水に絵を描く
「まあ、しようがありません。何でも訊いてください。でも、これを描きながらでもいいですか?」
貫が承諾をする前に、男は絵画に向き直った。ペンキ缶に入った鮮明な赤で細い絵筆を濡らして、続きを描いていく。肉片などはないので、本当にそれがさらりとした絵具に見えた。彼にとってはこの光景が通常なので、別段気にするでもなく血の筋を作っていく。
「逮捕状は、ないんですね? 任意の取り調べってところでしょうか? ……ああ、気にしないでください。実はボク、刑事ドラマとか大っ好きなんですよ!」
にこやかに、軽薄に、Nは血液の胎児を完成させていく。贋作も横行しているらしいし、彼が偽物であることを強く願った。普通に見える隣人こそ、狂気に満ち溢れているときがある。
ただやはり、現実はいつだってそこにあるだけだ。
「……貴方は、どうして、子どもたちを――」
「燃えるからです。心が熱く熱く、焦がれるからです」それは、いつか言った貫の美しさと似ていた。「幼少期の魂には生き生きとした美しさがある。この子たちが存在していた証を残すには、これしかないでしょう?」
美しさ、と彼は言う。ではその美しさとはいったい何であろうか。それぞれの定義が違うものを否定するのは骨が折れる。ベルの作品は美しくないと言い張った、彼の信条を打ち壊すには。途方もない気苦労と、カリスマであるが故の多方面への忖度が発生するように感じられた。
現実にはルールが存在するとは言え、貫は苦悶と葛藤を繰り返す。型に嵌められることでしか社会で生きる術はない。そう思って生きてきた彼を現在脅かすのは、そこからはみ出た部分だった。
「純粋無垢。何も学習していない少年少女は雑味がない。何物にも染まっていない。すべてを受け入れ、否定しないし否定もされない。それを、そのままで留めておくにはこうするしか方法はないんだ」
「そんな、ことは……ない、と思います」
「ないことは証明できないよ? それはね、悪魔の証明、って言うんだから」
――悪魔。
ふと鮮明に、炎に揉まれるアッシュを思い出した。肌の黒い彼は一見悪魔のよう。だが、いま隣にいるアッシュはあどけない少年で、天使に似た清らかさを放っている。どこかで絵画になっていた未来が存在するかもしれないと考えればぞくぞくした。
記憶に残っている人物が、ただの肉塊になる可能性。つい先日まで意志を持って言葉を交わしていた相手が、人形と化す光景。Nの場合はそれが一枚の絵になる。
「そ、それでも――」
「そうですね。自ら証明などしなくても、打ち立てられた正義が否定してくれますものね。決められた正しさの上を歩いていれば、誰にも攻撃されません。
反響する声は脳に直接響いているようで、誰が話しているのか不鮮明になる。背筋に悪寒が走り、肌と脳がびりびりと震える。
世の矛盾は見るべきではない。警察になってしばらくして、そう悟ったはずだ。調子の良さで蓋をして、気付いていないふりをしていた自分を、なかなかどうして、軽く揺さぶってくる。
「アートに制限なんてない。どのような絵筆を使おうが、どのような染料を使おうが、その作品には付随しない。モナ・リザの配色なんて、ほとんどの人が気にしていないでしょう? ボクのもそういうものだ」
確かに言われてみれば、恐らく一番有名な絵画であるにも関わらず、毛筆の種類も色の名称も何も知らない。いや、違う。翻弄されてはいけない。ここでの議論はこれではなかったはずだ。
確認すべきは本当に彼がNであるか。それに加えて大勢の子どもたちをどうしたのか、だ。
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