ぬるま湯に浸かる

 アッシュは隅に追いやられた地方新聞を広げて記事を読み込んでいる。女将が言い淀んだにも関わらず説明をしたのは、単なる仕事熱心からではない。どうせ明らかにされてしまうからだ。この近くであったことは多数のメディアで紹介され、田舎であるがために噂は早く広まる。


「人の口に戸は立てられぬ。幼児の失踪事件、だそうです」


 少年が、保護者に新聞を手渡した。灰色と黒で形成される一角に、あどけない写真が載っている。二日前キャンプ中に失踪した男の子だった。手の甲に火傷を負ってしまい、親が治療道具を取りに行くため目を離した一瞬の出来事である。


「おお、ここまで来て事件の二文字を見るとはな……。しかし、アッシュも子ども認定されてるとは、ウケるな!」


 声は低いが意外と童顔なのだ。黙っていれば歳若い青少年にも見える。知識だけは老いたる馬ほどあるのだが、外見から察することは出来ない。開放感がそうさせるのか、貫もたまさかにケラケラ笑った。思い起こしても、腹を抱えて笑うのは何ヶ月ぶりか分からない。


「一応、この国では未成年扱いですからね」

「まぁ、そうか。この子も早く見つかるといいな。……温泉、入りに行くか?」


 他の地域まで面倒を見ていたらこちらの身体が持たない。微妙な笑顔を作りながらもアッシュを温泉に誘った。事故か野生動物か、そのどちらでもまだ明るいうちなら危険は少ないだろう。


「構いませんよ。日本人は入浴の際、清潔にしてくれますし」


 体躯は細いが、幸い、病気にはあまりかからなかった。日本人は確かに綺麗好きと言われており、それを肯定してくれているあたり、アッシュの故郷もそうなのだろう。海外の沐浴事情は知らないけれど、茶色い川に浸かったり雨水を用いたり、雑多なものが多いイメージだった。きちんと風呂場が整備していれば、そこに行く者もいるだろうに。


「イズルと一緒に入浴するのは、初めてです」

「あー、そうだな。でもそのセリフ、できるなら……可愛い女の子から言われたかったよ」


 彼女ができたら温泉デートも視野に入れていた貫であった。がっくりと肩を落とし、悲しくも男だけで大浴場に浸かる。特に会話も通常通り。風呂に着くまでにすれ違う中年の仲居から嬉々とした目で見られたことだけは覚えているが、どうにも貫の趣味ではなかった。


 湯煙にまみれる白と黒の身体。広大な空間で隣同士は気まずいので適度に距離を開ける。車内ならさほど気にならないのに、こうもスペースがあると困ってしまう。しかもこの時間、平日というのも相まって客は彼ら以外にはいなかった。


「露天風呂もあるのか。夜も絶景なのかもなぁ」


 ふと外を見れば、ガラスの向こうにもお湯が溜められていた。夜間入浴用に竹垣にライトが添えられている。またさらに奥には楓が垣間見えており、紅葉狩りができるようであった。昼過ぎでも圧巻な景色だ。夜にライトアップされても、さぞかし素晴らしい眺望なのだろう。


 しかしそれも、現在は堪能できない。本日の夜の楽しみは夕食と、だらだらと見るテレビくらいなものだと思われた。


「いくらイズルでも素手で熊は倒せないですからね」

「俺を何だと思ってるんだよ……」

「少なくともオレよりかは、剛腕の警官です。冬眠前の熊がこの時期よく出没しますから、どこかで人を襲っているかもしれません」


 温泉に入っているというのに、背筋が凍るようなことを言う。秋の旅行は間違いだったか。それでもこの期間に出かけるくらいしか、少年の気力を回復する方法を知らなかった。


 何の気なしに、アッシュの胸中に風が吹き抜けているように感じる。己の存在が分かってしまっただけに、心の器が一層殺風景になってしまったのだろうと貫は感じていた。こういうときは温かい湯に身体を浸せば、おのずと満たされるのではと考えたのである。


「野生の動物は、どうにもならないときがあるからな。子牛、くらいとかなら、なんとかできるかもしれないけど。……あ、そういえばお前、年始の傷はもう大丈夫なのかよ?」


 アッシュの骨身をまじまじと見て、あのときの傷を探す。できるだけ慎重に少年の身体をおもんぱかった。軽い火傷跡はあれど真新しいものはない。血友病のこともあるし、今後はなるべく怪我はさせられなくなった。


「いまさらですが、病院で処置をしてもらいましたし、これ以上悪化することはありません。火傷以外の小さな傷も塞がっています」

「それって……大丈夫、なのか?」


 アッシュは少し身体を浮き上がらせて、左脇腹を示す。そこには五センチほどの切り傷跡があった。いつできたものか定かではない。何かが刺さったのか、深く切ったのか、病院で適切な処理をしていたので命は取り止めている。


「イズルが案ずることではありません。乗り越えることができていないなら、最初からここにはいませんよ」

「そ、そうか。問題ないなら、いいんだ」


 それきり、ふたりは黙ってしまった。耳心地のいい流水の音と、硫黄の匂いが鼻にツンと来る。どこかで運命が間違っていれば、会話すらもできなかったのだ。どこかがズレていれば寝食を共にすることもなかったと思うと少し感慨深い。


「……もうすぐ日が暮れるし、そろそろ上がるか」


 だが感傷に浸ることはない。気の利いたセリフを吐けるほど親密かと問われれば胸を張ってイエスとは答えられないからだ。普段通りに戻るための提案は、湯気の中にゆっくり溶けていった。

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