽です。痛みも苦しみも涙も血も虚しさも自分の身に降りかからなければ生々しくても所詮はフィクションです。世間が残酷で非情だからこそ、こちらも非情にならなければ受け入れられず真実は淘汰されていきます。雨宮さんは記者に不向きだと思います」


「何とでも言えよ、バーカ」


桐瀬と同じ景色を見るのも嫌で窓の外に視線を逸らした。

街路樹に守られた歩道を女子中学生が二人組みで歩いている。

男の子並みに髪の短い子と、ポニーテールの小柄な子だ。

その初々しさが娘の祢桜ねおと重なる。

あいつも今年から中学になった。

せめて入学式の写真くらい欲しいと思い、そして祢桜におめでとうと言いたくて、久しぶりに元嫁に電話をしたらとっくに番号が変わっていた。

いつの頃からか面会日もやってこなくなった。

それは元嫁の意地悪ではなく、祢桜が面倒になり拒否し始めたのだと思う。

年頃になれば近くにいたって離れていくのに、離れた状態ならいずれ他人になってしまうのではないかと恐くなる。

そんな愛娘の祢桜がもし選択を誤り重大な事件を起こしたとして、世の中の残酷さにさえ罰せられることになったら、俺はきっと娘と共に真摯に罪と向き合い切れないだろう。人食い熊を射殺するのは奴等が罪を認め良心の呵責という永遠の罰に苦しむことがないからだ。全てとは言えないが、それでも多くの人間はそうじゃない。

いくら洗ってもとれることのない自分の手の汚れに気付き、己を恥じて後悔することはできる。それが刑罰より強く刻まれる罰であり、罪人が正しい形で苦しみ続けることが間違いに巻き込まれた全ての人の、少なからずの救いに繋がると思う。

そこに至る過程で残酷さに罰せられてしまえば世を逆恨みし罪と向き合うことなく形式的な罰だけを受け世に帰るか世を去っていく。

だからもし娘が罪人なんかになったら、罪という被害者の悲痛に向かう機会を奪って欲しくないと思う。必要とする更生を目指すのは被害者を材料としないその後だ。


子を持つとどうも性善説を信じたくなってしまう。

考えると、同じ離婚経験者だという桐瀬に子供はいるのだろうか。

もしいるならいくら逆でも少しばかりは共感するのか。

そもそも離婚原因は何だ? この性格か?


「あのさ、事故物件って言われたことある?」


桐瀬は答えなかった。


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