凛那ルート 6-11
凛那の言った通り奈能りんが出演しているという噂は広まり、全国から噂を聞きつけた芸能記者が春浜に集まり、公演の当日券が完売になるほどの盛況ぶりだった。
急な賑わいに商店街にも見知らぬ顔が多数目撃されるようになり、改めて奈能りんが全国区に知れ渡っている女優なのだと実感させられる。
公演が行われた一週間、劇団員とどこかで話し合いでもしているのか俺の方が先に家に帰り着くようになった。
先に帰ってきたときは決まって下手くそながら夕食作りに挑戦し、遅れて帰ってきた凛那に賞味してもらう。
おかげで料理の腕が少しずつ上達しており、自炊ぐらいならなんとかなりそうな腕前にはなった。
そして今日は公演最終日、凛那は劇団の打ち上げには参加せずに直帰してくると知り、いつでも出迎えられるように台所で耳を澄ましていた。
玄関の外で気配が動くとコンロを止めて玄関まで出る。
引き戸が開き、佐野凛那の時よりも外行きめいた服装で少々疲れた顔をしている凛那を目視すると、自然とこちらの表情が緩んだ。
「おかえり凛那」
「……ただいま」
凛那の方も俺を見るなり疲れた顔に笑みを浮かべた。
一息つくように三和土に腰掛けて太ももに手を置く。
「ブランクって恐ろしいわね。若い時は連日仕事でもなんともなかったのに、今は体力がもたないわ」
「まだ二十代だろ。年寄みたいなこと言うなよ」
「劇団の若い人達からしたらだいぶ年増よ。二十歳になったばかりの人もいるんだから」
「若いだけが魅力じゃないだろ、凛那」
こちら側の名前で呼び掛けると、頭ごと振り向いて嬉々と表情を崩した。
「やっぱり凛那って呼ばれると安らぐわね」
「呼んで欲しいならいくらでも呼ぶぞ。凛那」
「必要以上はやめて」
ふざけたら咎められた。
必要以上は名前呼びしないことにして話題を移す。
「一応、夕飯作ったけど。食べるか?」
「食べる」
即答だった。
一心地ついたらしく三和土から立ち上がり、自室のある方向へつま先を向ける。
「着替えたら台所行くから。手伝えることあったら言って」
「助かる。支度して待ってるよ」
告げるよりも早くそそくさと凛那は自室へ向かっていった。
さっさと部屋着に替えたいのだろうな。
夕飯の支度をして待っていると、思ったよりも早いうちに凛那が台所に顔を覗かせた。
「今日はどう美味しく作れた?」
試すような目で訊いてくるので自信満々に笑い返した。
「あんまり期待するなよ。味見はしたけどな」
「なら大丈夫よ」
俺の軽口をあっさりと受け止めて食卓を見つめる。
テーブルには重ねたままの食器が置いたままだ。
「まだ支度が終わってない」
「そうみたいね。手伝うから早く食べましょ、いろいろ話したい事もあるから」
「話したい事?」
俺が聞き返すが答える気はないようで、これはこの食器ねと勝手によそっていく。
手を止めてまで聞き出すことでもないか、食べながら話すのだろうし。
ひとまず疑問は置いて、凛那と二人で食器に料理をよそってテーブルに二人分並べた。
夕飯の支度が整うと、向かい合って座り揃って手を合わせる。
食事前の挨拶をして箸を手に取るが、凛那は箸に手をつけない。
「どうした?」
尋ねると、凛那にしては珍しく緊張した顔つきで口を開く。
「さっき言った、話したい事。食べる前か食べた後どっちがいい?」
「どっちの方が話しやすい?」
「食べる前」
「それじゃあ食べる前」
そう返して俺は箸を箸置きに戻した。
傾聴の姿勢を取ると、凛那は硬い表情で切り出す。
「あたしの願いを叶えて欲しい」
「は?」
願い。突然、何を言い出すのだろか?
