湯の辞儀は水になる
残念だけれど仕方がない。まだ時間はあるのだ、いまにこだわる理由はない。部屋に戻ってメディアを探れば、見つかった男の子のことで持ちきりだった。すると朝食の前に尋ねてくる人がいる。女将に連れられてきた人物は、この地域を管轄する刑事だった。
「朝からすみません。警察です。突然ですが昨日の夜から朝にかけて、どうされていましたか?」
「うぇ!? 俺、ですか!?」
事情聴取というやつだ。訊くことはあるが訊かれることは初めてだった。この裏で起こったことなのでおそらく宿泊客全員に会っているとは思う。外国人との混血の少年と二人旅は、傍目から見れば多少なりとも怪しく感じるのか、警官は鋭い眼光で睨みを利かせていた。
「イズルは東京の警部補ですよ。失踪事件とは関わりがありません」
「ちょ、待っ! 余計なことは言わなくてもいい!」
いい加減に情報を与えると扱いに窮するはずだ。それに警部補は立場的にそこまで高くない。下っ端がコネクトを持つことはないだろうが、もし今度顔を見合わせることがあった際には変な空気になる場合がある。
「そ、それは、失礼を!」
眼力を抑え、取るものも取りあえず相手は敬礼をする。こうなってしまっては返礼しなければ失礼だろう。こちらも軽く腕を動かして、こめかみあたりに指を向けた。できればもっとしゃきっとしていたときに出会いたかったものだ。
「いえ、いまは休暇で来ているだけなので。お気にせずに。昨夜は二十二時くらいに就寝して、朝のサイレンで目が覚めた、って感じです。証明できる人はアッシュくらいですが……家族みたいなものなのでアリバイ自体はないですね」
一応持ってきていた警察手帳を見せて、身分を証明する。あちらさんも調書を取るのが仕事だ。メモに逐一詳細を書き込んでいた。
「そうですか。ご協力、ありがとうございます。えーっと、そちらは?」
会話はしているし日本語に達者なのは察しているはずだ。それでも腫れ物に触るように少年をちらちら見る。兄弟、にしては似ていなさ過ぎている。
「彼は以前担当した事件の被害者で、自分は監督義務責任者に当たります。デリケートな事件でしたから、特例で面倒を見て――」
「ただの失踪事件にアリバイを訊くのですか? 事件性があったのですね?」
丁寧に情報を開示しているというのにアッシュが口を出す。しかし説明するのも難しいので、これはこれで良かったのかもしれない。ただ不穏なことを発言したので、貫も向こうの警官もぴくりと反応した。
貫にも違和感があった。念のため、で済ませられるような話ではない。警察は無意味な捜査はしないのだ。取り立てて刑事が直接、宿泊客にアリバイを訊いて回るようなことは、特別な事情がなければ行わない。渋りながらも同業者ということで、マスコミに流せる用の、少ない情報を伝えてくれた。
「……ええ、あまり大きな声では言えませんが。ガイシャには刃物で切断された痕跡がありまして。強いて言えば、ナイフのようなもの、ですかね。あまり切断面が綺麗ではないので、何とも言えませんが。可哀想なことです」
被害者の負傷は熊の歯型によるものではなかったようだ。人工物での切断とは、なかなかきな臭い。つまりは人為的な、傷害致死による殺人事件。容疑者はまだ絞られていないのだろう。
「証拠も流されてしまったのでしょうね。虱潰し、というわけですか」
屋外で証拠が少ないとあまり有効な手が打てない。まずは近場から、と考えるのが妥当だ。アリバイと、もし目撃証言が聞ければ万々歳である。
「何か分かりましたら県警にご連絡いただければ助かります。非番の日に失礼しました」
年などは関係なくきちんと会釈して出て行ってくれるところが田舎っぽい。都会では目立つ杭こそ先に叩かれる。ここで生きようとは思わないが、居心地は悪くなかった。
「二泊三日と言いましたが、旅はどうします? 捜査の手伝いに切り替えますか?」
「ハッ、冗談! せっかく旅行に来たんだ。休みを満喫して……、満喫して、満喫する……。たぶん」
アッシュの問いは笑い飛ばしたが、どこかにわだかまりが残る。警察の性なのか新聞やテレビに映るニュースを目の端で追ってしまう。被疑者はまだ捕まっていないどころか見当さえもついていない状況だ。一度の犯罪で終わる確証はないからこそ、行き着く先が気になる。
「地方の夜間は娯楽が少ないですよね。それに街灯もない闇の中では、オレはすぐに紛れてしまいそうです」
だから夜間は外に晒されることができない。少年、と口にしてしまえば同じでも、被害者とは十年以上離れている。が、それでも大人でないアッシュを気にかけないことはない。
「未成年なら条件は合うのでしょうか。それとも問題は腕? 肌の色は重要だったりすると思いますか?」
「……もしかしてアッシュ、お前――」
「懸念があるのなら手を貸しますよ」
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