十一月(サバトゥ)

白湯を飲むよう

 木枯らし吹き荒れる晩秋。貫は滅多にない理由から、有給休暇を取っていた。いつもながら無味乾燥なアッシュを無理やり車に押し込め、目的地も告げぬままタイヤを滑らせていく。十数キロほど進んでから、これは只事ではないと少年が口を開いた。


「どこへ向かっているのですか? 新たな事件、ではないですよね?」

「…………」


 貫は黙って、高速インターチェンジへ切り替えた。常に生活費を計算している彼からは考えられない行動だ。先月の最後の手紙から機嫌があまり良くない。ひとりで考え込むことが増えていたので、ついに見限られるときが来たのかとアッシュは察していた。


「このまま進めば東京から外れますね」


 さすがに山奥に捨てられると生きていける可能性が薄くなってしまう。それも仕方ないと受け入れながら少年は、貫の行く先に従った。どうあっても抵抗することはない。


「温泉、行くぞ」

「…………はい?」


 しかし返ってきた言葉はアッシュの団栗眼を珍しく見開かせた。不本意ながら、貫の口からそのような単語が出るとは、それに加えて自分も同行させられるとは思ってもみなかったからだ。


 温泉。


 と確かに貫は言った。少年の記憶が正しければ、湯浴みだ。風呂に娯楽性を見出せない十代からすれば、保護者の想いはすり抜けていくばかりである。もっと言えば、貫ひとりで観光に行ってもらっていても別に構わなかった。ないものとして扱われる期間が長かったせいでアッシュは、旅行に連れて行ってもらうとの発想に至ることがなかったのだ。


「その代わり安宿な! この前は、その……色々あったからさ」


 明らかに会話の頻度が少なくなった彼らに、打開策として貫は裸の付き合いを発案していた。事前に伝えては拒絶されるのではと不安になったので、あえて半強制的に付き合わせた。おかげで滅多に見せない驚きの顔を見ることができたようだ。


「そのために、有休を?」

「ま、上から取れっても言われてたし、ちょうどいい機会だ。二泊三日の男旅。久し振りにゆっくりさせてもらうよ」

「……そうですか」


 しばらく何もない高速道路をひた走って、紅葉の美しい山へ到達する。大きな道を外れたそのもう少し奥に、寂れた山荘があった。近くには幅広い渓流があり風情を感じられる。隠れ家的といえば聞こえはいいが、実際のところは忘れ去られた場所なだけであった。


「湿った匂いがします」


 楓の落ち葉と水を含んだ土が織りなす微生物の匂い。日本人は古来より自然と共に暮らしていたので、こういうのが落ち着くと言うのだろうか。ずっと生活の一部だった石壁と、同じような香りだ。


「見た目とかはボロっちいけどよ、中はたぶん、大丈夫。予約サイトでは、綺麗な写真だったし」

「現代の技術では、加工も可能ですけどね。どこでも構いませんよ、屋根があるだけで充分ですから」


 嫌味ではなく本心からの言葉だったのだが、どうしてか貫は苦笑いをして応対した。とりあえず落葉が目立つ駐車場に車を停めて、トランクから手提げカバンを取り出す。男ふたりの小旅行だ。あまり荷物はない。


 アッシュの目を盗んで纏めたものだが、何を持っていけばいいか分からなかった。そもそも彼の物が少なすぎるのだ。そういう自分の荷物も、下着くらいしか入っていないのだが。


「ようこそいらっしゃいました」

「予約した、成神です」


 こじんまりした玄関を潜れば、初老の女将が出迎えてくれる。カバンを持ってくれようとしたがそれは丁重に断り、部屋の案内だけをしてもらった。警戒していたより、従業員の着物も内装も見目好くされている。


 一番安い部屋なので十畳ほどしかないが、男ふたりなら充分過ぎるほどだ。もとより趣味の少ない彼らだから逆に、持て余してしまう大きさだった。


「お食事は十八時頃にお部屋にお持ちいたします。申し訳ないのですが、現在お風呂は二十時までとなっておりますので、何卒ご了承くださいませ」

「え、あれ、深夜一時までじゃ……? あー、いえ……分かりました」

「温泉の終了時間、早いのですね」


 こちらが疑念を持って答えると、怪訝そうな顔をしたのは女将のほうだった。それを察して、風呂の掃除やら従業員の働き方改革やらと色々と思うところがあるのだろうと勘ぐっていたけれど予想外の答えが返ってくる。眉間の皺をより一層刻んで、言いにくそうに返答する。


「ご存じない、ですか? 近頃、事件が、ありましてね。物騒な世の中ですから、お客様の夜間の入浴や外出、特に……お子様は避けていただきたいのです」

「あー、なるほど」

「防犯などといった安全面はなるべく配慮しておりますので、ごゆっくりお過ごしください」


 頭を下げれば彼女は、そそくさと出て行く。他に仕事があるようにも思えなかったが、プライベート空間に他人をずっとのさばらせてもいられないのでそれが最良だとも言えた。

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