凛那ルート 6-5
入浴も済まして就寝するだけの寝巻姿でニュース番組を見ながら寛いでいると、不意に障子の外で気配がしたと思うと障子が開いた。
障子が半分ほど開けられた廊下に寝巻らしい上下で黒い薄手のスウェットを着た凛那が立っていた。
突然の訪問に目顔だけで要件を尋ねると、凛那は平然とした真顔で口を開く。
「一緒に寝ない?」
「……はあ?」
水でも飲んでいれば噴き出したであろう驚愕の台詞に、俺は開いた口がふさがらない。
俺の反応を楽しんでいる様子でもなく凛那は続ける。
「一人だと寂しいのよ。たまにはいいでしょ?」
「たまには、って一度もそんな状況になったことないだろ」
同じ布団で凛那と添い寝するなんて想像したことすらない。というか想像したら凛那に対して変な気が起こってしまいそうで未然に防いでいる。
それもそうね、と凛那は俺の言葉を受け入れたが、前言を撤回するつもりはないらしく目を細めて非難するような視線を向けてくる。
「夕食の時、甘えてもいいって聞いたじゃない。忘れた?」
「……忘れられるわけないだろ。凛那らしくないからびっくりしたからな」
「あたしの柄じゃないでしょ。だけど嘘じゃないわよ」
「それで一緒に寝る、と。いいのか?」
引き下がる最後の問いかけ、のつもりで訊いた。
凛那は俺の顔を真っすぐに見つめてから答える。
「いいわよ。でも何の準備もしないでね」
「……ああ、わかった」
準備とは、つまり事をする準備だろうか。
凛那側に事をする気があるとは思えないし、それに祖母の死があったから彼女が寂しさを感じていると考えれば納得できる。
傍に居て欲しい、そういう意思表示なのかもしれない。
「俺なんかで寂しさが紛れるならお安い御用だ」
「じゃあ十分後に部屋に来て。待ってるから」
そう告げると、立ち止まって愛想を振りまくこともなく自室のある方向へ廊下を歩いていってしまった。
……凛那から若干に香った石鹸の匂いが、より近距離から鼻に触れるとなると、俺の理性はどうかなってしまうのではないだろうか。
理性的じゃない気を起こさないように洗面所で冷水を顔に打ち付けてから、十分後凛那の部屋を向かった。
部屋の前に来て障子の外側から声を掛けると、どうぞという何の気負いも感じ取れない声音が返ってきた。
そっと障子を開けた部屋の中では、座卓越しの布団の上で凛那が掛け布団から顔だけを出して横たわっていた。
俺の顔を見るなり楽しげに微笑む。
「逃げずにちゃんと来てくれたのね。ありがと」
「寂しいって言われたら、な」
祖母の死が凛那にとって重く辛い悲劇であることは、彼女が祖母を慕っていたことから自ずと察せられる。
そんな悲しみの淵に立っている時、誰かが傍に居て欲しいと彼女が願うのも当然で、傍に居て欲しい誰かが俺だったに過ぎない。
「来てはみたが、俺はどこに居ればいい?」
俺の方からあえて距離を置くような言い方をした。
凛那は不服そうに俺を見る目を細める。
「質問しないでよ。ちょっとは察して」
「いいのか、本当に?」
聞き返しながら理性で形成されている心の余裕が無くなっていくのを実感した。
下手に出るのが無粋だというのなら、俺の方から彼女の求めている行動を示さなくてはいけない。
俺の問いかけに凛那が頷いた。
こちらの念押しでも凛那が許容するのなら覚悟を決めよう。
それでも過度な期待はせずに座卓を回って凛那の布団の元まで歩み寄る。
「失礼するぞ」
断ってから掛け布団の端を掴んで捲った。
すでに温くなっている布団の中へ身体を滑り込ませて、凛那の傍へ擦り寄って寝ころぶ。
風呂上がりの石鹸と布団に染み付いた若干の汗が混ざった匂いが鼻をついた、と思った瞬間、正対していた凛那が寝返りを打って背中側を向けてしまった。
「凛那?」
「ねえ、こんなことして恥ずかしくないの?」
呆れているわけではない弱気な声音で訊いてくる。
そりゃ、もちろん。
「恥ずかしいに決まってるだろ。でも勇気を出したんだよ」
今まで腕で包めてしましそうなほどの近距離に凛那を感じたことはなかった。
手を伸ばしたい衝動をなんとか抑えていると、布団の中で凛那が身動ぎして 妊婦の中にいる胎児のように背中を丸めた。
「電気、消してくれる?」
「……ああ」
想像よりも弱弱しい声音に胸詰まる緊張を覚えながら布団から片腕を出してかろうじて届いた紐を引っ張り天井の照明を落とした。
途端に暗くなった部屋の中でも、すぐ傍に凛那の温もりは伝わってくる。
「一人だったら耐えられなかったと思うの」
壊れでもしそうな弱気な声で凛那が吐露する。
耳に息が掛かるような声の近さから先ほどより少し凛那との距離が詰まっていることに気づいた。
「あんたがいてくれて良かった。弱いあたしを受け入れて、話を聞いてくれて、傍に居てくれて……ほんとに良かった」
「……ありがとう」
照明を消して紐の先端を手から離せないまま、返す言葉に困ってそう言った。
こんな時に気の利いた一言を思いつくことが出来れば、さぞかしドラマのようなロマンチックな雰囲気を演出できただろう。
けれども俺は物語の主人公でなければ、傍にいる凛那も何の役も持っていない佐野凛那でしかない。
まるで夢物語のように胸の内が温かいが、これは現実だ。
「いつか、あたしが結婚するときにも傍に居て欲しい」
「その時が来たらな」
「嬉しい。ありがと」
安心したような声が耳に触れたと思うと、凛那がまた反対側へ寝返りを打ち、接近していた温もりがちょっとだけ遠のいた。
気づけば照明の紐を掴んでいた腕が動いていた。
布団の端に位置を変えていた凛那の背中に寝返りを打ちながら腕が伸びる。
温もりを失いたくない思いに突き動かされるまま凛那を抱きしめていた。
抱きしめて力の入った腕に凛那の手がそっと置かれる。
「何も言わずに腕を絡めてくるなんて、大胆ね」
「俺の方だってお前に傍に居て欲しいんだ」
思い返すと、春浜に来た初日に凛那と出会っていなければ東京に居た頃の自分のままだったかもしれない。
祖母から民宿を引き継ぐ、という今にして考えると受け身のような形で春浜にやってきて、何もわからないまま祖母の民宿で無為な時間を過ごしていたような気がする。
それでなんとなく仕事を探して職に就いて、東京に居た頃をさして変わらない毎日を送っていたかもしれない。
凛那と出会っていなければ今でも俺は独りだっただろう。
「俺が結婚するときにも傍に居てくれるか?」
部屋の闇が恥ずかしさを消してくれて、普段なら口に出来ない言葉を紡がせてくれた。
だが凛那は俺の片腕に抱かれたまま身動ぎもしない。
俺の言葉が闇に溶けるように音が薄れていく。
それでも凛那から反応はなく、布団の中で沈黙が降りた。
「……凛那?」
「……」
よく耳を欹てると、凛那から寝息が聞こえてくる。
「はあ、言わせやがって」
一切の不安を感じさせない寝息を近くで聞きながら、充足した気分でわざと悪態を吐いた。
離れて欲しくない存在を腕に抱いたまま自然に押し寄せてきた睡気の波に任せて眠りに落ちた。
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