湯上がりには伯父坊主が惚れる

 ふたりで入浴場に行けば、いつもながら貸し切り状態だった。がらんとした湯屋に静かな水の音だけが木霊する。今日は張り切って露天風呂から、と意気込んでいたら、どうやら先客がいた。ふたりだけの世界に急に現れた人物に無意識に驚きの声をあげてしまった。


「あっ!」

「あら?」


 しかも入浴していたのは、若い女性であった。長い髪のせいで顔は隠れてあまり見えない。けれども、化粧をしていないにも関わらず美しい女性で、どこか上品さを醸し出している。貫よりかは年上だろうか。陶器のような白い肌が湯に溶けていた。


 貫は急いで目を覆って謝罪を述べた。次いでタオルを大事なところへ持っていく。警官がここで通報されればこの先の人生が終わってしまう。何とかこの場を切り抜けないか、頭の中で計算式が回り始めた。


「あ、あああ、ごめんなさい!」


 入口の暖簾はしっかり確認したはずだった。それとも時間帯で男女の入浴場が交代するシステムで手違いがあったのか。今朝は旅館の裏で遺体が見つかったばかりだし、従業員がバタバタしていてもしょうがない。


「間違えちゃったかしら。この時間、誰も来ないからぼーっとしていたわ。こちらこそ、ごめんなさいね」

「表は男湯でしたよ」

「アッシュ!」


 あとからやってきた少年が横槍を入れる。彼は相手の性別が違っても態度を変える様子はなかった。これだから子どもは空気が読めなくて困る。急所はタオルを纏っているようだが、もうひとつ守るべきものがあるので保護者は慌てて目線を隠した。


「あらあら、おかしいわねぇ。今日はそうなのね。息子が待っているから、わたしは失礼するわ。ごゆっくりどうぞ」


 激しい水音が聞こえたかと思えば、湿った足音が男どもの横を通り過ぎていく。女性の身体の一糸纏わぬ姿は誰にも見られることなく終わった。


「……あの、見えないのですが」


 いつまでそうしていたのだろう。時間にしては一瞬だったとは思うが、貫にとっては永遠にも感じた。


「バカ! 見せないようにしてるの!」

「もういないと思いますよ。人の気配がしません」

「えっ?」


 そうっと指を解いてみると、確かに誰もいない。先程まで女性がいたとは思えないほどの静寂だった。気付けば燃えるような朝焼けが空を染め上げている。どちらが紅葉か分からなくなるくらいの景色だった。蒸気燻る水面にも楓の葉が多く散らばっている。


「イズル、今日の風呂はやめておいたほうがいいかもしれません」

「ええ!? どうしたよ、急に?」


 天空を見上げていた貫とは逆に、アッシュは温泉を見下げている。美人さんが入っていたから、ではなさそうだ。何かを発見したのか、どうにも真剣な顔をしていた。こちらは外気に晒されて若干の寒気がしてきた頃である。


「動物の毛が入っています。形状からして犬、猫、猿、狸、狐の類だとは思われますが……。狐の場合は、特に危険です」

「は? どれも可愛いじゃねぇか」

「野生動物には人の免疫力では太刀打ちできない伝染病を持っている個体もあります。かかりつけ医が近くにない状況では、少しでも危ういことは避けておくのがいいかと」


 アッシュの病気が分かったこともあり、体調面を考えるのも一理ある。滅多にない症だ。何もなく過ごしていれば健康体に見えるが、ひとたび傷を作ればそれが浅くても死に至る可能性が存在する。


 温泉に来ても考え事をするのは癖のようで、顎に指を遣ってひとりでブツブツ喋っていた。


「しかし、柵を乗り越えてくるのでしょうか? どこかに穴があるのかもしれません。女将に報告したほうがいいのやもしれません……」

「動物の毛って、あの赤いのか?」

「それは……ただの刺繍糸ですね」


 見慣れない細長いものが一本、湯の上にぷかりと浮かんでいる。揺蕩うそれはアッシュの言う通り毛羽立った糸だった。


「ただの刺繍糸……が、どうしてこんなところに?」

「日本人にも身体を洗わずに入浴する者がいる、ということでしょうか。何にしても不潔です」

「んー、まあ、そうかもな。今朝は……シャワーだけにしておくよ」

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