滞滞泥泥
その真理が暴かれたのは三日ほど過ぎたあとだった。被疑者であるエナが罪を認めているのでてっきり裁判にでも持ち込まれるのかと思ったのだが、被害者側からの要望により示談へと向かっているのだという。
そこまでは引っかかる点は少ない。表向きは、目立ちたくないといった理由などから、害を被った側が事件の取り下げを望む場合もあるからだ。弁護士が介入した際はもっと示談の確立が上がる。朋喜とエナにとっても今回の件に関しては前科が付かないので好都合であった。死亡者もなくすんなりと話は進んだので、逮捕歴が残るだけでこれもすぐに忘れ去られる事件だと警察諸君は興味をなくす。
「不起訴まで機敏でしたね」
窓から射す夕日が、刑事課に柱の影を伸ばしていた。その端のデスクで書類を纏めながら貫は、アッシュの低い声を聴く。先日購入した古書もすでに終盤。あと数ページといったところだった。茶褐色の滑らかな指が軽快に紙をめくっている。そこまで行けば残っているのはあとがきだけなのではないか、と呆れたような考えが一瞬貫の頭を過ぎった。
いやいや、少年がどこまで読もうがどうでもいい、と思い直して保護者は疑念を振り払った。
「ま、そこらへんは俺らの知るところじゃねーな。あっちとしては起訴したかったんじゃないかと思うけど」
「検察は起訴するのが仕事でしょうからね。さて――」
アッシュは文字を読み終えて丁寧に本を閉じる。古紙が含んだ空気を吐出すれば、彼の短い黒髪が軽く揺れた。カビっぽい湿った図書ともこれでおさらばである。
「イズルは分かりますか、
「リ、ギ、ジ……?」
ニュアンスからしてお堅い文字のようだが、貫にはまったく見当がつかない。適当にあしらおうとして痛いところを突っ込まれるくらいなら、こちらは無知で構わない。
「ご存じだと思いますよ。小学校で習う漢字にも含まれますし」
「は? ……いや、意味が分からん」
「例えば、林。比、羽、双」
アッシュは告げた漢字を指で机に書いていく。これが埃まみれの表面であったなら浮かび上がって明確なのだが、生憎と、今月はそこまで塵が積もっていない。それゆえにアッシュも分かりやすく、意味が通じやすいものを選んだのかもしれなかった。
「あとは品字様といって、同じパーツを三つ重ねるものもありますよね。品、森、蟲」
ついでに加えるなら四つ以上の漢字もあるのだが、ここでは必要ないと判断し少年は指を止める。そこまで話せば日本人の彼なら理解力が高くなるだろう。これほどまで識字率が高い人種は珍しいからだ。そう言えば、と切り出していく。
「今回の被疑者の配偶者、名前を覚えていますか?」
「む、被疑者は林 エナさん。の、旦那さんは……えーと」
もう終わったと思って片付けていた書類を再び繰る。寸前でシュレッダー送りを免れた紙たちは、よほど嬉しかったのかすぐに朋喜の名を提示してくれた。つい先日まで笑いながら会話していた人物なのに、関わりが薄くなるとさらっと記憶から消えていくものなのだと改めて実感した。仕事のこととなると尚更だ。
「林 朋喜」
書面で見る横書きでは特に違和は感じない。けれどわずかに既視感が強かった。それは自分の名前を見ても覚えなかったものだろう。再度口の中で名を詠唱したことで、やっと引っかかりを見つける。
「二つ、ある」
「そうです。彼の名前はいわゆる、理義字で構成されています」
林も朋も指でなぞってみれば、ほぼ同じ軌跡を描いて出来上がる文字だった。その中で喜だけが違和感を放っている。その一文字をなぞっている途中で、同じ軌跡を通らないことに気付いて貫が指を止める。
それを見て取って、アッシュは付け加えた。
「喜ぶ、の新字は漢数字の七を三つ重ねたものですね」
「あー、居酒屋とかでよくあるやつだ! 見たことあるかも」
「親からの意図はそこまで深くないかもしれません。或いは本当にご両親も理義字に魅せられていたのかもしれませんし。㐂は出生届に使えませんから。しかしその鏡文字のような美しさに、少なくともトモキ自身は心奪われてしまったのだと思われます」
強いて言うなら喜に関しては左右で線対称に匹敵するのだが、混乱させる恐れがあるので貫には黙っておいた。
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