高橋利行

 またあの夢だ。

 ―燠火のなかから繭が取り上げられる。

 熱気は感じるが、不思議と取り上げた手はなんともない。繭を祭壇に乗せる。胸の奥に不安の種がぽつりと湧く。

 艶のない、麻紐のようなざらついた感触。見つめていると、震えるように繭は脈動を始める。と、表面に赤黒い沁みが浮かび上がる。その変化から目がはなせない。不安は昂まり、自分の息が荒くなるのがわかる。

 繭の表面に刃物で切りつけたような筋が入り、どす黒い血が流れ出て、みるみるうちに繭は萎んでいく。不安は恐怖へとかわり、あとずさる。動悸が高まり、息が乱れるのが自分でもわかった。そしてそのなかから現れたものを目にして…。

 ニンゾスはいつもここで目覚めてしまうのだった。

 古びた木材を軋らせて、冷えた寝台に身を起こした。不快な寝汗を拭いながら身支度をする。

 鉛を詰め込んだような身体を無理に引きずって、海風で白茶けた小屋を後にした。風花まじりの北節風を頭巾で遮りながら〈錬術の塔〉へと足早に向かう。

 師はすでに、塔の頂部にあたる緑灰色の花崗岩で組み上げられた円筒型の小部屋にいた。壁に巡らされた長切り窓からの僅かな光原と、質の悪い蝋燭のちらつきが仄かに照らすなか、緑青の吹いた銅鼎どうがなえを前にして、沸騰する香草をみつめていた。

「ニンゾスよ」

 名を呼ばれ、傴僂くぐせの弟子はさらに背を丸めた。

「読みとれるか? 香草の煮立ちは何処よりことをなさんとするものの訪れを示唆しておる」師は顔を上げずに痰の絡んだだみ声で手招いた。

 熱気を感じながら炉を回りこみ、煮え立つ鼎のなかを覗きこむ。湯気を透かすと、粘る泡にまみれ一方に偏った茎枝が、鈍くはじけながら渦を巻いていた。

 ニンゾスの知識の棚が総ざらえされる。小さく煮立つ音。鼻腔に押し寄せる熱気と甘苦い臭い。涙目をしばたたせながら、かれも「予兆」を認めることはできた。だが、それ以上は読みとれなかった。渦の巻き方から方角か、時期か…。時節柄、海寄りの風が強まるころでもあり、西からでしょうかと漠然と問うと、師はかすかに首を傾げた。

 猫背の弟子は息を潜めて続きを待った。老いた魔術師ウィドラーンの傷んだ蓬髪が斜に差し込む外光に鈍く光った。師は乾燥させたよもぎの葉をひとつまみ、湯面に砕いて撒いた。そして彫金された銀の刺し棒でむせるような鼎の湯をゆっくりかき回した。立ち上る熱い湯気を透かして、浅黒く潮焼けした眉間に皺を刻むのが見えた。「北か…」

 掠れた声を耳にしたとき、ニンゾスはわけもなく鳩尾がひやりとするのを覚えた。

 

 寝汗に湿った両の掌をゆっくりと開閉しながら、ニンゾスは考えていた。

 熾火のなかから取り上げた繭。

 夢はいつでも同じ繰り返しであった。生々しく、悍ましい。

 最近では、目覚めると鼻の奥に例の滲み出した血の臭いまで思い返されるようになっていた。不快だった。

 なぜこのような夢が訪れるようになったのか。かれには原因になるようなことに思いあたる節がなかった。何者かによる呪禁なのではないかとも疑ってみたが、巷間とはまるで縁もなく、この土地においてかれが見知っているものといえば、〈練術の塔〉の使用人と寂れた漁村の民びと、それとても荷の受け取りや買出しのときに顔をあわせる程度でしかない人々であった。恨みを買うなどとは全く考えられなかった。それゆえ、ニンゾスはひとり悩み焦っていた。

 寝台の上で身を折り、頭を抱えた。

 先ほどから窓の外が騒がしい。蝶番がはずれかかった鎧戸を耳障りに軋ませながら押しひらく。肌を刺す冷たい霙を頬にうけながら眼下を見やると、くすんだような灰色の砂浜に使用人たちが集まっていた。

