湯を沸かして水にする

「まるでテセウスの船ですね。倅の遺体を掻き集め、腐った場所から切り落とし、新しいパーツを組み合わせる。そこに誰かの魂は入っているのでしょうか。元々の姿形からかけ離れていても、それが同じものだと言い切れますか?」


 腕を頭を身体を足を。げ替えて挿げ替えて、もう最初の痕跡は残っていない。女児の胴体に狐の頭のどこが息子だと言うのだ。それすらも判断が付かないほどかと、彼女の狂乱は計り知れなかった。


 手頃で切断面にできるだけ合う生き物を狩っていたのだ。それももう諦めたのか、今度は肌の色も身長も違うアッシュへと標的を向けている。獲物を胸の前に掲げ、いつ襲おうか算段を立てているようだ。


「倅の名前は何ですか? そもそも、初めから存在しているのでしょうか?」

「……何よ、何よ何よ何よ! 寄ってたかってわたしを責めて! どうせわたしが殺したって言いたいんでしょう!? 息子は事故なの! まだ二歳だったんだから!」


 ――黙って聞いていれば勝手なことを言いやがって。


 彼女の中には、息子を失った以降の罪の意識などない。我が子の風体を保つために、母親が良かれと思って狩りをしているのだ。死体に固執するあまり他の命が見えていない。


「台風の日にひとりで出かけて、川に呑まれたのよ! わたしは何も、やってないんだから!!」

「本当に、そうなのでしょうか?」


 アッシュの煽り文句に激しく取り乱している。両者濡れそぼり視界も悪い。少年はそれでも冷静に女性を観察していた。女は顔を拭うと、華奢な身体で叫び続ける。


「こうしていまちゃんと育ててるじゃない! 息子は帰ってきてくれたのよ!」


 グズグズに崩れている肉塊がそれほど大事なのか、守るように後ろ手に回した。もう待てないと言わんばかりに凶器を振りかぶる。彼女曰く、足以外は必要ないらしいので、無意味な箇所にはこだわりがない。息子と呼ぶそれが欲する場所。そこさえ残っていれば構わないのだ。


 化け物じみた女は容赦なく肉迫していく。だが褐色の少年は動かない。この場合、動けば逆に危険だからだ。彼には分かっていた。必ず間に割って入ってきてくれる人物がいる、と。


「アッシュ!」


 後ろの灌木から俊足で飛び出す人影。それは未成年を絶対に守ってくれる保護者であった。丁重に扱うからこそ、できる行動だってある。突然のことに怯んだのか、対する女は黄疸の瞳を見開いた。


 遠慮なく貫もタックルでぶつかっていく。複数の殺傷を行っているとはいえ相手は素人で女性だ。切れ味の悪い凶器では大人のガタイに致命的なダメージを与える力も暇もない。


「ぐ、が……っ!」

「殺人未遂の現行犯で逮捕する! いまは非番だが、常人逮捕ってのがあってね!」


 幸運なことに、はさみも突進の衝撃で落としたようだった。手錠はないが抵抗はなく泥濘ぬかるみに倒れている。馬乗りに態勢を変えた貫は雨に濡れる女性を見下ろした。今朝見かけたときに気付くべきだったのだ。山から山を長らく徘徊していたことに。すぐに目を塞いでしまったのが悔やまれる。


 栄養失調からか身体は痩せて、どうにか肉付きを保っている状態。細かい生傷は絶えずあり、足裏は黄色く膿んでいた。


「あ、……あ」


 薄い唇から息が漏れる。大の男が組み敷いているのでどこか苦しそうだった。


「ああ!!」

「――っ!?」


 突然奇声を上げたかと思えば、枝のような腕が伸びてくる。しかしそれは貫には向かわなかった。自身の胸を抑え阿鼻叫喚している。


「ど、どうした!? おい!」

「限界が、来たのでしょう」


 そのアッシュの音は、この絶叫の中にあってもはっきりと聞こえた。振り返れば少年が錆び切ったはさみを拾って凝視している。証拠だと分かっているのか浴衣の袖で指紋が付かないよう握っていた。驚くほどしっかり元気である。


 女性はといえば、貫に抑えられている箇所以外で激しくのた打ち回っている。ただし力がないのか男を退かすことはできない。


「限界、って……」

「瞳に黄疸が見られました。おそらく彼女はエキノコックス病に感染しています。狐から人へ寄生虫が移れば、最終的に死に至る。病院で正しい処置をすればあるいは助かったかもしれませんが、……もう手遅れでしょう」


 だからアッシュは、狐は危険だと呈したのだ。山人がエキノコックスに侵されれば、対処のしようがない。感染のタイミングは不明だけれども、彼女の荒振りようを見れば五年以上は経過しているのではないかと思われた。


 今回の頭は比較的古くないだろう。ただ、動物を捕獲するのは技術がいる行為だ。これが最初ではないはずである。


「痛い! 痛い!」


 内臓から全身を這う虫は、初めは無症状である。何とも薄情で物言わぬ生物であろうか。それが数年かけてすべてを侵していく。腹に水が溜まり続け、痛みを伴い悪化するだけ。


 その、限界が来たのだ。死が堰を切って押し寄せてくる。無意識に逃れようと、寄生虫が巣くっている鮮血を撒き散らすために爪で引っ掻いてもどうしようもなかった。貫の顔に、赤い汁が飛ぶ。


「…………」


 冷たい雨とは違う、生暖かい液体。それを指で掬ってみても何が起こっているのか理解が追い付かなかった。瞠目して、じっと手を見ている。


「安心してください、人から人へは伝染しませんから。イズル、助かりました」


 その言葉だけが、彼を現実へと引き戻した。いつの間にやら事切れた女性から身体を退かせば、血だまりが広がっていた。血と雨で濡れ鼠と化した浴衣が借り物であることを思い出して、何と言い訳しようか迷う。とりあえず先に言いたいことはひとつだった。


「風呂、入り直そっか」



          三途の川 編     終幕

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