六月三日


煙草に火をつけた直後にPCテーブルの上の携帯が鳴った。

シャワーでずぶ濡れにしたばかりの裸体から薄汚い水が滴っている。

タオルもドライヤーもないので風呂上りは常に自然乾燥だ。

携帯の画面に気を遣いスピーカーで応答する。

尾川だった。


「今どうしてる? 仕事中か?」


「あ、いや。部屋に帰って来たとこです」


まさか昼過ぎに起きてから二度寝をし、日暮れに目を覚ましたとは言えない。

尾川が短く息を吸う。


「雨宮はカメラ扱えるよな? 悪いけど今から言う所に至急向かって、現場にいる桐瀬の指示通り撮ってきてもらいたい」


「桐瀬さん? 何のサポートですか?」


「女が屋上から飛ぼうとしている。雨宮のアパート近くの繁華街だ。桐瀬は依頼されている実話誌のネタで使うために急行した。頼む」


この前は都内のカフェを特集するWeb記事を担当していたのに、今はアングラな実話誌とはかなりの振り幅だ。

同じ赤色でもトマトジュースと血液くらいの違いがあるぞ。

詰め込むように正確な場所を告げた尾川から一方的に電話を切られると、渋々着替えをしてカメラバックを手に取り部屋を出た。


六月の夏を待つ生ぬるい空気が濡れた肌にひやりと張り付く。

現場は近所にある京急線の駅改札を西側に出て合流する大通りだという。

自転車をゆったり漕いでもせいぜい十分程度の距離だ。

高架下で拾った不法投棄のロードバイクに跨り出発する。

ライトは付けたが壊れたブレーキは直していない。鍵もない。

錆びたロードバイクを駅方面の歩道までギシギシと軋ませた所で夜気を包むサイレンと人の気配の騒々しさが肌と耳に届いた。

それは自殺志願者一人に対しての熱量にしては異様だった。

その異様な雰囲気は国道沿いに差し掛かった際に見えた空の、入道雲に似た煙と過ぎていく車が連れてくる焦げ臭さが作り出している街の躁なのだと知る。

シャワーを浴びても色褪せたままだった脳みそが生気を取り戻す。

付近の混雑を見越して何かの施設のフェンスにロードバイクを捨てるように倒すと、息つく間をあけず交差点へと走った。

西側の改札前を横切り、人波を縫って、ドヤ街への道標とも言うべき路肩のタクシーを追い越す。

右手に現れたコンビニの角を曲がった先で通りを塞ぐ形で横に伸びる野次馬の最後列とぶつかった。

高さの異なる頭の山の向こうに窓から黒煙を噴く雑居ビルが目に入る。

幸いにも火の手はビル全体に回ってはいないようで、火が出たのであろう三階付近のみが邪悪な様相を見せていた。

周囲に乱立する携帯の画面で細切れにされた景色の中、警官は群がってくる人々を厳しく制している。

群衆はさながらライブ会場のオーディエンスだった。

大半が酔客のようで、感覚的には駅の祭りと相違ないのかもしれない。

誰かが叫ぶと、誰かが呼応するように高笑いを発す。

警官の怒声が喧騒に虚しく散っていく。

概要を把握するため一度脇に逸れ、シャッターに寄りかかりつまらなそうに煙草を吸う呼び込み風の茶髪を捕まえた。

出火原因を聞くと俺から視線を外して明後日の方を指さす。


「あの女が火つけたらしいっすよ」


見ると火事が起きている雑居ビルの斜め向かいの建物周辺が騒々しい。

火事に背を向け、レスキュー隊員と警官が建物を見上げていた。

その視線を追うと、屋上の手すりの外側に人影を見つけた。


「え、あの人は何を?」


「何をって、死ぬんじゃないですか」


屋上の女が下へ向けて何かを叫んでいる。

手を払う動作からして「どけろ」と喚いているらしい。

辺りから「飛べ!」と声が投げられる。

どこかで笑いが起きた。

どうやらこの野次馬の目当ては火事ではなくあの女のようだ。

そして俺の被写体も、どうやらあの女のようだ。

バッグからカメラを取り出し、ズームレンズを装着すると拳銃のように胸に構えて呼吸を整える。

記者時代の相棒であるニコンD4の寡黙な重みに鼓動が鳴った。

意を決し踏み込み、人の塊の僅かな隙間を探して前へと進み出ると

フィジカルを強めるため肩を怒らせ、強引に野次馬をかき分ける。

どうしたって体は衝突するため注意するのは前方ではなく足元だ。

興奮した人ごみの中で転倒すれば最悪死んでしまう。

定めた角度に適する位置へ到達するとD4を構えファインダーを覗く。

ズームした屋上の女は、女というにはまだ幼すぎる少女だった。

まだ完成されていない薄い体に精一杯背伸びをしたファッション。

あどけない泣き濡れた顔で、裸足のまま夜空に浮かんでいる。

高校生か、もしかしたら中学生かもしれない。

飛ばないでほしい。そう強く願いシャッターを切る。


「牛鬼にやられたんじゃないかな」


少女の挙動を逐一切り取ってD4へ収める最中、どこからか聞こえた声にシャッターを切る指を止めた。

するとその瞬間の隙つくように警官の一人がレンズを手の平で覆い、下がれと声を荒げた。レンズに警官の手の油がつく。

「触るな」と怒鳴り、警官も何やら言い返して俺の体を強く押す。

頭に血が昇り警官の帽子を叩き落とすと掴み合いに発展した。


周囲で歓声と拍手が上がる。世界中が騒ぎだしたかのように空気が揺れた。

「やれ」「飛べ」「死ね」「殴れ」

火と死と暴力が渦を巻いて狂気という生命体となり、咆哮する。

強張った俺の腕を誰かが引く。桐瀬が目を剥いて俺を睨んでいた。


一瞬、周囲の音がブツリと消える。少女が飛んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る