六月三日
水に濡れて黒光りするアスファルトに腰を下ろし煙草をふかす。
乱反射するランプが白いはずの煙草の紙を赤く染めていた。
少女を乗せた救急車が飲み屋街を出て行ってすぐ、燃えていた雑居ビル三階の鎮火も終わり、それで興が冷めたのか猛り狂っていた雑踏は霧が晴れるように徐々に離散していった。
揉めた警官ももう見当たらない。
まるで飼い犬の小便を待つ表情で桐瀬が俺を見下ろす。
「来ていただいてすみません。緊急だったのでカメラマンの藤橋さんを捕まえ損ねました。写真は買います」
涼しい眼がいつにも増して無機質で、何となく無言の抗議を感じた。
いや、軽蔑かもしれない。
若い連中より先に騒ぎの中で騒ぎを起こしたのが一丁前なカメラを持った中年だったのだから仕方ない。
わざわざ止めに入ってくれたのは意外だったが、それはD4の中にある写真のためだと気付き納得した。
俺があのまま公務執行妨害で連れて行かれでもしたら、記事の材料を失うのだ。
「あの子、大丈夫だった?」
自分の声が酷く掠れている。久しぶりに大声を出したからだ。
「設置していたマットの上に落ちたようです。担架の上では意識はありませんでした。私には屋上で気を失って転落したように見えました」
音声でメモを取っている風の、抑揚の乏しい返答だ。
見上げると少し鹿に似た横顔が遠くを見ていた。
「しかし物騒だね。あんな年端も行かない子が火をつけるなんて」
「今回と類似した事件は以前から何度かあって、最近の取材対象でした。今回のように火事を発生させるほどの大事はなかったですが、若者、特に未成年者のヒステリー事件は都内で頻発しています」
「悪いけど、現時点でわかったこと教えてくれないか?」
「まぁ概要程度ですが、それでよろしければ」
そう言って刑事がよく持つ黒皮のハンドブックをスーツパンツの尻から取り出すと、俺から少し距離を空けてしゃがんだ。
「オリジンビル三階のダーツバー“スティング”に女性は午後八時頃グループで来店。ゲームを始めて一時間程経った後トイレへ入る。その際に叫び声を上げ、スタッフが様子を見に行くと蜘蛛が出たと言ってパニックになる。蜘蛛が大の苦手であり泥酔状態だったことも相まっての過剰な反応だとみられる。その後店内のソファでしばらく横になるも突然起き上がり、店内が蜘蛛だらけだと再びパニックになる。周囲の制止を振り払い、罰ゲーム用の大量に注文していたウォッカをばら撒きライターで着火。ソファからカーテンに引火し全員が避難。女性は店外に出ても蜘蛛が大量にいると逃げ惑い、オリジンビル向かいの六階建て雑居ビル屋上へ上る。仲間が追いかけると手すりを越えて支離滅裂な発言を繰り返した」
メモをなぞるペンの動きが止まる。
思案するようにさまよっていた桐瀬の目が俺に向いた。
「それと、これはまぁ何というか。他のヒステリー事件でも時々耳にしたことだったのであまり掘り下げなかったのですが……。周辺の若者達が口々に“
どこからか耳へ入ってきた声を思い出す。
あの騒がしさの中、やけにクリアに聞こえたのだ。
「それは俺も聞いた。……他の事件でも聞き覚えのあるワードだったのにどうして詳しく調べなかったの? 関連性があるのに」
「いつも要領を得ない返答ばかりだったので流しました。今回は少女の放火に自殺未遂というセンセーショナルな部分がはっきりしているので拘る必要はないかと。
まぁよくある返答は【顔を真っ赤にして興奮している】ことを牛鬼状態と言うというものです。新しい若者言葉でしょうか。一応ネットで調べてみても、あの蜘蛛みたいなお化けしかヒットしません」