 何事かと目を凝らす。気の滅入るような低い雲を背景にして、くすんだ人群れが折り重なった奥に十字の墓標が覗けた。ニンゾスは目を眇め、よく確認しようと窓外に顔を突き出した。妙だ。あんなところにいつの間に。湿った頬が冷えていくのも構わず凝視すると、それが白っぽい一隻の小型船の帆柱であり、砂浜に乗り上げているのがわかった。

 隠亡海岸。人がこの地をそう呼び習わしているのを思い出した。外海から岬に寄せる複雑な海流と季節風の影響で、冬季になると身元のわからぬ死体が何度か上がるためである。

 ここはラック島の北に位置する岬で、古代遺跡の跡を元に築かれた魔術師ウィドラーンの塔である。

 今にも落ちてきそうな湿った霙雲のもと、吹き寄せた流木やら腐った海藻が汀に描く汚れた縞模様を突っ切ってみると、船を一様に白く見せているのは、船上に張りめぐらされた絹糸のようなもののためだった。甲板は大蜘蛛にからめとられたかに見えた。傾いた帆柱の根元には異様な糸の塊があった。頭陀袋を立てかけたようなそれは、いやらしい襞の重なりをあらわしていた。

 いつのまにか師が道具箱を下げ、船べりに佇んでいた。みなに離れるよう言うとしばらく船体のまわりを子細に検分し、アカザの杖で柱の根元に重なった絹糸の塊を上から慎重に撫ぜ、ゆっくりと杖さきを押し込んだ。ニンゾスは師のあとにつき、柄つき針や鑷子せっしなどの道具を必要に応じ手渡した。

 しばらくして師は、疫病などではないことを、その場で取り囲んでいた人々に言い渡した。

「この白い塊のみはさらに調べねばならんな」と、ニンゾスを見た。船から切り離し、塔へ運ぶということであろう。内心、ニンゾスは気が進まなかった。だれかが、「繭のようだ」とつぶやくのを耳に留めていたからだった。

 ニンゾスを含め三名の男たちで柱からの切り出し作業を終えると、塔の裏手から一階にある大きな円形の部屋へと運び込んだ。錬術の作業場である。繭らしき塊は、部屋の北側あたり、長切り窓が縦列に穿たれた下、黒檀製の長卓にのせられた。卓の端にはさまざまな手術道具が並べられ、師はすでに準備を整えていた。使用人の男たちがさがると、ぽつりとニンゾスに訊いた。「おぬしがこの塔に入ってどれくらいになる」

 ニンゾスが答えると師はゆっくりと息を吐き、五年になるか、と小さく頷いた。しばらくの沈黙のあと、詳しく検視を始めるため、白い塊を凝視しながら道具を受け取るため手を差し出した。

 白い塊はやはり人を包んだ繭のようで、小刀で切り裂くと、屍蝋化した若い男の死体が出てきた。包み込んでいた白いものは絹糸とも違う、見たことのない材質の細い糸であった。男は沈んだ紫紅色の見慣れぬ衣服をまとっていた。ニンゾスはその厚手の生地を苦労して切り裂き、土気色をした体を露わにした。その間じゅう、かれは喉元に込み上げる苦いものに耐えなければならなった。今まで数々の解剖に立ち会ってきたというのに。こんなことは初めてであった。

 胴部は解剖のためさんざんに切り刻まれたが、頭部のみはそのまま残された。ニンゾスは糸の膜を剥がしたときに目にした異様な顔つきが頭を離れなかった。細かな皺が幾重にも刻まれた褐色の口には、顎の関節も外れんばかりにして、小児のこぶしほどの荒削りの水晶片が押し込まれていたのである。玉の汗を額に光らせながらそれを見た師は、蒼白な顔でしばし言い淀み「…これには魔術ウィドルが関わっておる」と低い苦悶の声をあげた。


 二日後の午すぎ、小型船は古い麻袋に詰められた縫いあとだらけの死体とともに浜辺で燃やされた。塩気のせいか件の絹糸状の膜のためなのか、なかなか火は点かず、使用人たちは苦労してようやく小舟を火で包んだ。薬品を含んだような悪臭を吐きだしながらくぐもったように燃え、煙に巻かれた使用人の幾人かは気分が悪くなるものもいた。

