猫でない証拠に竹を描いておき

 ――普通に生きているだけなのに、どうして非難されなきゃいけないのか。どうして神格化されなきゃいけないのか。


 嫌ってくれるならまだマシなのだ。こちらの本質も知らない輩から好かれるのが、一番厄介なのである。


「信者を嫌うことで、自身の平凡さを保とうとした。けれど……生き辛くしたのは貴方本人ですよ」

「……は?」


 違う、最後の一文は聞きたい言葉じゃない。


 朝比はついに筆を落として立ち上がる。丸い木製の椅子が、軽く吹っ飛んでいった。


「違うだろ!? せっかくいいところまで来てたのに! やっと……、やっと現実が直ってきたと思ったのに!!」


 ペンキ缶が倒れて、血液が宙を舞う。強烈な鉄の臭いが蔓延した。イーゼルもカンバスも衝撃を受け、落ちていくのに気にも留めない。芸術家としてのあるまじき行為でも、激情には敵わなかった。


 感情を荒げたのは何年振りか。ひとりで黙々と作業する間は、ある程度は満たされていた。情報媒体には乏しいからどこまでNの名が知れ渡っているのか予測は付かないが、たまに来る売人から度々称賛を貰っていたのだ。ようやく認められた感じがして、内心ほくそ笑んでいたのだ。


「根底には、はしたない他者承認欲求! 己を否定しているのは己自身でしょう!?」


 アッシュはあの聖女と同じ理由で、画家を拒否した。美しくない。彼はいつから、薄汚い欲求を望んでしまったのか。そう思えばベルと朝比はお似合いである。


 足が付けばまた名前を変え同じようにひっそり生きるだけと、旭比は思っていた。そうやって逃げて、またどこかで生きている証を残していく。少年少女を題材に選んだのは、すでに戻らない時間に憧れたから、だ。


「己を愛するがごとく、汝の隣人を愛せ!」

うるさい!!」

「アッシュ、下がれ!」


 勢い余って突進してくる朝比を見て、警察学校で習った通りに体が動く。大人とはいえ相手は素人だ。それにずっと座りっぱなしのため細く、一般的な歳の男性からすれば非力だった。


「ぐあ……っ!?」


 首を絞めようとしたのか突き出た両腕を軽く捩じり、そのまま足を払う。タックルでは折れてしまいそうだったので、彼用に特別配慮した形だった。背中から倒れたのでそのまま体重を掛け身動きを封じる。


「公務執行妨害だ! ……悪いな」


 困ったように笑いながら、貫は手錠を掛ける。我ながら卑怯な手ではあると思うが、こうでもしなければ適当な理由が思いつかない。ふと、Nの最後の作品が目に映る。白い紙の上で健やかに眠る赤子。恐らくはもうこの世にいない嬰児は、この殺伐とした状況も何もかもを、肯定してくれているように感じた。


 許されたかったのだ。ただそこにあることを、受け入れて欲しかった。


 奇異の目に晒されることに嫌気が差したのだ。毒で穿たれた胸の穴には、もっと違うものを詰めるべきだった。貫や、アッシュのように。


「もっと自分を愛してやれよ。そういう意味だろ? 隣人を愛するってのは」

「……イズルにしては、珍しく正解です」


 この場を壊す余計な一言さえなければ、格好良く決まっていたのに。そこが少年らしい無垢で無邪気で無鉄砲なところである。長い人生の中でいつが輝いていたかなんて、後になって分かるものだ。自分の美しさを知らずに命を奪われるとは、何とも言えない、悲劇。





『先日、連続児童虐待および殺人容疑で逮捕された芸術家・Nこと空藤 旭比被告ですが、拘置所内で自殺しているのが発見されました』

「え!?」


 あの苦労はいったい何だったのか。あれから数日が経った朝のニュースから、それはそれは衝撃的なワードが飛び出してきた。刑が確定される前に死なれるとは、骨折り損のくたびれ儲けというやつだ。


 それでも、逮捕できただけマシなのだろうか。拿捕だほ当初は熱烈なファンから警察に批判が殺到した。彼の所業には皆、どこかで気付いていたのかもしれない。世の中ではNは、いつの間にかカリスマだった。


 無知は罪なり、知は空虚なり。


 との言葉を体現したような男である。


「捕まってからも名を轟かせたかったのでしょう。いまごろシスターと、仲良くやっているかもしれません」

「……相変わらず涼しい顔でブラックジョーク飛ばすなよ」


 こちらは何も変わらず、二人分の思い出を少しだけ残して、余生を送るだけである。




       偉大なる画家 編    終幕

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