絵に描いた地震

「あ、ちなみにモナ・リザ彼女はスフマート技法で描かれていましてね……っと、これは余談でしたかね?」

「……質問するのは、こっちだぞ」

「おっと、失礼しました。何でも訊いてと言ったのに、これでは嘘吐きになってしまう」


 少し凄んでみたら、肩を竦めて中年の男は応える。年上だからなのかこちらの牽制などには全く動じない。そもそも恐怖というものと、かけ離れているようにも見えた。


「…………」


 逡巡は、一瞬の隙を生む。それは相手にとって好都合であることはいつだって知っていた。分かっていた。そのはずなのに、貫の口からは訊くべきことが出てこない。知っている、気がするからだ。彼の中の正解を聞けば、確立すべき正義だって飲み込まれてしまう気がしたからだ。


「どうしたんですか? せっかく人がしおらしい態度を取っていると言うのに。では他の話題を――」

「名を、訊いてもいいですか?」


 次いで声を発したのはいままで黙りこくっていたアッシュであった。ここへ来て何を言い出すのかと貫は思ったが、当初の目的としては合っている。気持ち、血色が悪い。土色の肌をさらに土気色にしていた。


「相方さん、やっと喋ってくれたね! 多国籍になっているってよく言うけど、警察にもいるものなんだねえ。バディはいいよね! 刑事ドラマの鉄則だ。でも……ちょっと若すぎない? ボクはてっきり、新しい商品かと思っちゃったくらいだよ」

「な……っ!」

「答える気がないなら、こちらから提示しましょう。空藤くどう 旭比あさひ、で間違いないですね?」

「…………」


 反論する貫を抑えて、アッシュが個人の特定に入る。本人からの証言に重きを置くことを第一優先にしていたが、少年の言う通りこちらから仕掛けるべき場合もあるだろう。どうしてかNは、この質問だけ答えようとしなかった。


 しかしその核心を突いた問いにはさすがに興味を示したようで、ちらちらと様子を窺っていたのを止めて肩から振り返った。


「凄い! そこまで分かっちゃうんだ! ボクの息子と同じくらいなのに、偉いね!」

「息子!?」


 ――まさか、その子ももう。


 と、貫は最悪の事態を考える。身近にいる者を手に掛ける犯罪者も少なくない。それに彼は子どもの血液で作品を作る異常者だ。


 いいや、待て。先程Nは自分の倅と同じくらいと言った。比較対象がなければそのような表現も出てこないはずだ。


 目の前の男が飄々と幸せな結婚して子を儲けていた。衝撃だ。内なる獣の存在を知られずに、いままで生活していたのだろうか。


「あ、そんなに変な目で見ないでよ? 息子と言っても、実は長い間会ってないんだ。あの子は先天性血友病だったから、材料にはならなくて。妻と一緒にペルシャ湾に捨てちゃったから。生きてるか死んでるかは分からないけど」

「……人でなし」


 ぽつりと言い放ったのはうら若い少年のほう。彼がここまで人を非難する言葉を選んでぶつけたことはなかった。しかしそれでも、言霊に恨みや憎しみを感じることはなかった。ただ冷たく、それでいて悲しそうだった。


「えー、そう? でも一般的に見れば、ボクと一緒にいるほうが不幸に映るんじゃない? まあ、考え方は人それぞれだし。人として形が保てているうちは、人間社会の常識を把握しても損はないからね」


 どこか自分以外にも語るような口調だ。それを最後に興味を失ったのか、N――もとい朝比は三度みたび絵の作業に戻る。少し固まり始めたのか、粘り気のある水の音が聞こえる。


「しかし貴方は健常者、なのでしょう?」

「…………どうして?」


 顔色は分からない。が、声質だけは固くなった。筆の先が固まるのも気にせず、手を止めて耳だけでアッシュの答えを待っている。続きが描けないほど期待に胸を膨らませている。だが誰も、己の本当の心など分かるはずもない。


私はI'm変わったことはしていないnormal。メッセージを残したのは貴方自身です」

「そうだね」


 ここまでは誰だって言ってのけられる。社会を真っ当に生きている人間にしてみれば、自分の行動は外道か即身仏にしか捉えられない。問題はこの少年がどのように感じてくれるかだ。芸術は毒であるがために多くの人の胸を穿つ。穴傷にはそれ相応の何かを詰め込まなければいけない。


「崇められるでもない、ただ隣にいる人になれればそれで。世間に静かに埋もれていければ、それで充分だった。何も特別なことはしていない。けれど、隣人は隣人の趣味に口出しをするのです」


 隣にいる人物で、己の安寧は変わってくる。ぬくぬく暮らしたい願望から他人のプライバシーを探ることだってある。嗜好が合えば問題なし。たがえば処刑されるのみ。


 朝比は世間を知っている。伊達に壮年になるまで世界を見てきたわけじゃない。捻じれた世界観は彼自身が良く分かっている。

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