 奇妙なことに、屍蝋化した死体は炎を受けてもすべては燃やしつくせなかった。その報告を受けた師は眉を顰めた。火に包まれた状態をニンゾスから詳しく聞き取ると、なにやら物思いにふける様子で死体のみを錬術の塔へ戻させるよう指示し、誰も塔に入らぬ様申し渡すと、古く重たい扉に錠を差した。そして塔の南側にある古びた居宅へ戻ると、青黒い夕暮れに沈んだ書斎にかんぬきをかけ籠ってしまった。


 師は丸一日以上姿をあらわさなかった。その気配が知れたのはあたりが霜に覆われる静かな深更であった。書斎に隣接する控えの間で小卓に凭れてうつらうつらしていた下男を大いに驚かせたとき、布扉の向こうに立っていた魔術師ウィドラーンの顔といえば目が窪み、白っぽく乾いた肌は安い蝋燭の灯りのもと死人のようにゆらめいていたのである。

 怯えたような下男から伝言を受け取った弟子は、指示通りに夜明けを待った。相変わらず夢に悩まされていたかれは、いつとも知れぬ暁闇を待ちながら鬱々と寝台を軋ませていた。ついには師への不満さえこぼしたほどである。重ったるい午前の陽が水平線を離れるころ、寝不足のふらつく足で塔の小部屋へとむかった。師は久びさに晴れ間をのぞかせた冬空に向かって、例の水晶を陽に翳していた。

 そのうしろ姿が視界に黒く浮かびあがるのと、どよもす波の音がニンゾスの不安を煽った。

「陽にすかしてみよ」

 振り向いて掠れ声をかけてきたその姿に愕然とし、息を呑んだ。そこにいたのはあの見知った魔術師ウィドラーンではなかった。それは生気を失った搾りかすであり、虚な眼差しの木乃伊であった。

 ニンゾスはおそるおそる水晶片を受け取ると、師と同じように弱々しく地上を暖めている太陽にかざしてみた。引っ掻いたような傷が無数に認められた。初めはよくわからなかったが、目を細め、水晶に当たる光の位置をゆっくりと変えてみると、それが一群の文字であることに気がついた。それは猫背の弟子が、過去に何度か目にした古代の神聖文字エピリアの組み合わせであった。だが、意味は表された文字のみからでは読み解けない。神聖文字エピリアの本意は、いく通りもある物理的な儀式とじゅの組み合わせにおいて成すからだ。

 読めるか、と促す老いた魔術師ウィドラーンは、窓から離れると紫檀の書きもの机の上に乱雑にひろげられた緋楮紙ひこうぞしの書き付けを手に取り、目を落とすと何ごとかをつぶやきながら握りつぶした。

 ニンゾスは首を傾げながら、不自然な呼気を交えた発音で神聖文字エピリアの羅列をあらわした。だがそこにどうといった意味は見出せなかった。

 一瞬、師はもの問いたげな暗い面を弟子に向けた。「船の件、当分は解決せんようだな。集落西の小屋のものたちに、しばらくのあいだ海岸づたいに外海を十分に警戒させるよう伝えよ。目につく異変を取りこぼさず報告させるようにな」明らかに弱々しい口調で指示をした。そしてすぐにニンゾスから視線を外すと、窓外に重々しくひろがる紺青の水平線に目をやった。

 いったいどうしたというのだ? たった一日部屋に籠っただけでこれほど衰弱してしまうとは…。さまざまな疑問が胸中に浮かんだが、どれも言葉にできず呑みこんでしまった。師のあまりの変わりように気圧されていた。

 しばらく水晶を手にしたまま呆然としていたが、窓を横切るカモメの金切り声に我に返った。

 その後の魔術師ウィドラーンは何を話しかけてもいらえせず、海原を見据えたままであった。

 ニンゾスはいたたまれず、音を忍ばせて扉を閉めた。

 それが師の予見であったのか、はたまたその指示自体が不吉を引き寄せたのかは知らねど、異変は起きたのである。それも破滅的なかたちで。


 予兆は数日もせぬうちに現れた。

 風だけは冷たいが、いつもなら海流の激しい岬の海岸線も穏やかな日のこと。黄土色をした気だるい太陽が沈みかけるころ、黒い砂浜に奇妙な魚が打ち上がったのだ。それは普段なら見かけることはほとんどない、深海の魚であった。気づいたのは仕事を終え、いざり船を浜にひき揚げていた岬の漁師たちである。ひとの背丈を超える細長い魚体に鱗はなく、一面紫紺色をおびて滑っていた。巨大な頭部には、それに比例した硝子珠のような目が飛び出し、沼鼠ネルビを思わせる大きな前歯を剥き出した口からは、水圧から解放された浮き袋が弾ける寸前まで膨み出していた。

