第2話:絶対に入ってはダメですよ、兄さん

 ――んぁ……っ、ぃ……ん……っ、に――



 振り返ってみれば、今日は出来すぎな一日だった。


 一昨日が寝不足だったこともあって、昨日は十時前には寝ていた。


 そのまま朝まで熟睡。


 そのせいか、普段より一時間も早く目が覚めた。


 6時台に起きるのは受験以来で、早起きを褒められるかと思いきや、むしろ朝の妹は少し不機嫌だった。


 気分がいいと、些細なことは気にしない。


 目覚めが良かった分、その後のコンディションも抜群によかった。


 一本早い電車で登校し、授業を一度も寝ずに受け終えた。


 英単語の小テストも赤点を回避し、補習で居残りになることもなく、一つ早い電車で最寄り駅についた。



 一つ乗る電車が違うだけで、もう見慣れたはずの通学路が、違う土地のように思えた。


 電車には中学生が多く、そして、住宅街では小学生が走りまわっていた。

 


 いつもと違う、新鮮な光景に目を奪われながらも、ポケットからスマホを取り出す。


 家に着く前には一度、連絡を入れる必要があった。


 ゴミ出し当番とか、掃除当番とか、そういう家のルールの一環だ。


 あまりに当たり前すぎて、普段は気にも留めないが、そういえばこのルールはいつから始まったのだろう。


 少なくとも自分が言い出したことではなかった。


 大人になればそれなりに分別がつくし、常識外れなことはしないようになるのが当然だ……と、思う。


 ふとよぎった違和感は、すぐに忘れた。



 まあでも、習慣なのだから、とりあえず守っておくに越したことはない。


 深く考えず、家族用のラインにスタンプを送った。


 いつもなら秒で既読が付くが、今日は1分経っても未読だった。


 もう、あと十分もしないうちに家に着く。


 普段は学校を出るタイミングで送るが、補習や委員会の時は、たまに送り忘れるし、今日も別に大丈夫だろう。


 ◆◇


 取っ手を引くと鍵は締まっていた。

 既読もつかないし、まだ誰も帰ってきていないのだろう。

 いつもなら、当然のように妹が出迎えてくれるから、少し寂しい。

 久しぶりに自分の鍵をつかった。


 うがい手洗いを済ませると、自分の部屋に向かう。階段をあがっていく。

 今日は早く帰って来られて気分がいい。

 一時間も早い帰宅だった。

 いつも帰るころには誰かしら家にいるので、明かりも付いていない、シーンとしたリビングは珍しかった。



 朝からあまりにも順調で、今になって思えば、正気じゃなかったのだと思う。

 電車も乗り過ごさないし、体育も先生が休みで自習だった。

 何もかも思い通りで。

 少し調子に乗っていた。

 だから、普段は気づくような変化にも、直面するまで気づかなかった。


 ◆◇


 ――絶対にダメですよ、兄さん。もう二度と、こういうことはしないでください――


 温厚な妹を一度だけマジギレさせたことがある。


 勝手に妹の部屋に入ってしまった時のことだ。


 当時はまだ小学生だったし、個人の部屋とリビングの違いもよく分かっていなかった。


 実際、妹はよく自分の部屋に来ていたし、だから、自分も気分で行っていいものだと思っていた。


 遊ぼうと扉を開けると、まだ園児だった妹は、イモムシみたいに布団のうえでうなっていた。


 なにをしていたのか知るのは、中学生になってからだった。



 思えば妹は、その頃から大人で、言葉遣いは祖母譲りだった。


「絶対にダメですよ、兄さん。もう二度と、こういうことはしないでください」


 一言そう言うと、あとはヒステリなんか起こさず、ジッと見つめてくるだけだった。


 スカートがめくれたまま、ただ無表情に。


 無性に目が引き寄せられて、静かな圧が逸らさせてくれない。


 あとあと内省させられるくらいなら、いっそのこと一思いに泣いてくれたほうがいい。


 静かに怒る妹を見て、自分がどんな悪いことをしたのかすら分からぬままに、いけないことをしてしまったのだと感じた。


 何も聞くな、という見えない圧力。


