湯に入りて湯に入らざれ

 秋の日は釣瓶落とし、とのことわざの如く、日が暮れるのは早かった。部屋の窓から川辺を覗いていればすぐに食事が来たし、テレビを見ていれば暮夜は密かに訪れる。途中で布団は一組か二組か選べるとか不毛な会話をしたのには納得いかないが、おおむね満足のいくものだった。娯楽は少ないとはいえ、ここまで悠々と平日を過ごせるのも久々だ。


 貫は晩酌に熱燗をいただいたので、早めに眠気が来る。ぴったりくっつけられた布団を少し離して床に就くことした。


「アッシュー、俺は先に寝るぞー。明るくても寝れるけど、お前どうするー?」


 たかが一合呑んだだけなのに思ったよりアルコールが回っている。布団に入り込めば容赦なく瞼が襲い掛かってきた。窓の傍で景色を見ていたアッシュに声を掛けるにも、いつもよりいくらか大声になっていたようだ。


「イズル、うるさいですよ。秋夜なのだから、虫の声でも楽しみます。ああ、電気は消しておきますので、遠慮なく眠ってください」

「ん、そうか。じゃ、……おやすみー」


 アッシュが立ち上がって消灯するのを見届けてから、貫は眠ることにした。明日に関しては特に予定もない。車でどこかに出かけるのもいいだろう。金はあまりないけれど少しの贅沢くらいは許されるはずだ。こういう息抜きもたまには必要なのである。


 警視庁に持ち上げられてから、昼も夜も忙しくて走り回っていた。そういえば靴底も擦り減ってきたので近いうちに買い替えなければ。これでは何かあったときに疾駆できない。もっと言うならスーツだっていい加減に放り投げていることが多いので皺が寄ってくたびれていた。いや待て、買い替えるならまずは下着だろうか。他人から見えないところはどうしてもなおざりになってしまう。捨てるにも捨てられず、箪笥の奥に眠っている下着たちがあった気がした。


 そう思っていたら、どこかでパトカーのサイレンが聞こえてくる。仕事を夢にまで見るとは考えたくもなかった。


「イズル、起きてください。イズル!」

「うあ、……何だ? ここは……?」


 まだ東雲の、御空色みそらいろが視界に映る。夜かと思ったらすでに朝に差し掛かっていたらしい。アッシュは隣で貫の肩をゆすっていた。このような早朝に何事かと考えたが頭が回るはずもなく、ぼんやりと天井を見上げるだけだった。自分が寝ている場所を覚えてすらいない。


「警察車両です」

「えっ! 仕事……寝坊したか!?」


 活舌悪く飛び起きれば、やっと休暇に来ていたことを思い出した。それに寝坊したくらいではわざわざパトカーが警察寮を包囲することはない。夢と現実の区別がつかない中でのサイレンは心臓に悪いので、新人いびりにはちょうどいいかもしれないが。サッと血の気が引いて、最悪の寝覚めだった。


「夢かと思ったら、夢じゃなかったのか」


 窓の外にはパトカーが数台停まっていた。目を擦ってみてもモノクロの車体が消えることはない。赤のランプとブルーシートだけが、異質に色を放っていた。早い時間帯なのでそこまでうるさくはないが、ピリピリしている空気は伝わってくる。


「子ども、ですね」


 旅館と川の間に挟まれて、数人の警官と検視官たちが行き来している。検視中の遺体をちらと覗けば、まだ小さな体躯が見て取れた。川を流れたのか皮膚は膨れ、ところどころに切り傷がある。それよりも一番目立つのは、なくなった左腕である。薄くなっているが大量の血痕が衣服にあり、肩のあたりから切断されていた。


「熊にでもやられた、ってことか?」

「どうでしょう。それにしては、目立った外傷が少ないように感じます。加えて、熊であれば最後まで捕食されてしまうかと」


 自然淘汰に巻き込まれたならば、無力な人間はひとたまりもない。特に子どもは、残念ながら生き抜く術はない。


「管轄外だし、あまり口出しはできないな……。捜査は地元の警察がやってくれるだろ」


 同業者は同業者なりに縄張りがある。みんな仲良く事件解決に至ろう、とはあまりならないし、そもそも他県の事件のことはこちらに周知されない。残っていた眠気をあくびに具現化して貫は、窓辺から身を引いた。


「お前はまさか、一晩中起きてたわけじゃねーよな?」

「ちゃんと寝ましたよ。誰にでも休息は必要です」

「そか。じゃ、俺は朝のひとっ風呂でも浴びてくるかな。アッシュも来るか?」


 凄惨な現場を目の当たりにしても、慣れからなのか狼狽えることはない。焦ったところで人の生死が変わるわけでもないからだ。替えの下着はいくらでもあるし、やることは温泉を楽しむくらいである。

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