 大概のことには動じぬ男どもが、この異様な漂着物を目にして、潮に焼けた立派な体躯を身震いさせながら〈練術の塔〉へと訴え出たのである。

 ニンゾスが浜へ出向いたとき、黄金色に浮かびあがる煮凝りのような魚体をみな遠巻きにしていた。禍々しくも、その場から立ち去ることが出来ない風であった。ニンゾスは歪んだ背をさらにたわませて屈みこみ、照り返す醜怪な塊を確認した。鼻をつく生臭さに眉を顰めた。

 取り巻く男どもは魔除けの印を切っており、微かな呪言がつぶやかれるのが聞かれた。彼らはそれが凶兆であると恐れ、そしてそれは当たっていたのである。

 その場を漁師の長に任せると、急ぎ師の居宅へ向かった。


 翌早朝のことである。

 浜に出た漁師が遠のいた海岸線を目にした。いつもであれば泡立つ白波がうねる海原が視界に広がるはずが、まったく様変わりしていた。黒っぽい浜が延々と水平線まで続いていた。点在する水たまりでは、逃げ遅れた魚たちが身悶えているのが目についた。

 風もなかった。漁師は鼓膜を圧迫する静けさに身を固くした。

 津波の前兆とすぐに知れ、急ぎ集落へと警告に向かったがすでに間に合うはずもなかった。海は轟音と共に押し寄せてきていた。

 圧倒的な、押し寄せる海水の壁は魔物の顎を思わせ、陽が指すまでの時間もかからぬうちに、波濤は岬の集落をあっけなく飲み込んでしまった。

 幸運にも師とニンゾスは、昨晩から天文観測のため塔頂部の小部屋に詰めており、雑用のために残っていた侏儒の使用人とともにいたため、助かった。

 塔に隣接して建てられていた小屋はひとたまりもなく、居住していた使用人たちは根こそぎにされた。それは浜にそった漁師たちの集落も例外ではなく、すべて深海の主〈裁きと罰の神〉コスの無限回廊へと引きずり込まれたのである。

 〈錬術の塔〉自体は岬の低い尾根沿いでももっとも高台にあり、その堅牢な造りによって無事であったが、波は中二階まで押し寄せてきたため、ほとんどの家財は破壊されるか流されてしまった。波が引いたあと残ったものといえば、大部屋の柱に引っかかった大釜と海から寄せてきた大量の芥であり、そして驚いたことに、大釜のなかにはあの屍蝋化した男の死体が残されていた。

 今や〈錬術の塔〉に住まうのは師とニンゾス、そして使用人である侏儒の老爺のみとなってしまった。


 集落全滅という痛ましい出来事のあと、数日が過ぎていった。

 それからは、日を追うごとにニンゾスの夢は生々しくなっていき、赤黒く染まる繭からは血の臭いが押し寄せ、むせるようにして目覚めるようになっていた。いまや眠ることが苦痛であると感じていた。

「夢?」

 ニンゾスの疲労はあまりにも激しく、とうとう耐えきれず、師に相談することにした。

 師は、夢の内容を詳細に聞きただした。そして聞き終えると、眉間に皺を寄せしばらく何かを思案するふうな面持ちであったが、薬種棚に向かうとなにやら調合をはじめ、黄芥子カファンを主とした眠り薬を数包、ニンゾスに手渡した。

「これから毎夜、眠る前にこれを湯にひと匙溶いて飲むがよい。ただし効き目の強い薬ゆえ一度に一服のみとし、つぎの服用までには必ず一日あけよ。よいな」

 その夜、ニンゾスは悪夢に煩わされることなく、久々にゆったりと眠ることができた。

 それから二、三日の間はニンゾスも心安く眠りにつけた。

 だが心やすい日々もしばらくすると色褪せ、またもや夢が戻りつつあった。ニンゾスは焦り、不安を打ち消すため、師には何も告げず調合した量を少々増やしてみた。結果、夢は薄れたのだが、身体に影響を及ぼし始め、振戦ふるえと嘔吐感を覚えるようになっていた。