 もう妹を怒らせてはいけない――あの日、ちゃんと反省したつもりだった。


 ◆◇


「……んぁ……っ、ぃ……ん……っ、に……」


 家には誰もいないと思っていたから、隣の部屋から声が聞こえてきて驚いた。


 一瞬、幽霊を疑ったが、そんなはずはない。ただ、その声はどこか苦しげだった。


 体が、熱い。


 さっきまで冴えていたはずの頭が、声を聞いただけで、次にどんな行動をすればいいのか、分からなくなった。


 とにかく、冷静じゃいられなかった。


 ひとまずスマホを開くと、いつの間にか既読が付いていた。


 いつも、いの一番に見るのは妹だ。


 だから当然、妹は自分が早く帰ることを知っているはずだ。


 知っていればいつもみたいに、出迎えてくれるはずで、そうでないなら……。


 扉が閉まっているせいで、はっきりとは聞こえない。


 けれど、苦しそうな声はずっと続いていて、もしかしたら自分じゃ起き上がれないくらい、体調が悪いのかと思った。


 ひとまず、自分の存在を知らせなくては。


 過去の二の舞にはならない。


 二階にいたのでは、玄関の開閉音など聞こえないだろう。


「ただいまー」


 扉越しに呼びかける。


 特に反応はなく、くぐもった声が続いている。


 声が小さくて、聞こえなかったのだろう。


 今度は大きい声で。


「ただいまー!」


 ノックをしても、何も反応がない。



 ――絶対にダメですよ、兄さん。もう二度と、こういうことはしないでください――


 妹の言葉が頭をよぎる。


 大丈夫、大丈夫だ……。


 自分に言い聞かせる。


 それに何かあってからでは遅い。


 本当に何かあったら、いくら呼びかけたって返事できない。


 それが脳に起因するものなら、発声なんてできやしない。


 命より、重いものはない……。

 

 脳卒中で死んだ祖母が、いまだに忘れられなかった。


 ◆◇


 扉を開けると、まず勉強机が目に留まった。


 カーテンは閉め切っていて、電気は消えたままだ。


 見回すと部屋は散らかっている。


 ブラウスもスカートも脱ぎっぱなしで、靴下も下着までも、床に落ちていた。


 妹はといえば、ベットの上でイモムシになっていた。


 裸だった。 


 暖房がついていて、空気がこもっている。


 ツンと匂った。


「どうして……」


 クローゼットは開きっぱなしで、自分の写真が壁一面に貼られていた。


 パンパンに膨れた段ボールが重ねて置いてあり、圧縮袋からは、片方だけなくした靴下や、捨てたはずのパンツがはみ出ていた。


 これって……どういう……。


 頭が追い付かず、衝撃に、息をするのも忘れてしまっていた。


「にい……さん……」


 今の今まで本当に気づいていなかったようで、妹は目を大きくして固まっていた。


「どうして、いるんですか……ラインは」


「帰るって、さっき送ったよ……」


 イヤホンを外すと、布団をたぐりよせて、くるまった。


「学校から家まで30分はかかりますよね。20分前は何も連絡はきていませんでした」


「忘れてて。駅、着いてから送ったんだ。既読も付いてたし……」


「私じゃ……ありません」


 どうやら、既読は別の家族で、すべて早とちりだったみたいだ。


 今になって、状況が理解できた。


 妹の部屋に無断で押し入るなんて……通報されてもおかしくない。


「見て、しまわれたんですね」


 あの頃と変わらない。


 激昂するでもなく、無表情にジーっと見つめてくる。


「出てって」


「ごめん」


「出てって、ください」


 部屋を追い出されて、まさか隣の部屋に戻れるはずもなく……。


 一階に降りると、しばらくして、妹も降りてきた。


 澄ました顔で、静かに入ってきて、そのままソファに座る。


 のぞき見た横顔は、少し幼くて、まるで昔に戻ったみたいだった。

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