喋喋喃喃
「あなた!」
「エナ! どうしてこんなことに……!」
エナは被疑者から咎人になっていた。てっきり本日中には一時帰宅できるものだと考えていたが、厚いアクリル板越しに夫婦が寄せ合う姿はとても居た堪れなかった。
「罪を認めたか、取調官が脅迫したか」
「滅多なこと言うなよ、アッシュ」
朋喜の後ろで控えていた警部補たちが、小声で口を開く。確かに留置されるまで異常なまでに早かった。自首でなければ少なくとも一日くらいはかかると思っていたので、現場の警部から自分たちの行先を聞かされたとき驚愕したものだ。
「その、……ごめんなさい。強盗、だったの。だから、その……」
私がやりました。
と、実際記憶のないエナには言い難い。しかしあの場で認めてしまった以上、前科が付くのは免れないだろう。何のために謝っているのか分からなくなる。
「違うだろ」
「……え」
後ろに待機している貫たちは、朋喜の瞳が冷たく光ったのを知らない。疑問符もなく違うと言い放った夫を前に、エナは狼狽する。
「あれ? でも荒らされた形跡って……」
「強盗、ですか。けっこう無理矢理な条件を出しましたね」
不意に違和を感じて警察二人はそれぞれ顎に指を遣った。頭を捻る貫の横で、アッシュは長い睫毛を伏せ、深く考え込んでいる。
当事者の夫婦は顔を寄せ合って会話を続けていた。
「刺されたのは男だって聞いたぞ? 何の関係もないことないだろ?」
「え、あの、その――」
「いい加減にしろよ!? だいたいエナは! アナちゃんが人、殺してからおかしくなったんだ! こっちの話もろくに聞かないし、いつだって上の空じゃないか!」
聞き覚えのある名前を耳にして、無駄話に花を咲かせていた貫とアッシュは朋喜に注目を集める。
アナ、との女性の名に、ホスト。それはあの雨の時期に起こった、無残な殺人事件を思い出させた。
「アナ……、夏目 アナ……?」
彼女はすでに刑も確定し、刑務所で罪に服している。親友を刺した悲しき乙女は、いまは冷たい塀の中だ。よくよく見ればエナの顔は、アナに酷似していた。ただし姿形が似ているという理由だけでは、収容には至らない。
「おかしく、なったって……。あんなことがあったら……誰だって――」
「家族が罪を犯したって知って、ショックだったんだろ! 寂しさを埋めるために、己を慰めるために、アナちゃんみたいに外で男作ったんじゃないのか!?」
「ア、アナは関係ないじゃない!」
「関係なくないよ! 自分にとっては大切な家族だ! アナちゃんも、エナと同じように愛おしく思っているのに……! 男と会ってたなんて、本当にアナちゃんそっくりなんだから」
最後の言葉は冷たく、いやに落ち着いて聞こえた。ある人は怒りの一定を過ぎると己を客観的に見る場合がある。朋喜もその人種だったのだろう、と警官らは留飲を下げた。教師という立場の人間は完全無欠に見えるものだ。
それ以降は誰も言葉を発する気になれなかった。エナも目を円くし口をポカンと開けて、夫を見つめている。夫婦関係は、経験したことのない貫とアッシュには理解できない。まだ恋を知らない少年なら尚更だ。本だけの生活では掴めない胸の内だってある。
「トモキ、そろそろ時間です」
ただこの状況では、彼の言葉が打開策となった。十五分の面会時間はいつの間にか経っており室内に涼やかな低音が響く。気になる単語は多くあったがいまは言及するものではない。警官自身が規律を破ってまでプライベートな話題に首を突っ込むべきではないのだ。
その言葉で我に戻ったのか、朋喜は黙って部屋を後にする。もうすでに夜も更けているし、彼には明日もある。エナの身柄にはどのような明日がくるのか、当人にも見当が付かない。夕食の準備が途中だった、と彼女はいまさら関係のないことだけを思い出し、どうにか過去に返れないかと淡く願うだけだった。
「刑事さん方、案内していただいて、ありがとうございました。エナのことは、明日以降ゆっくり話を聞いてみたいと思います。お見苦しいところを……すみませんでした」
「ああ、いえ! これも仕事ですから」
犯人を捕らえるのも仕事だが、その家族のケアも警察の仕事だ。今回ばかりはイレギュラーな付き添いだったけれど、それはいつだって変わることのない事柄である。若干居心地の悪さを覚えたことは内密に、何も罪を犯していない者には柔らかい笑顔を向けた。アッシュは相変わらず不愛想なのだが。
「その、もしかしてもうご存知かもしれませんが、アナちゃん……夏目 アナは妻の双子の妹なのです」
「そ、そうでしたか」
湿った臭いとともに呼び起される苦い記憶。血溜まりは雨に洗い流され、錆び臭い都会の排水口に飲み込まれていく。捕まえたのは何を隠そう、目の前の貫であることを朋喜は知らない。ゆえに、すでに関係性については気付いている。それでも、こちらがそこまで告げるべきではないだろう。
「残忍な事件を起こした人でも、やはり家族ですから。エナは相当堪えたのかもしれません。自分では支えきれていなかったのでしょう。仮にも自分の妻ですから、強盗をつい……なんてことじゃないと思っています。事件前のアナちゃんのように、きっとホストに熱を上げて。それで同じように、刺してしまうなんて……」
「トモキ、アナが殺害したのは女性ですよ?」
頭を抱える朋喜が最後、あらぬ推理を述べたのでアッシュはそれを否定した。鮮明に目撃した当事者は、彼の錯誤を正しく導いてやる。ニュースでどのように報道されていたかについては記憶が薄れているが、第三者というのは自分の都合のいいように解釈するものだ。朋喜とて、脳内で立てた勝手な道筋を当て嵌めた可能性がある。ただしどこからどこまでが真実で、どこからが妄想かは他人では量れない。
「え……? それは、本当ですか?」
朋喜は深い悲しみから這い上がって、動揺と焦りの反応を示した。小さなボタンの掛け違いを指摘されただけで妙に焦慮している。
義理とはいえ家族の罪であるから思い違いは避けたいのでは。と、こちらも勝手に合点をさせてもらうことにする。
「アナちゃんは、いまどこに?」
「「……」」
それにはどうしてか、二人ともすぐには応えられなかった。ここでの妹の心配は、想定になかったのである。
「え、えっと、あの?」
「あっ、ごめんなさい! 確か……」
手短に刑務所の名と場所を告げる。夜の帳は降りているので今日はもう面会にはいけないが、いつか相見えるために情報収集は不可欠だ。礼だけ言って朋喜は帰路に着くことにした。
これ以上は、警察の世話になるわけにはいかない。
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