 そして、魔術ウィドルを行う段に手順を間違えたり、詠唱を忘れてしまったりと、作業にも支障がではじめていたのだが、不思議なことに師はそれらを咎めることはなかった。


 冬の寒さもいよいよ厳しくなり、朝から風も強く波が高いある日。塔から見下ろす外洋側に築かれた石垣にぶちあたる波は白濁し、外回廊の石畳もしぶきで黒々と濡れており、行き来するたび海風に煽られ転倒せぬよう気を配らねばならなかった。

 陰鬱な陽が傾いたころに急な呼び出しがあり、ニンゾスは錬術の大部屋へと急いだ。

 大部屋に着いてニンゾスは驚いた。摩滅した敷石の床には白墨で魔術ウィドルの円陣が描かれていた。その中心には、くだんの屍蝋化した死体が横たえられていた。それをまたぐかたちで、樫の杖で組まれた三脚に例の水晶が載せてあるのが認められた。

 師はいつもの灰色ではなく生成りの外套をまとい、円陣の南側に位置していた。ニンゾスを認めると小さく頷き、横へ来るよう細い指で示した。気のせいか弱々しく震えているように見えた。

 円陣は複雑な古代文字と神聖文字エピリアを組合わせたもので、何者かを召喚するために描かれたものだ。しかも、通常の円陣に比べ規模を大きくし、中心に供物としては不適切と思われる、屍蝋化した死体を用いているという点から、より危険なものを呼び寄せようということらしい。

 ニンゾスは焦燥感にとらえられ、師にその危うさを訴えた。しかし、師は動じず青銅の盤にはった冷たい水で両手を清め、ニンゾスにもそうするよう促した。

「我が最後の弟子よ。心して聞け」

 師はニンゾスに向き合った。その蒼白な顔をおおう髭のなか、表情のない暗い目で最後の弟子を見つめた。

「儂は昔、禁忌とされる魔術ウィドルに手を染めた。ある擬獣を生み出すために」

 長年仕えてきたが、師が自らのことを話すのを、ニンゾスは初めて聞いた。どういうことなのだろう。しかも擬獣を生み出す術に関わることだという。それは魔術戦争時代なれば一般的であったろうが、古代魔術の廃れた現在では、より精通したものでなければうまく作出はできぬはずだ。とはいえ、禁忌とされるほどの術でもない。

「当時の儂には野心があった。より高位で困難な術を得ようと奢り、またそれなりの力を持っていた。

 が、擬獣はあくまで擬獣、ということを当時の儂は軽く見ておった。そしてその奢りゆえ、禁忌に手を染めた。それは−人を模した擬獣の作出だ」

 ニンゾスは身をすくませながら師の語りに耳を傾けた。

 人を模した擬獣−

「それは当時、魔術師ウィドラーン誓約ヤルヴに反することであった。禁忌に手を染めたことは同輩の知るところとなり、儂はケルシュ・カルンクムの大都フォルグスを追われたのだ。それでも儂の意気は高く、この〈練術の塔〉において人を模した擬獣作出を実行した」

 いまや師の声は震えていた。

「用いたのは『灰と塩』である」師は、魔術ウィドルの基本をニンゾスに思い起こさせた。「それは、忌まわしい成功であった」

 核心に近づいている。と、ニンゾスは感じた。不安と疑問が沸き起こった。

「ニンゾスよ、最後の弟子よ。数週間前、黒い浜に乗り上げた、繭に包まれたこの屍蝋化した男は…儂が作出したもの、人を模した最初の擬獣なのだ」師は青白くなるほど両手を握りしめた。

「あれは人の姿をした獣であった。人語を解せず肉を貪る、まさに獣であった。儂は初めて恐怖を感じた。だが獣といえど擬獣を殺すことはさらなる誓約ヤルヴ違反となり、わが魔術ウィドルの力を削ぐことになる。ゆえに小舟に縛り付け、その贖罪のため神聖文字エピリアを刻んだ水晶を用い放逐した。それが七年前のことだ。よもや再び戻ってくるなどとは…これは儂自らが招いた『禍』なのであろう」

 儂は見誤った、とつぶやいた。

 さらに師は続けた。 「儂はその後も人の擬獣作出を試みた。初めの失敗を繰り返さぬよう、より慎重にな…しかし」今やニンゾスにも分かりかけてきた。使用人のなかにいた幾人かの不具者たち。侏儒の老爺、津波の犠牲となった片手片足がないものたち、なかには言葉をうまく解せぬものもいた。彼らは師の実験から生み出されたのだと。