目顔で聞き返す俺に、凛那が言葉を選ぶ間を置いてから続ける。
「あたしの願いは以前から言ってたことよ」
「以前から……」
しばし考えて思い至る。
――良い人見つけて結婚して、しのばあちゃんを安心させたい。
恋人になる前から打ち明けてくれた切なる願い。
そして恋人になった現在、その願いを叶えられるのが……
「もしかして凛那の願いって結婚の事か?」
自身の推察を確かめるために問うと、まだ硬いままの顔で頷いた。
――――いきなり過ぎて返事が思いつかない。
じゃあ結婚するか、なんて軽薄な言い方はしたくないし、想像していなかったと言えば嘘になってしまう。
それこそ凛那と夫婦になった自分を夢想したこともある。だがそれは単なる夢想で留め、凛那に嫌われないように振舞うので手一杯だった。
取り柄のない俺を凛那がいつまで好きでいてくれるか不安もあったし、固執していると思われたくなくて執拗な態度は取らないようにしていた。
そんな気弱な状態から数段飛び越えて結婚なんて、心の準備が出来ているわけがない。
「……待ってくれ。話が急すぎる」
「急なのはわかってる。でもこれ以上遅くなったら準備も何もないでしょ?」
発破をかけるように言って真剣な眼差しで見据えてくる。
凛那に結婚願望があるのは以前から知っていたし、結婚を前提に交際してくれているものだと思っている。
しかし何の前触れもなく結婚願望をぶつけてくるとは予想していなかった。
とはいえ、凛那のやることを大概俺は予想できていないし、今回も気の利いた返事を思いつけなかった俺も悪い。
「なんで、そんなに急ぐんだよ?」
嫌われるかもしれない、と恐る恐ると尋ねた。
凛那の眼差しに憂いが混じる。
「だって、あんたに反対されたら心揺らぎそうだもの」
「俺が何に反対するんだよ?」
結婚の事かと思って聞き返したが、凛那の反応を見て違うのだと察した。
結婚じゃない何かを反対されることを凛那は忌避している。
「察しが悪くてごめん。凛那が考えていることを俺に話してくれないか?」
詫びてから、真っすぐに凛那を見つめて告白を望んだ。
凛那は逡巡して俺の顔と手元を交互に眺めてから、意を決して凛然と背筋を正した。
「女優として復帰することに決めたの。一月から東京に戻るわ」
「……え?」
脳が聞き間違いであることを願った。
だが凛那の顔は真剣そのもので冗談を言っている様子ではない。
女優として復帰する、ここまではまだ許容できる気がした。だが俺の心が拒否しているのは東京に戻ることだった。
「……なんでだよ」
凛那に問い質したいほどの反発を抱きながらも、実際に喉から出た声は弱々しく若干に震えていた。
喉が詰まる悲愴に苛まれていると、凛那の方も表情が徐々に崩れていき、涙を堪えるように目尻に力を入れた。
「そんな悲しい顔しないで。ずっと言えなかったあたしを怒って」
「……怒る気になれない。凛那の泣きそうな顔を見ると余計だ」
もっと外貌に似合う澄ました態度だったら俺も感情のままに反発しただろう。
でも凛那は悲しんでくれている。
悲しむ凛那に怒鳴るほど俺の度胸は据わっていないし、自分から突き放したくない。
「反対するなら反対して、無理に気を遣わなくていいから」
先手を打つように俺に反対姿勢を取らせようとする。
けれども何故か、心の深層部分で納得してしまっている自分がいて、口が反対を唱えられなかった。
「あんたは怒ってもいいの。あたしは前まで復帰する気ないなんて言っておいて、今さら覆したんだから。あたし嘘つきなのよ?」
「泣きそうな顔をして言うセリフじゃないだろ。そんな顔する凛那に怒鳴って、思ってもいない言葉で突き放して、喧嘩別れになるなんて考えたくない」
「でも反対でしょ?」
「気持ちはな。だけど我儘を押しつける男にもなりたくない」
「……そう」
俺の意思表示に、凛那は言葉に窮して短い合いの手だけを返して自身の手元へ目線を落とした。
心の整理をするような沈黙を経て、凛那が表情に真剣さを戻してこちらを見据えてくる。
「ほんとに、いいの?」
「肯定してはいない、けれど腑に落ちてる」
凛那と離れるのは嫌だ。それでも凛那が女優として復帰することも東京に戻ることも、凛那にしては珍しく感情豊かな面差しを見ていたら不思議と納得できてしまった。
女優という華々しい舞台こそ、本来凛那が立つべき場所なのだから。
ありがと、と朗らかな顔つきになって凛那が言った。
「受け入れてくれるなら、言ってよかった」
「俺が言わせた部分もあるけどな。それで一月からだよな?」
凛那の決心を揺らしたくなくて、努めて顔を引き締めて話題を振った。
彼女の方も俺の意図を察したのか、世間話でもするように相槌を打ってから言葉を返す。
「二か月無いぐらいね。それまでにやり残したことが無いようにしたい」
「やり残したことか。なにがあるんだ?」
「いろいろ。あんたにも協力してもらうつもりだから」
断りもなく言い切った。
俺のことを信じて打ち明けてくれた凛那に対して、拒否する気持ちなど湧くはずがない。
「俺の手に負える範囲でな」
「期待してるから」
こちらの心に踏み込むような瞳で覗いてくるが、俺が視線を返すよりも早く手を合わせて箸を手に取った。
「いただきます」
晴れやかな表情で言って、水を多く含ませ過ぎた白米を箸ですくう。
女優に復帰する話題は締め切ったのか、食べないのと目顔で促してきた。
確かにせっかくの二人きりの食事だからな。
屈託ない時間を過ごすため、自分から復帰の件は持ち出さないことに決めて白米を咀嚼した。
まだまだ凛那が炊いた方が美味しい。
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