応援コメント

前編 八戸藩主・南部信順(なんぶのぶゆき)」への応援コメント

  • 幕末好きですが奥羽越列藩同盟については詳しくなく

    このようなことがあったのですね

    作者からの返信

    奥羽越列藩同盟のあたりは、幕末の最終局面で、後世の視点からすると、すぐ無くなってしまったという印象があって、それであまり注目されないのでは、と思います。

    さて、激動の東北の中、なぜか島津の人がいた……という嘘みたいなホントの話があって、珍しく思って、書いてみました^^;

    ありがとうございました。

  • 拝読致しました。
    二十六人の子供!?
    まずそこに引っ掛かってしまいました(^_^;)
    信順さんのおままごとみたいな結婚、どんな風景だったのだろうなぁ。
    南端の鹿児島から北端の八戸に行くのだって、気候的に大変だったでしょうに。
    それでも、薩摩隼人として、というより堅実な藩主として行動している雰囲気が伝わります。
    時代のうねりの中で、どんな行動をとって、どんな結末を迎えるのか、楽しみです(・∀・)

    作者からの返信

    島津重豪って、相当な性豪だったと知られているんです^^;
    まるで徳川家康のように、たくさん子どもがいました(笑)
    そしてこれも家康のように、養子や婚姻で外交を進めていき、その中で信順も八戸へと行かされました。

    信順の行き先が八戸だったのは、先取になりますが、昆布をはじめとする、北海道の物産の移送ルートを念頭に置いていたのでは、と思います。
    いずれにせよ、信順が南北大移動をさせられたのは、相当なことだったと思います^^;
    さて、この信順、幕末、しかも東北というシチュエーションで、いかなる動きを見せていくのか。
    お楽しみいただければ幸いです。

    ありがとうございました!

  •  うわっ

     難しい立場ですねぇ。あちらを立てれば、こちらが立ちません。

    作者からの返信

    佐幕や維新といったスタンスはあるでしょうけど、いかんせん、中央から遠い。
    錦の御旗を掲げたら、周りから攻められる。
    かといって奥羽越列藩同盟に加わったままだと、新政府に責められる。
    なかなか難しいところです。

    ありがとうございました。

  • お久しぶりです。

    中国大返しのほうは、

    明日から読みます!


    年賀状で昨日は躓いて…

    作者からの返信

    お久しぶりです。
    お星さま、ありがとうございます。

    中国大返しのお話もお読みいただけるとのことで、ありがたい限りです。
    何かと忙しい歳末なので、お時間のある時にでも、息抜きにお読みいただければ幸いです。

    年賀状、私も悪戦苦闘しております^^;

    ありがとうございました!

  •  こんばんは、御作を読みました。
     北と南の藩にこんな交流があったなんて……。
     そう言えば、秋田県は親官軍だったと改めて認識しました。興味深く面白かったです。

    作者からの返信

    お星さま、ありがとうございます。

    島津重豪としては、金の卵である昆布の輸出(琉球経由、清行き)のために、北のこのあたりを押さえておこうという意志があったのでは。
    ところが維新回天の流れが、よりによって薩摩を源流のひとつとして、大きくこの国を洗い、それが今、北の八戸へと至ろうとして……^^;

    秋田県はこの時、維新側に立つと旗幟を鮮明にしました。
    しかしその結果、戦場と化してしまうという運命に。
    南部信順はこれを危惧して、あまり島津との接触を持とうとしなかったのでは……と思います。

    ありがとうございました。

  • この時期の東北各藩の大名も頭が痛かったでしょうね。
    南から迫る新政府軍の足音が迫る中、わざわざ北の方八戸まで押し寄せても背中から撃たれることになりますから。

    というのは後世の知恵で、南部信順さんは胃がキリキリしたことでしょう。

    作者からの返信

    何で島津がいるんだよ。
    ……それが東北諸藩の心の声だったでしょう(笑)
    それは南部信順も同じで、「何でおれがこの時代のこの情勢の東北に」と思ったことでしょう。
    どっかの藩の大名みたいに脱藩しても良かったかもしれませんが、信順の凄いところは逃げずに対処していくところにあります。
    おっしゃるとおり、じゃあ八戸攻めるかとなっても、薩摩が南からやって来るのがわかってるし、その状況により、にらみ合いレベルで何とか済まそうと……。
    うん、胃腸薬が必要ですね(笑)

    それと、近況ノートへのコメント、ありがとうございます。
    南部家ってホント江戸時代はアレでしたね。
    ここで信順が養子に入ったことにより、そういうしがらみから多少は自由になれたことが、八戸の運命を変えたのかもしれません。

    ありがとうございました。

  • この時代に薩長ではなく、南部信順から見た、この激動の時代。
    さすが四谷軒さま、面白いです。
    続きをお待ちしています。

    作者からの返信

    マイナー好きな私としては、薩長よりも、あまり知られていない人を書きたいと思い、南部信順をチョイスしました^^;
    激動の時代ですが、この東北の小藩にもその波が押し寄せるあたりに、その激動の凄まじさが分かるような気がします。
    お楽しみいただければ幸いです。

    ありがとうございました。

  • 2と26・・・実話ですか!?
    まさに養女をもらった気分

    作者からの返信

    実話だから困る、という奴です^^;
    実際は二歳の子との話なんで、約束しただけで、実際に婿入りしてなくて、ちゃんと年齢を重ねてから結婚したそうです。
    でも、二人の間に子はいなかったみたいで、そこは信順がわきまえていたからだと思います。

    ありがとうございました。


  • 編集済

    面白い人物・時代・場所に目をつけられましたね~。
    こういうネタをどこで探して来られるのか感服です。

    島津重豪は開明的な藩主として知られるが、同時に性豪としても知られる。
    ← あ、やっぱり?! と思いました、血は争えないなあと。

    かつて拙筆を顧みず、ただただ妻を追い出した男への義憤に駆られ(笑)島津家久の正室・亀寿姫の物語を書いたとき、並みはずれた家久の好色ぶりを知りましたので。

    二歳の赤子を妻にせよと言われた……乳飲み子の妻をだっこして「よしよし」とあやしたのでしょうか。(´艸`*)
    後編が待たれます。

    作者からの返信

    お星さま、ありがとうございます。

    何となく、Wikipediaを渉猟している時に見つけたお方です。
    たしか、幕末~戊辰戦争を調べている時に、ふと見つけた記憶があります^^;

    島津重豪は、開明的だったんですけど、浪費癖、女癖が悪く、しかも健康で長生きしていたという、わけのわからない人です(笑)
    そういえば家久もそういう人でしたね。
    何かそういう傾向でもあるんでしょうか……でも、徳川家とかもそういう将軍がいたし、泰平だと武家の関心って、そっちにいっちゃうのかもしれませんね^^;

    さて、信順と二歳の子と結婚ですが、まあさすがに「約束」だけで、正式な婚約というか婿入りは、もうちょっと時が経ってからしたそうです。
    お家を潰さないためとはいえ、珍妙な結婚となりましたが、これが八戸藩にとって、いかなる運命をもたらすのか……。
    お楽しみいただければ幸いです。

    ありがとうございました。