「因果は廻り、帰ってくるものだ。儂は『禍』から逃れられぬであろう。そのあとに残るのはニンゾスよ、おぬしだけである。

 おぬしが夢を見たと告げたときから、予感はあった。

 調合した薬が二、三日で効力を失い、お主が薬の分量を増やすであろうことはわかっておった。それもこの召喚術に必要だったのでな。

 これより儂は贖罪のための最後の魔術ウィドルを行う。召喚するものは地の底の炎王に従えるしもべだ。ニンゾスよ、心して儂の最後のしゅを見るがよい」

 師の言葉には有無を言わせぬものがあった。

 すでに日も落ち、あたりは青白い夜の帳に包まれていた。円陣を囲む八方に立てられた燭台の灯りが、円形の大部屋に歪んだ影法師を生み出していた。

 低い音程で呪が始まった。ニンゾスの不安は昂まるばかりであり、この術は危険だ、という思いがいよいよ強まっていた。

 奇妙な抑揚の詠唱が部屋にこだますると、円陣の中央にある供物、屍蝋化した死体に異変が起きた。火の気もないはずであったが、全身がかすかに青白い燐の炎に包まれたのである。

 師は青銅の短剣を用いて自らの左手のひらを深く切り裂き、滴る血を円陣のなかに振り絞った。その雫が屍蝋から上がる燐の炎にかかると火花が散り、炎の勢いを増した。

 詠唱は律動を伴い、よりはっきりと唱えられた。その律動とともに血が振り絞られる。

 ニンゾスは、部屋の空気が緩やかに回りだすのを感じた。燭台の炎が、屍蝋の炎に呼応するかのように激しく揺らめき出すと、水晶を乗せた三脚に炎が燃え移り、黒い煙が水晶を取り巻き、何処からともなく唸り声が聞こえた。それは聞くものに怖気をふるわすものだった。鼻腔を出入りする空気に、我慢のならない異臭が混じり始めた。

 渦巻く黒煙が忌まわしい炎王の僕の姿をかたち作り、師と向き合った。召喚はなされたのだ。

 地獄の僕は、不服を含み、苛立ちを感じさせる声音で召喚の理由を問うた。「なにゆえにわれを召喚せしか」言葉と同時に、側溝の汚物を排水したときの悪臭が押し寄せ、ニンゾスは思わず顔を背けて衣の襟に口と鼻を埋めた。

 師は多くの血を失っているはずだったが、強靭な精神力で踏みとどまり自らの行為を挙げ連ね供物とした屍蝋を示した。

 いまや屍蝋化した死体は木炭のごとく燃えあがっていた。

 何重にも重なる声音が、大部屋に響き渡った。「気に入らぬ。津波によりコスの得たものに比して吾の得るはぬしの魂のみか。気に入らぬ。が、」ひと呼吸おき、軋むような含み笑いを漏らした。

「そこな擬獣をも炎王に差し出すがよい。さすれば煉獄のあるじに免じ、ぬしの魂のみで吾は身を引こうぞ」

 師は血の気の失せた蒼白な顔を歪めながら頷いた。「差し出そう」

 この会話を聞いてニンゾスはぎょっとした。いまこの部屋には師とニンゾスしかいなかったからだ。

 僕は吐き気をおぼえるような笑い声をあげると、かき消えた。

 黒煙が消え去ると、師はその場でくずおれた。ニンゾスが体を支えると、震えながら「最後の弟子…」と力ない瞳でニンゾスを見た。手の傷は長く深く、手首の血管まで達し、多量に失血していた。

「儂の贖罪はこれで成った。見よ」円陣の中央で燻る死体を示した。「おぬしを取り上げたときを思い出す」師は、そのひと言を絞り出すようにしてこと切れた。

 師の骸を横たえると、しばらくのあいだ、黒ぐろとした血溜まりに呆然と立ちすくんでいた。

 おそるおそる焼け残った死体へとむかう。いわく言い難い禍々しさを感じながら死体に近づくと、熾火のなかに繭があるのがみえた。

 それを見てニンゾスの呼吸は荒くなり、血に塗れた震える手を繭へと伸ばした。

 そのあとのことはわかっていた。夢と同じく、繭には赤黒い染みがあったからだ。


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高橋利行 @Tettgonias

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