零れそうな目玉を見開いて鋭い牙を剥き出しにする蜘蛛の体をした鬼が頭の中に浮かび上がる。
「蜘蛛の体をしているのは妖怪絵巻に描かれた姿で、地方によって頭が牛で体が鬼だったり、その逆もあったり、羽が生えていたり、蜘蛛に限定はできないよ」
煙草の火を消すため履き潰したシューズの裏に擦りつける。
桐瀬の手前、吸殻はハーフパンツのポケットに入れた。
「女性が蜘蛛を見てパニックになったことと蜘蛛の体をした牛鬼とは関連性がなさそうですね」
「いや、まぁ関連性がないとまでは……。牛鬼が何のことかもよくわからないし。桐瀬さんはこの件どうする気なの?」
「もう少し深く調べて、原稿を上げようと思います。牛鬼に関しては……どちらかというとアヤカシ向きじゃないですか? 若者のオカルトじみた流行り言葉として紹介してみるのも面白いかもしれません。まだ怨霊トンネルに代わるネタを見つけていないなら、雨宮さんどうです? 他にも色々集めて雨宮さんのコラム形式で一ページ。イラストをご所望なら私が」
背筋を伸ばしたまま音もなく立ち上がって、桐瀬が軽い伸びをする。
どのタイミングでやってしまったのか、俺は腰を曲げないと痛くて立ち上がれなかった。
「それはまぁおいおい。……あの女の子、多分、未成年だろ? 今の得意先で記事にするのか?」
「放火しての自殺未遂ですから、報道もされるし新聞にも載ります。気を遣っても仕方ないですよ。それよりもっとコアな情報を掴まないとニュースの二番煎じになってしまいます」
桐瀬の言う通り辺りには報道カメラマンや新聞記者などのマスコミの人間が散在していた。
ニュースではきっとあの野次馬の中の誰かが面白半分で撮っていた動画を、視聴者提供と称して繰り返し全国に流すのだろう。
動画サイトにも流出し、インターネットでは個人特定合戦が始まる。
名前が出て、写真が出て、学校や住まいまで白日の下に晒される。
キーボードを叩く彼らは悪党を丸裸にしてリンチする嗜虐性を正義感に置き換えて
マスコミは、それをまた利用する。
溢れる情報は汚泥なのか、それとも次世代の抑止力なのか、アナクロな俺には変わっていくステレオタイプを批判する権利も肯定する柔軟性もない。
だから俺に残された従うべき定規は、誇りに恥じないというシンプルなものなのだ。広めるべきじゃないものは絶対に扱わない。
それでたとえ、ゴミ箱行きの人間と成り果てても。
「それなら何も誌面に載せる必要はないんじゃない? これからの取材はあの子の親も、あの子自身も傷つけることだから」
桐瀬の切れ長の目が冷ややかに細くなる。
目は口ほどに物を言うという言葉をそろそろ教えてあげたい。
「まるで素人みたいなことを言いますね」
斬り返された言葉に重厚な鋭さはない。
ただ明確にヒリヒリと痛む具合にはパックリ斬られる。日本刀よりカッターだ。
「何とでも言えよ。どこよりも誰よりも生々しい情報を集めることに躍起になって、情報に付随する人達への責任を蔑ろにするのがプロなら、俺は素人で結構」
「だから怪談でもデタラメを書くんですか? 作家の道をお勧めします」
一歩も引かない桐瀬に不覚にも少したじろいだ。
顔を殴れば光の速さで殴り返してきそうだ。
「そのダーツバーを洗った方が良いネタ見つかるかもよ。あんな誰が見ても子供だってわかる女の子に酒飲ませているんだから」
「そんなお店都内に腐って溢れかえっています」
ピシャリと言い放ち桐瀬が踵を返す。
何かを言いかけてやめた。どうせ振り向きはしない。
女傑の背中は現場の慌しさの渦へ入り、やがて見えなくなった。
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